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本当の本当はどこにある?100通りの真実と失われた命。

Netflixで「アスンタ・バステラ事件」というドラマを見た。

過去にもこういうタイプのドラマをいくつか見たけれど、誰かが殺されて、犯人を探して、犯人を見つけて裁判になって、判決が出て収監されたっていう事実を脚色してドラマ仕立てにしたもの。

ストーリーは事実に基づいていて、犯人逮捕に至る経緯やそれに関わった人々の私生活、刑事や弁護士、検察なんかの意見の食い違いや、マスコミの事件を報道する姿勢なんかが描かれる。

こういうドラマはインタビュー形式で犯人本人や、その時関わった本物の刑事や弁護士なんかが出てきて進めるものと、今回みたいに犯人も他の人も役者さんが演技をして真実に近づくっていう感じのものがある。

まあそれだからドラマとかドキュメンタリーになるんだろうけど、今回のも状況証拠だけで、殺された女の子の両親が逮捕されるて、自白もないから真実がどこにあのかわからない。
おまけにお父さんはその時、殺害現場に居合わせたかどうかも立証されていない。

子供はは13歳で今回逮捕された夫婦が養子縁組した女の子。
大切に育てていた感じのシーンもたくさんある。

演技だとはわかってるんだけど検察側の人間が、事件当初から両親を、特に母親を犯人だと決めつけて捜査を行なっていく。
それも絶対母親が犯人じゃなくちゃいけないような感じで。

殺害時に使用されたと思われる薬やオレンジ色の紐、死体遺棄現場が夫婦が持っている別邸の近くだってこ事や、子供の足では歩いて行ける距離ではない事。
どれも決め手にかける。

そのうち夫婦のスマホに写っていた写真を引き合いに出して、検察側は父親が幼児性愛とか、若い女の子に対する性的な感情を持った人間なのではと言い出すし、マスコミにリークする。

その写真は女の子がバレエの発表会でバーレスクみたいな演出の舞台に立った時、それに合わせた大人っぽいメイクをして色っぽい衣装をつけたもの。
何十人もの生徒が同じ格好をしてステージに立っていたわけだから、そんなカッコしていてもなんの不思議もないのだけれど、そのままのメークと衣装で家に帰って、「疲れたー」と言って、家のソファーに足を投げ出してしなだれかかった姿だけを切り取られると、扇情的な雰囲気に見えてしまわなくもない。

結局、弁護士の頑張りも身を結ばず、陪審員全員一致で両親は有罪判決を受ける。

脚色がされてるわけだから、捜査過程も裁判もどこまでが事実に基づいているのかはわからない訳だけれど、ああいうドラマを見てていつも思うのは、自分が真実だと思っていることでも、他人から見たら本当のことなんてどっちに転んでもおかしくないんだなあって事と、陪審員は裁判で見聞きしたことしか判断材料にしてはいけないのに(もちろん裁判関係者は全てだけど)話し合いの時にマスコミで報道されていたことを持ち出す人間がいる。

その中に1人か2人「その話は裁判の時出た話ではないから検討に値しない」とまともな事を言ったところで多勢に無勢、結局、裁判が始まるまでの期間にされた報道で、少女の両親の事を自分の娘を殺したかもしれない極悪人という方向からしか見ていない人が8割いる集団な訳だから、どうにもならない。

集団の中で反対意見を持った半数以上を占める他人を覆せるほど、弁の立つ素人なんてそうそういない。

最後のテロップで、母親は刑務所の中で死んでしまうんだけど、それまで毎年その子が亡くなった日に女の子の死亡広告を掲載していた。「愛してる」と。

父親は今も収監されている。2031年までの刑期を務め上げるのは無実を証明するためだと言ってるとか。

見ていて、やっぱり本当は誰がどうして殺したんだろうと思う。
こんなドラマができるのも野次馬根性なんだろうかとも思うし、それを見てる私もそれねって思う。

でもその年のその日に、昨日まで勉強したりバレエを習ったり、ピアノを弾いたり宿題をしたりしてた普通の女の子が、死んじゃって、それも殺されたのは変えることのできないひとつだけの事実だ。

いつも思うけれど、犯人は自分が殺したことを知ってる。
なぜ殺したのかも知ってる。
それなのに人を殺すっていう行為に対して、他人はまだしも自分に嘘が吐き続けられるものなんだろうか。

こういうドラマの時は、大抵、犯人は捕まったけれど本当に犯人なんだろうか?っていう描かれ方をしていて、裁判制度や捜査に関する出来事に不手際があったのでは?っていう方向を示唆していることが多い。

以前、日本の映画で「それでも僕はやってない」っていう加瀬亮が主役の映画があったけど、あれ見た時も「怖いな」と思った。

自分のことはよく知ってるつもりでも、それを他人に伝えるのって本当難しい。
おまけに「伝えない」のも、難しい。





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