見出し画像

【和訳】独ソ戦:1943年3月、ラウス軍団の“後手からの一撃”(米陸軍資料“GERMAN DEFENSE TACTICS against RUSSIAN BREAKTROUGHS”第2部第1章)

GERMAN DEFENSE TACTICS against RUSSIAN BREAKTROUGHS
※画像をクリック/タップで原文PDFにアクセス可(無料公開)

はじめに

このnote記事は、米陸軍の戦史資料『ロシア軍の突破に対するドイツ軍の防御戦術』(米陸軍軍事史センター、1951年)の第2部第1章を日本語に翻訳したものです。

この戦史資料は、序文によると、「ドイツ軍報告シリーズ」の一つとして編まれたもので、著者はドイツ国防軍(第二次世界大戦時のドイツ軍)の将官と参謀本部勤務将校とのことです。著者陣の名前は伏されていますが、筆頭著者に関しては、その経歴が記されています。その記述から、この資料を執筆した中心人物が、おそらくエアハルト・ラウス陸軍上級大将(最終階級)であると推測できます。ラウス将軍は1943年以降、ドイツ装甲部隊の軍団長、軍司令官の任に就いており、ドイツ軍の防御戦術を語るに相応しい人物の一人であると思われます。

この資料の部分訳を読むうえで、いくつか注意してもらいたい点があります。一つは、この文書はドイツ軍人の記憶に基づいて執筆されたものなので、不正確な記述が含まれているという点です。これに関しては、訳者の知識の及ぶ範囲で、訳註を付けました。ただし、訳者は軍事史(歴史)の専門家ではないため、訳註自体も不完全なものであることを、あらかじめ述べておきます。

また、二つ目の注意点として、この資料は、第二次世界大戦当時のドイツ軍人の視点で書かれているという点があります。このような偏りがあることを前提にご一読ください。

三つ目は訳文中の用語等に関するものです。この翻訳には、「連隊」「師団」といった陸軍の部隊単位に関する用語が出てきます。また、戦況図には部隊を示す記号が使われています。これらに関して、当初、訳註で解説することを考えましたが、注釈の文字数がかなり多くなる等の理由で、解説を付けることは諦めました。ウィキペディア日本語版にこれらの事項の解説記事が掲載されていますので、必要に応じて、参照してください。

最後に、地理的名称はロシア語の発音に近似するカタカナで表記しました。また、今回、訳出した箇所はウクライナ東部が作戦地域となっているため、必要に応じて[  ]内に、ウクライナ語発音に近いカタカナ表記も加えています。なお、訳者はロシア語とウクライナ語に精通していませんので、カタカナ表記として不適切なものがあるかもしれません。その点も、あらかじめご了承ください。

日本語訳

第2部「積極的防御」第1章「敵正面への反撃」

突破口を封印する、もしくは、突破前進を除去するための最もシンプルな方法の一つが、敵軍正面への反撃である。通常、この種の反撃は、突破が小規模で、局地的に収めることが可能な場合にのみ遂行できる。また、突破口の両側面が確保されている場合も遂行可能だ。さらにいえば、敵軍による間隙の拡張が可能になる前に、すばやい反撃の一撃を加えて裂け目を塞ぐには、十分な予備戦力が投入できる状態でなければならない。一旦、敵軍の突破に伴う進撃が明確に認識されてきたら、予備戦力を脅威の及ぶ地区の後方近くに動かすことが最も効果的である。予備戦力は即座に効果的な展開ができる程度、近くに置いておかねばならないけれども、最前線から十分に遠ざけておくべきで、それは移動の自由を早期に失わないようにするためだ。予備戦力の集結地点において、予備部隊は敵の目と航空攻撃から隠蔽されておかねばならず、敵側突破戦力の火力にさらされることはあってはならない。当然のことながら、予備戦力には、最大限の火力と移動力を持たせるべきだ。それを踏まえると、この要件に最も適合するのは装甲師団[*1]である。なぜなら、装甲師団は極めて大きな打撃戦力と集中的な火力を組み合わせているからだ。突撃砲[*2]によって支援された歩兵は、突破が局地的な場合に限って、多くの場合、状況を回復することができるだろう。

