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自分を知るということ

私は自分自身がどういう人間なのか38年生きた今でもさっぱり分からない。
変わり者としての自認はあるのだが。
自分をマクロ的に時にはミクロ的に見ることを試みたけれども、果たしてその見えた自分は本当の自分なのだろうか。
よくビジネス本で「メタ認知を高めよう」と謳われているが、結局のところそれは人から見た自分や求められている自分の解像度を高めるだけで本来の自分自身を知ることとは違う気がする。

さすがに38年も生きていれば、人からどう見られているのかはなんとなく肌で感じる事ができる。
それこそメタ認知であるが、
「しっかりしてそう」
「真面目」
「丁寧」
「穏和」
お世辞である事を加味しても、どうやらそのように自分を評価していただいているようだ。
それもそのはず、だって外では(特に仕事面では)そう見てもらえるよう振舞っているのだから。
それが大人として生きるための手段だと思っているから。

その虚像の薄膜を纏った中身、つまり私本来の姿が私には分からないのだ。
しかし、その本来の自分の一部を垣間見た出来事があった。

SMだ。
そう、世間で言う女王様と下僕ないしご主人様とM女。

私はかつていわゆる女王様だった。
なぜそんなことになったかという過程は割愛する。
いずれまたの機会にでも。

下僕たちは、面白いほど本来の自分をさらけ出してくれる。
そのさらけ出してくれる姿はまさしく私が知りたかった本来の自分の姿だったのだ。
こんなに自分に素直である彼らを羨ましく思った。

彼らは私の普段から虚像の薄膜に押し込んでいた本来の私をスルスルと引きずり出してくれた。
しっかりしなければ、真面目でいなければと私自身にかけていた呪いを解くかのように薄膜をぶち破ってくれたのだ。

それに応えるように私も自分自身が隠し持っていた凶暴性、創造性、知性をすべて彼らへ注ぎ込んだ。
それは私なりの感謝のお返しでもあったのだ。

引退した今では燻った時にはSMバーへ行きイキイキと楽しんでいる。

その経験から分かった事が1つある。
人は誰しも自分が「何者かでありたい」のだ。
ラベリングされる安心感は社会に属する上で必要不可欠だと思う。

私は何者なのか。
私は変態だ。
それが分かった瞬間の心地良さはずっと忘れない。

もちろん変態である以外の自分自身もいるはず。
それは死ぬまで分からないかもしれないし案外すぐ見つけられるかもしれない。

それは運に任せるとして。

自分を知るということは自分が何者であるかという事なのだ。
自分自身の理解を深めることは自分を愛することでもある。


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