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「新卒1年目デザイナー」だった20年前の行動と感情

5月。新入社員はいろいろと思いを巡らせる季節です。それに合わせてか、自分の新卒1年目のことを記事にする方もいらっしゃいます。

私も見習って当時のことを書いてみようと思います。昔は良かったとか悪かったとか。そんな目を向けるのではなく、少しでも今の気づきになるように。

最初に言いますと、私が新卒1年目で行ったことの6割は、電話の取次ぎ、画像のスキャンや切り抜き、色調補正などの雑用。4割は雑誌の定型レイアウトです。地味な仕事に見えますが、それでも重要な1年を過ごしたと感じています。

20年も前の話。もはや異世界です。会社(コンセント)のことが出てきますが、今とは全く状況が異なります。また、認識もれや勘違いも含まれている可能性もあります。あらかじめご承知おきください。


デザイン事務所なのに、教育してくれる!

2004年。ちょうど20年前。東京は八丁堀。株式会社アレフ・ゼロ(現在のコンセント)に、私は新卒入社しました。エディトリアルデザイナーとしてです。

当時の社員は80名ほどだったと思います。エディトリアルデザイン専業の会社としては日本最大です。デザイン実務を基礎から身につけるにはうってつけの環境でした。

当時は、一般に「デザイン会社」の感覚はなく「デザイン事務所」という表現が使われました。業界全体が今以上に小規模事業体の集合だったからだと思います。そして、当時はデザインコンサルティングは普及していませんので、「デザイン事務所」は制作の仕事だけをしている事業体ということになります。私が入ったアレフ・ゼロも制作だけでした。

新卒同期は私を含めて9名。記憶では1週間ほどの研修期間で名刺交換や電話の取次ぎなどを学び、すぐに現場配属となりました。デザイナーは今よりも職人のイメージが強かったため、ビジネスマナー研修があるのは画期的だと感じました。

なによりも、当時はデザイン事務所で3年ほど働いたらフリーランスとして独立するのが業界の王道。それなのに、会社が費用を出して教育してくれるなんて!と感動すらしたものです。業界全体に短期雇用が暗黙の前提。自分の能力は自分でなんとかするという自己責任論。デザイナーに人材育成を施す発想は薄かったと言えるでしょう。(製造業のデザイン部門や大手広告代理店などは別です)

ドッキドキの現場配属

当時、私が入社したアレフ・ゼロは十数誌の週刊誌や月刊誌のデザインを担当していました。9割が雑誌のデザイン、残り1割が広告や広報誌の仕事。すべてが紙媒体のデザインでした。

2004年当時はスマホやSNSはありません。ウェブサイトも今ほど充実していません。文化を伝え育む手段はもっぱら雑誌が中心でした。雑誌のデザインはまさに文化を牽引する仕事。誇らしく思ったものです。

イメージ画像:早朝の路上の風景。街灯が雨上がりの路面に反射している

配属されたのはパソコン系の月刊誌でした。正直、配属の瞬間はカルチャー誌が良かったなと思いましたが、実際には、私は大学でダイアグラムデザイン(情報を図や表などに視覚化するデザイン)を学んでいたので、図表が多いPC系の雑誌は、だんだんとやりがいを感じるものになっていきました。

そのパソコン雑誌の制作には、DTPアプリケーションとして当時新しかったAdobe InDesign 2.0を使用。他の雑誌はほぼすべて旧来のQuark XPressを使用していました。当時のQuarkはバグが多く、データが消えて仕事をやり直すようなことが日常的にありました。そういうことがないInDesignでありがたかったなと、そんなことも強く覚えています。

並行して、カメラ雑誌のデザインもヘルプで入っていました。有名なフォトグラファーのポジフィルムや紙焼きに触れる機会があり、感動したことを覚えています。

アートディレクターの一撃

その当時、会社では、雑誌のアートディレクター(以下、AD)を中心に組織上のチームがつくられていました。自分がつくADが組織上の上司でもある構図です。

私が配属になったパソコン雑誌のADは、雑誌以外にも大量の案件を抱えるバイタリティあふれる人。クリエイティブもさることながら、ロジカルにビジネス色の強い提案をするタイプ。面倒見が良く、頼りがいのあるADでした。良い上司に巡り会えたと思いました。

そんなADから、配属初日に言われたことは痛烈でした。

今このタイミングで衰退産業である出版の世界に入ってきてどうすんの?