敵側が反撃の影響を感じる前に、突破口の両側面の防御が崩壊する、突破口が広がる、敵の攻撃によって領土が深く奪われるということが生じる場合、反撃はよりいっそう困難なものになる。しかし、このようなことが生じた場合でさえ、予備戦力の戦術的まとまりを維持しておくのが最善だ。そうしておくことで、一旦、予備が投入されれば、予備部隊は強力な一撃で敵歩兵を蹴散らかし、以前の戦線上に位置する重要地点を奪還することができる。その後にのみ、縮められた間隙を閉じる動きを、迂回行動によって試みるべきだ。側面が崩壊した際の対応措置として、そして、迂回行動の支援として、突破地区の守られていない側面を砲兵で防護し、その側面の背後に小規模な局地的予備戦力を集結させておくことは、有効な方法となるだろう。多くの場合、突撃砲に支援された1個歩兵中隊が、この目的に適することになる。

主力反撃戦力の攻撃正面を広げることによって、広がった突破口の全域を塞ごうと試みることをするならば、それは誤りである。このような条件で反撃が行われる場合、この反撃は十分な攻撃力を持てないだろうし、打撃を与えられないまま、任務目標の達成以前に失速してしまう危険に陥ることになるだろう。その一方で、予備戦力の投入が遅れることは、突破口が広がるという結果を招くことになる。そうなった場合、反撃側戦力はまったく新しい状況にぶつかることになり、その状況に対処するのは不可能になるだろう。予備戦力投入の遅延は、多くの場合、甚大な損失という結果を招く。そして、このような損失は、さらに予備戦力を投じることによってしか、埋め合わせることができない。

戦線上の広域な範囲の崩壊(30マイル[約48km]以上)を引き起こす大規模突破に敵軍が成功したときはいつでも、敵軍正面への反撃で開口部を閉じるのに、局地的な予備戦力だけでは不十分であることは常である。この幅の間隙に師団を個々に細切れ投入することは、ただ単に殺到する敵軍の進撃に飲み込まれるという結果を招くだけになる。数個軍団で構成された強力な戦力のみが、敵の勢いを食い止めることができ、防衛網の奥深くへの敵軍の進撃を停止させる、もしくは、反撃によって間隙を塞ぐことができるだろう。だが、このような強力な戦力を他の戦区での任務から解放し、突破が生じた地区に移動させるには、通常、かなり長い期間を要する。その期間に試みる必要があるのは、間隙の距離を狭めることであり、具体的には後退して防衛線を短くすることと、突破口に隣接する地区での抵抗を強化することを行わねばならない。

ハリコフ[ハルキウ]とベルゴロドを奪還したドイツ軍の攻勢[*3]は、敵軍正面への反撃の好例である。1942年11月23日までにロシア軍は、スターリングラード[現ボルゴグラード]周辺で包囲環を閉じてしまった。そして、この戦争で最も強力な冬季攻勢を開始した。迅速に進撃したソ連軍は、チル川とドン川沿いに展開したルーマニア、イタリア、ハンガリー各軍の部隊を、瞬く間に消耗させ、ドイツ軍戦線に350マイル[約563km]の間隙を開けた。この開口部の距離は、第一次世界大戦時の西部戦線の全長に等しい。当初、同盟国軍と衛星国軍の支援として投入された、孤立した複数のドイツ軍師団のみが、コルセットの支柱の如く、ソ連軍の進撃の前に立ち塞がった。ドイツ軍予備戦力の主力には装備が充足した5個装甲師団が含まれていたが、これらの部隊はヨーロッパ西部で拘束されていた。なぜなら、連合軍の北アフリカ進攻があったからだ。これらの師団の一部は、のちに東部戦線にあらわれることになる。コーカサス方面のドイツ軍の各軍は、退路を遮断される危険にさらされ、撤退を強いられていた。このコーカサス方面から撤退してきた戦力のなかの自動車化部隊、主に第1装甲軍は、ドイツ軍ドン軍集団[1943年2月12日に南方軍集団に改編]の南翼を強化する目的で、ドネツ川沿いに投入された。ソ連軍が開けた開口部の北側では、ドイツ第2軍がヴォロネジ市とドン川戦線からの離脱を余儀なくされ、同軍の南翼は西へ西へと押し戻されていた。段階的に、東部戦線全体の3分の2が揺さぶられ、崩れ始めていった。ソ連軍の圧力は継続的に増していき、唯一の解決策は、さらに西へ西へと後退することだけだった。ソ連軍は急ぎ再編成した師団群を、終わりのない流れの如く注ぎ込み、同軍の進撃は続いた。敵側の3個軍はハリコフ[ハルキウ]に向かって求心的に動き、1943年2月中旬に集中攻撃を行い、この重要な交通の要衝の占領に成功した。

