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アート写真を目指す人

自己紹介で申し訳ないが私は被写体から始まり、撮る側になった人間だ。
そして撮る側から携わる側へ、そして作家思考へ興味はどんどんプリントとして浮かび上がる写真、作品へと変わった。

裏方としては現像屋やギャラリーで勤務もした
そんな私が考える真剣なアートについて

藝大も出ていないし、有名な知り合いがいるわけでもないしがない一般人はアート写真をこう見ている。という論を書こうと思う

まず撮る側の人間としてスタートはアートを目指していないだろう。芸大生でもないただの素人が趣味を本気にした時、急にアートというものにぶつかる

一つの形として『これはアート写真だ』『私はアート写真を撮りたい』『アートなヌード写真』など

【写真界隈】では良く聞く話だ。
正直なところ作家はアートとしてほとんど造っていないと思う。"アート"というのは難解であるべき物を誰でも分かるようにした罪な言葉だと私は思う。
"ギャラリー"という言葉も嫌いだ。人はすぐに言葉を作り出す、そしてそれをジャンル分けしたがる
そうして上記のような『アート写真』たる言葉が生まれる

そろそろ本題を話そう
現代アートの世界で写真は絵や造形に敵わないだろう。それは今日訪れた、東京現代という国際アートフェアが物語っていた。
むしろこれを見てここに書くべきだと思った

正直な感想でいえば海外や東京のギャラリーが参加し現代の作家たちの作品見放題ってわけで凄く濃い時間だったが疲れるって感じ!

自分市場、全力の鑑賞力を注いだ気がする…
帰りは脳死。
基本的に写真の作家は少なかったのでほとんど知識のない絵や造形について考えながら見ていた。
なぜ現代アートと呼ばれるのか、
国の違いやバックグラウンドを考えると何となく自分の中で納得できた。

途中からフラフラしていた
霊感といったものが私にはもうないが、作品を目の前にすると熱が伝わり魂を感じ、当てられることがある。
これって写真ではあまり感じた事がないんだよな

指や思考が溢れんばかりにものを作り出す
写真はそもそも簡単に複製ができてしまうし、思考の領域がなかなか上へいかない。
ただの写真でアート写真?笑わせるなよ
広告の写真と趣味の写真と思考を孕んだ大きな像は違うはず。
私はなぜそこに線を引かないのだろうかと疑問を持っている
ただエロい事がしたい、裸の女が撮りたいそこだけの思考力に荒木経惟を語り出来栄えといえばただ他人のいいねで測る程だ。なぜこんな奴と一緒にされるんだろう。

そしてそいつは言うだろう『アート写真』と

もっと上へ行きたい純粋な気持ち
目を広げればきっといいものを生み出せるだろうという希望。
しかし現実とは残酷なものさ
写真には未来がある
未来しかないのだ。虚像も真実もただの理想も誰にでも写せてしまうのだから。
写真は1人で出歩く事もできてしまう

言葉も心も共について行かなければ勝手に書き換えられてしまうのだから。
私はやるよ、限界まで

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