これから頑張ろうとしているエディトリアルデザインを大局的に捉える必要がある。主観的にハマってはいけない。広い視野でものごとを観て変化しなければいけない。そんなことが、配属初日に一瞬で伝わりました。言われて驚きましたが、今にも生きる金言。本当に感謝しています。

その上司でもあるADは、編集者との打ち合わせや、新規の取引先に訪問する際には、よく私を連れ回してくれました。紙媒体をデザインすることが目的ではなく、相手のビジネス成果に立脚して対話する姿勢。そこで見聞きしたことや、移動中の電車やタクシーで教えられたことは私の糧になっています。

そのADは、会社の都合でなく個人の価値観で接してくれました。ありがたかったです。ただこれは、デザイン事務所自体が、会社の価値観以上に個の属人性やタレント性で回っていたことも大きいと思います。

夜型生活の関門

毎日の出社は昼12時すぎ。退社は22時をすぎる夜型の生活でした。リモートワークでなく毎日出社です。クライアントである雑誌編集者から毎日昼頃に情報が届き、それからデザインを仕上げるような進行であったため、作業が夜に傾きがちになります。

厳密にはデザイナーが夜側にシフトしなくても仕事は回りますが、終電ギリギリまで作業することが頻繁にあるため、なし崩し的に業務時間が遅めになっていました。クライアントもそれを見越して自分の仕事を組み立てます。業界全体でそんな進行が当たり前でした。

若かった自分は家庭もなかったため、「朝の通勤ラッシュを避けられてラッキー」くらいにしか思っていませんでした。ただ、「家庭を持つとシンドいぞ」という不穏な空気を感じていたのが正直なところです。

今思えば、夜型という時間的分業はデザイナーにとってはかなりのデメリット。業界を超えたネットワーキングはなかなかに難しい。SNSもありませんので、時間的分業は情報の孤島になりやすい。世間知らずにも、ビジネス音痴にもなっていきます。

夜型であることを理由に退職したメンバーもいました。夜型というのはデザイナーであるためのハードルでも足かせでもあったと思います。

イメージ画像:早朝の路上の風景。道端の植物が鬱蒼と茂る。

寄せては返す波のよう

担当したのは月刊誌でしたので、毎月同じような流れが続きます。毎月の作業終了日の前の2週間はかなり多忙。月に2・3日は必ず休日出勤が発生していました。それ以外はゆるい進行で、別の仕事を手伝いながらのんびりと。先輩デザイナーと散歩に出かけたりといったのを覚えています。

ひと月の間の忙しい時期を「ヤマ」、そうでない時期を「タニ」と呼んでおり、一ヶ月で「ヤマタニ」のリズムが繰り返される感覚です。年間を通して「ヤマ」の週は、遊びや旅行の予定は入れられません。プライベートにも影響します。

ちなみに、そこから出版不況によりデザイン料が段階的に下がっていき、デザイナーの仕事量が増えていきます。のんびりとした「ヤマタニ」の感覚はしだいに薄れ、「ヤマ」しかない状況になっていきます。新卒だった2004年から数年後に起こることです。

はかなくも美しいヒエラルキーの時代

配属先の当時のデザインチームは6名。ほぼ同じリズムの仕事、1日に10時間以上も同じ空間にずっといます。休日出勤も同じ日。自然とチームの密着度も上がります。よく皆で飲みに行っていました。強い信頼感で結ばれたチーム。良い同僚に恵まれた楽しい思い出です。

業界一般に、当時のデザインチームは今よりもヒエラルキーが強めです。ADは絶対的に偉い存在であり、ADじゃなくても年次によって暗黙の序列が生じます。年次の順番で重要な仕事を任される傾向もあります。

新卒だった私は1年上の先輩にはなんとか声をかけられますが、それよりも上の存在には、しばらくは恐れ多くて自分から声をかけることもできませんでした。入社半年くらいまでは常に緊張。そんな空気感です。

そんなヒエラルキー強めな職場環境ですが、嫌と思ったことは一度もありません。みんなから可愛がってもらえる、じっくり相談に乗ってくれる、指導してくれる。こんな環境です。一方で、デザインワークでは、クオリティを損ねない限りは自分の自由にさせてくれる。そのフォローもしてくれる。

ひとつ上の先輩は私のチューターでもありましたが、隣の席から私のディスプレイを定期的にのぞいてアドバイスをしてくれる。電話対応を隣で聞いてダメ出しもしてくれる。だんだん慣れてくると、良い意味で口出しも控えてくれる。私の成長の起点を作ってくれた、厳しくもあり優しい先輩でした。

新入社員の席はだいたいが通路側にありました。いわゆる下座の位置ですが、往来が多く目立つ席です。何か問題があれば周囲がすぐに違和感に気づける配置。カッコ悪いデザインをしていると、周りからの視線がビシビシと刺さる。じっと汗ばむ、張り詰めた環境です。

この風景は、おそらくデザイン業界の師弟関係的な文化の一端です。

2004年当時は、デザインする対象が固定的でした。エディトリアルデザインは、当時、写植からDTPへの移行といった技術的変化は終えつつも、基本的なノウハウは変わらずにずっと続いているものでした。固定的な業務の中で上が下を教え、技術を伝承するそのループが回り続けていました