地図2
※画像が不鮮明に表示される場合は、以下URLからPDF版にアクセス(無料公開)し、巻末の地図を参照すること
https://history.army.mil/html/books/104/104-14-1/cmhPub_104-14-1.pdf

(地図2参照)  だが、ポルタワ[ポルタヴァ]を目指したその後のソ連軍の突進は、勢いが弱まり、同市手前30マイル[約48km]の地点で停止するに至った。その理由は、ソ連軍部隊の消耗が激しく、これ以上続行できなくなったからである。今やソ連軍の希望はすべて第3戦車軍に注がれた。同軍はソ連で最も有能な戦車専門家であるポポフ将軍によって指揮されていた[*4]。2月中旬、ポポフは事実上無抵抗でドニエプルペトロフスク[ドニプロ市]から北西の方向で前進した。この動きが、ドニエプル川[ドニプロ川]湾曲部への到達を意図しているのは明白だった[*5]。ポポフの目標は、ドイツ軍がドニエプル川沿いに防衛線を構築してしまう前に、この川を渡ることにあった。だが、すぐに明らかになったのは、ポポフの軍には必要とされる突進力が失われていたということだ。その間、ドイツ軍は、敵攻勢正面に向かって反撃を仕掛けるための強力な戦力をまとめていた。

西方から鉄道輸送されてきた各師団が、臨時編成のラウス軍団によって構築された防御スクリーンの背後に位置するポルタワで降車していた。このラウス軍団は、3個歩兵師団と、第3SS装甲師団から分遣された偵察連隊[*6]で防衛線を保持していた。また、第3SS装甲師団偵察連隊以外の機械化・自動車化部隊として、グロスドイッチュラント装甲師団と総統護衛大隊[*7]が存在しており、これらは、前線に近い、ポルタワ西方の待機地区に配置された。これら部隊は展開能力の高い予備戦力を形成しており、敵軍がポルタワを、北側の間隙を通過して包囲する進撃によって占領しようと試みる際に、投入されることになっていた。ソ連軍は実際にポルタワの側背へと回り込もうと試みた。だが、この危険は、偵察連隊と、空軍戦術部隊に支援されたドイツ軍歩兵によって、取り除かれた。この動きをとっている間に、敵軍は弱体化と消耗を示す決定的な兆候を示すようになり、大規模な反撃を仕掛ける時期が近づきつつあるようにみえた。

雪が溶け始めてきたため、迅速な行動が要求された。泥濘化が始まり、早々にあらゆる移動は不可能になるだろう。とはいえ、地表より深い層はしっかりと凍っていた。夜の寒さは融雪の進行を食い止め、早朝の数時間は移動に好条件であった。そうこうしている間に、戦闘で疲弊した最前線のドイツ軍将兵にはちょっとした休息が与えられ、新たに到着した補充人員と装備を馴染ませる機会が生じた。