当時は、知識を広く伝えるプラットフォームは本や雑誌くらい。今のような「共有」の概念がそもそもなく、知識は「教える人」が教えたい時に、「教えてほしい人」に個別で行うものでした。誰でも情報にアクセスできる環境はありません。必然的に「教えてほしい」人は、「教えてくれる人」の仕事を支援する中で、仕事の知恵を授けてもらうという上下の構図になります。

デザイン業界全体が、属人性が強くなかなか自分の知識を教えない。社内外の勉強会はまったくありませんでした。なので、新人は目の前の仕事から貪欲に知識を吸収しようとする。それしか成長の手段はなかったように思います。

以降、ITの進化でシェアの概念が強まると、どんどんと知識が民主化されるように。同時に、UXデザインやサービスデザインなど、フラットな協働をベースのするようなデザインに変化していく中で徒弟関係を前提とする環境は崩れていきました技術の蓄積や伝承が起こる前に技術自体がどんどん変わっていってしまう。そういう変化の急激さも背景にあったと感じます。

今はフラットになった。フラットは良きもの。ヒエラルキーは悪しきもの。そんな単純なものではありません。

若手のデザイナーにとっては、先達からの師弟的な伝承年長者の責任感を背景にした指導を受ける機会がなくなりました。ヒエラルキーの中での、愛され見守られる「自由な表現」がなくなり、上も下も関係ない自由な表現の競争にさらされることにもなりました。

もちろん、ヒエラルキーが良きものであると言いたいわけではありません。今の良さもありますので、どっちもどっちでもあります。20年の時間軸ではこんな変化も観察できるというまでです。

イメージ画像:早朝の路上の風景。工事現場の重機。

電話の取次ぎ、社内営業と競争

新卒デザイナーの具体的な仕事はどんなものであったか。まず配属始めの重要任務であり、一年を通して「新人の仕事」とされるのが電話の取次ぎです。この時代は社員が社用携帯を持つことはなく、仕事のやり取りは固定電話でした。

「3コール以内に電話に出よ」。これは社会一般の常識でしたが、私は1コール以内で取っていました。私だけでなく同期全員がそうでした。むしろ、早すぎて電話口の相手が驚くので「1コールは待とう」と先輩に言われたほどです。

電話を取ったらそのまま対象の社員に取次ぎますが、よほど遠くない限りは内線や転送機能を使わずに、先輩の席や休憩室までダッシュで行き対面で伝えていました。そちらの方が早かったこともありますが、実際は、自分の顔と名前を覚えてほしかったからです。また、すばやく丁寧に対応し、1ミリでも信頼貯金を積み上げたい狙いもありました。

誰よりも早く電話を取る。当時は口には出さずとも、同期で競争意識はあったと思います。ある同期メンバーが重要な仕事を任された時には、悔しく感じたことも覚えています。

当時は就職氷河期。美大を卒業してもデザインの仕事に就けない人も多かった時代。普通にしていても良い仕事にありつけない。そんな危機意識を持っていたことは間違いありません。たまたまデザイナーになれたけども、すぐ転落してしまうかもしれない。指名されないデザイナーは食べていけない。その生き残り根性が、ある種の競争心になっていったのだと感じています。

大事なことは、耳をすませば

電話の取次ぎ以外で最も多かった仕事は、画像の切り抜き、色調補正です。それだけをひたすらやる日も、ざらにありました。

画像切り抜きはすべて手動で。月刊誌1号あたりで数百点の画像の切り抜きがありますので、その多くを新人である私が担っていました。色調補正もその分だけ発生します。

こういった作業は最初のうちは慎重に進めますが、慣れてしまえばあまり考えなくても出来てしまいます。この作業だけを淡々とこなしていては自分の成長には繋がりません。

ですので、目と手は画像処理に集中しますが、耳だけは周囲の会話に聞き耳を立てていました。ADのデザインレビューや、電話での編集者との会話など盗み聞きをしていたのです。特に電話での言い回しは、時折メモを取っていたほどです。重要な論点に対して相手の視点を織り交ぜて説明する話し方は、そのまま自分も真似していました。

さいわい、自分の席はオフィス中央の位置でしたので、耳をすませばいろんな先輩の会話が聞こえてきたものです。先輩それぞれのスタンスや態度を、相対的に感じることができたことも大きかったです。

4分の1人前、エディトリアルデザイナー

画像処理以外には、「定例ページ」と言われる、毎号同じような構成のページのレイアウトを行いました。フォーマット性が強く、デザインする自由度も難度も低いページです。

それでも、入社して初めてデザインしたページが実際に雑誌になり、それを書店で手に取った時は感激しました。SNSがない時代、自分が手を加えたものが世に出ることはプロしかできないことでした。雑誌の奥付に自分の名前が載ることも、達成感につながるものでした。