1943年3月10日までに、反撃部隊の進撃準備は整った。重点は南翼に置かれた。ここの地形状況が装甲部隊の展開に好ましいものだったからだ。この地点にグロスドイッチュラント師団は集結するよう命じられ、ヴァルキ[ウァルキ]に向かって攻撃する任務が与えられた。同師団の左側に隣接するのは第320歩兵師団で、2個師団の全火砲に軍団砲兵隊の支援も加わった準備射撃を実施したのち、同歩兵師団は進発した。この歩兵部隊は敵陣地を貫き、ポルタワ〜ハリコフを結ぶ主要高速道路上の敵側防御拠点を一掃した。そして、ポルタワの先で流れる増水した小川を渡って押し進んだ。この普段なら取るに足らない水流は、突然荒れ狂う急流と化してしまっており、1マイル[約1.6km]だけ前進できたのち、攻撃の予期せぬ停止をもたらした。グロスドイッチュラント師団の戦車隊は、さらに上流でこの急な流れを克服しようと試み、数時間後、ついに渡河に成功した。80両を超える戦車がこの小川東岸の敵側第二線陣地を突破し、ヴァルキに向かって突進した。この小川にはすぐさま仮設橋が架けられ、攻撃に勢いが戻った。グロスドイッチュラント師団と北側で隣接する地区では、第167歩兵師団と第168歩兵師団が激戦の末、敵側陣地線を越え、いくつかの村落を占領し、左翼に位置する第51歩兵軍団[*8]との接触を確立しようと試みた。増強偵察連隊は、第320師団と第167師団の間に投入され、森林地帯に配置された敵軍陣地へと囲むように近づき、森林のなかに深く浸透していった。この部隊の戦車隊は、森林地帯と並行して走る鉄道線に沿って前進した。午後までにラウス軍団は、担当戦線全体で進撃を続けるようになり、粉砕された敵軍が立ち止まれないようにした。

反撃の2日目、ラウス軍団は全戦力を投入し、ボゴドゥホフ[ボホドゥヒウ]に対する求心的な集中攻撃を敢行した。この目的のために、軍団の展開地域は10マイル[約16km]へと狭められた。もうすでに軍団の展開幅は、反撃初日の終わりまでに60マイル[約97km]から25マイル[約40km]へと縮小されていた。ボゴドゥホフを保持する敵戦力は、空軍に支援されたドイツ軍地上部隊の猛攻に抵抗できなかった。短時間の市街戦の末、この町は陥落した。その後、ラウス軍団は第1SS装甲軍団[*9]の先遣部隊との接触を確立した。SS軍団はボゴドゥホフの北東15マイル[約24km]に位置するオルシャニ[*10]に入ったところだった。オルシャニ地区の強力な敵戦力を殲滅したのち、SS装甲軍団はハリコフを包囲し、敵軍の北への退路を断つために、東へと進行方向を変えた。

ラウス臨時軍団の主戦力は、第51軍団との接触を確立して、アハツィルカ[アフトゥイルカ]地区の敵軍を孤立化させることを企図し、北進する予定であった。その間、第320師団は、第1SS装甲軍団の方向転換運動の防護スクリーンを展開する予定だった。増し続ける泥濘と増水し続ける川の流れが、一歩進むごとに前進を遅らせた。増水したヴォルスクラ川、ウディ川[ウドゥイ川]、ロパン川沿いの全橋梁は破壊されたが、歩兵部隊と戦車部隊は日々目標を達成することができた。だが、多くの自動車と馬匹牽引式野砲は道中、泥に足をとられてしまった。ロシア軍のかなり軽量な野砲とパンジャ荷馬車[農家が用いる荷馬車]はこの困難な大地を切り抜けることができ、ドイツ軍の進撃から逃れてしまった。

グロスドイッチュラント師団が主攻勢軸を引き受け、ヴォルスクラ川上流に達し、第167師団がその近くを追随した。ドイツ第2軍の南翼に位置する第51軍団の遅れは甚だしく、第51軍団と接続することができず、アハツィルカ周辺の敵軍は包囲から逃れてしまった。作戦を継続し、トマロフカへ向けて進撃するためには、戦車部隊が前進方向を変更して、東方へと向きを変える必要があった。側面防護のために北側の展開線を保持する役割は、戦車部隊から第167師団隷下部隊に置き替えられた。トマロフカへの前進は遅れた。なぜなら、東に向かって支配地域を広げていくことは、自動的に開放された側面が広がることになるからだ。