入社1年目の終わりの3月くらいに、裁量が多い特集ページや付録冊子を担当しましたが、新人1年目の目立ったアウトプットはそれくらいです。一人前のエディトリアルデザイナーには程遠く、4分の1人前くらいの実力でした。

DTPオペレーション、レイアウト、日本語組版、和文欧文書体の活用くらいは概ね習得できました。製本の仕組み、用紙選択、特殊印刷や加工、イラストやフォトディレクション。このあたりは1年では経験がなく、頭で理解している程度です。入社後1年というのはこれくらいです。

イメージ画像:早朝の路上の風景。路上の植物。ピンク色の花。

普遍的な協働の能力

こういったデザイン制作の技術習得よりも重要なことは、編集者とのやり取りにあったと思います。

編集者の意図を正しく理解し、自分がデザインしたものを正確に伝えること。デザインする前に想定されることを伝えたり提案したりすること。今思えば、こういったことを実務で学んだことが、とりわけ重要だったと思います。

編集者とデザイナーは基本的に1対1で対話します。まだオンライン会議やチャットは存在していません。1対1の電話です。責任を持って一人だけで対応します。どんなことでも逃げずに自分がやらなければいけません。そういった姿勢を身につけることもできました。

また、雑誌ですので編集者もある程度固定しています。同じ編集者と何度もやり取りしますので、だんだんと信頼関係も生まれてきます。違う立場からお互いの主張をする中で、新しいものが生まれる経験もしていきます。

ある意味では、ビジネススキルでもありますし、コ・クリエーションの技術でもあります。

私は、今現在はサービスデザインやデザインマネジメントが主な仕事です。本や雑誌をつくる機会はほとんどなくなっていますが、情報を整理しストーリーを組み立て伝わるものにする技術は、仕事の種類を問わず普遍的なものと感じています。

ですが、それ以上に活用できるのが新人時代に学んだ協働の能力や態度です。むしろ、時代が進むにつれ、より重要なものになりました。エディトリアルデザイナーは編集者と話す時間が長いもの。今思えば、この能力をしっかり磨けたことが、最も重要なことだったと思います。

2024年の世界から思うこと

はやくアートディレクターになりたい。

新入社員1年目に思っていたことは、これしかありません。デザイナーの上にADがいる。目の前の仕事で技術を磨き、上を目指す。今から思えばシンプルです。同期も同じだったと思います。

特別な不安や迷いの気持ちはありませんでした。デザインの仕事の種類は少なかった。デザインの情報も雑誌でしか得られなかった。ただ憧れを募らせて一本道を進むのみです。

転職するにしても、その時代は同業他社かフリーランスしか選択肢はありません。プロの技術を身につける前に転職することは現実的ではありません。

当時調べたデザイナーの平均給与は400万円くらい。世間一般の平均給与を下回っていたことを覚えています。前に述べた「夜型生活」もあります。私の場合は厳しい出版業界に飛び込んだ経緯もあります。不遇を覚悟してデザイナーになった自覚を持っていました。

不安はデザイナーであることの前提でした。不安と引き換えに服装の自由があったり、ある程度奔放なふるまいが許された背景もあったと思います。空気のような当たり前の不安。これが幸せなのか不幸なのか、時代を横断して考えるのもナンセンスです。

徒弟的な専門職から総合職的なデザイナー像へ。個から集団へ。デザイナー供給過多から需要過多へ。いろんなグラデーションがありました。周囲を見渡すと、デザインの現場の過酷さは薄まった印象です。逆に情報の取捨選択がしんどくなったようにも見えます。

そんな変化の中でも、私は新人時代に抱いた「デザイナーとして生き延びる」執着をずっと持ち続けてきました。

人口減少社会とはいえ、デザインの現場でAI活用が進展すれば、デザイナー需要過多から供給過多にかたむく日も来るかもしれません。その時にコアとなる技術や態度は何であるか、冷静に見つめる必要もあります。

イメージ画像:早朝の路上の風景。黄色の花が鮮やかに映る。

この記事に掲載している何枚かの写真は、当時の徹夜明けの帰宅風景です。会社から駅までの道のり。早朝の雨上がり。誰もいない明け方の街。ただただ綺麗と感じて写したものです。徹夜してツライというよりは、仕事を終えた達成と充実の光景です。

今回紹介した私の記憶から、デザイナーとして生き延びるためのなんらか気づきを得ていただければ幸いです。消えてしまったデザインの習慣の断片を、寄せ集めて今に活かすこともできるかもしれない。

反面教師でも構いません。わずかでもヒントになれば、先達としての責任を果たしたかなと。そう思えます。



※今回の記事では、残業や休日出勤や徹夜など、物騒な単語が出てきました。現在のコンセントはそのような状況は改善しています。詳しくは下記の記事をご覧ください。

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