この東方に向かう進撃の2日目までに、強力な第167師団はほぼ完全に側面沿いから動けなくなった。東方への進撃を再開できるようにするには、第51軍団の到着を待つ必要があった。この到着遅延の主たる理由は、ドイツ中央軍集団とドイツ南方軍集団の作戦担当領域を区切る境界線が、ヴォルスクラ川に沿って引かれていたことにあった[*11]。この二つの軍集団の連携調整に責任をもつのは陸軍総司令部であったが、その所在場所は戦線から遠すぎていた。結果、その意思決定は、前線のすばやい変化に対応するには遅すぎた。最終的に陸軍総司令部は、第51軍団に対して、第167師団を救援するように命じた。そして、前進は継続し、グロスドイッチュラント師団はトマロフカに入城した。この町に近づく間に、同師団は相当数のソ連軍戦車を撃破したが、すでに泥のなかにはまり込んでいた、多くの無傷の戦車は回収された。そして、これらの戦車はかつての味方に対して使われた。

ティーガー戦車がソ連軍のT-34と初めて交戦したのは、この作戦行動中のことだった[*12]。交戦結果は、ドイツ軍にとって喜ばしい以上のものだった。例えば、装甲火力拠点としての役割を与えられていた2両のティーガーは、T-34戦車隊1個を撃破した。通常、ソ連軍戦車はこれまで安全とされた1,350ヤード[約1.2km]の距離で待ち伏せし、ドイツ軍戦車が村から出て、その身をさらすのを待っていたものだった。そのタイミングで、ソ連軍戦車はドイツ軍戦車を砲撃するわけだが、そのとき、パンター戦車でさえまだ自身の射程圏外だった。今まで、この戦術は絶対に間違いのないものだった。だが今回、ロシア軍は計算違いをすることになった。村から出ずに、ティーガーはしっかりとカモフラージュされた陣地に配置され、その長射程を十分に活用した。瞬く間にティーガーは開豁地に居座っていた16両のT-34を叩きのめした。そのとき生き残ったT-34は向きを変えて動き出したが、2両のティーガーは逃げるロシア軍を追撃し、18両を超える敵戦車を屠った。ティーガーの88mm徹甲弾は恐ろしいほどの効果を発揮し、多くのT-34から砲塔をもぎ取り、数ヤードも先に吹き飛ばした。ドイツ兵の間ですぐに次の造語が流行った。「ティーガーと会うといつもT-34は帽子を上げて挨拶する」。このドイツ軍新型戦車の働きは、士気を大いに上げた。

さて、ラウス軍団のさらに南方では、ハリコフが4日間の市街戦の末、SS第1装甲軍団によって制圧された。その市街戦の間、ティーガー戦車は再び決定的な役割を演じた。第2SS装甲師団は北へと向きを変え、ベルゴロドに進み、これを占領した。この結果、トマロフカの先へと進撃したグロスドイッチュラント師団とつながった。ハリコフとベルゴロドの2都市の占領は、ドネツ川沿いに形成された新たなドイツ軍前線の安定化に寄与した。この2都市の間でドイツ軍の2個師団が、ドネツ川西岸に到達しようと、泥のなかをもがき進んだ。

ドネツ川を渡って逃れられたソ連軍部隊は酷い損害を被っていた。ドイツ軍偵察部隊は、川を渡って進んだが、遭遇した抵抗は無いに等しいものだった。攻撃に参加したドイツ軍師団は進撃継続能力を完全に有してはいたが、戦況全般と進行する泥濘化により、進撃の継続は不適切なものになった。

今回の敵正面への反撃は、その目標を達成した。4カ月間、閉ざされることのなかった戦線上の裂け目は塞がれ、ソ連軍最大の冬季攻勢は止まった。これ以上にない大敗北を喫したのち、ドイツ軍はドネツ川に支えられた一貫した戦線を、再び確保することができたのだ。

訳註

※1
戦車部隊と、それを支援する自動車化・機械化(装甲車両装備)歩兵部隊を軸にして構成された陸軍部隊。機甲師団、戦車師団と訳されることもある。

※2
歩兵部隊の火力支援目的で開発された自走砲の一種。対戦車戦闘においても有効な兵器だった。

※3
第二次世界大戦の東部戦線(独ソ戦)において、1943年2〜3月に行われた第3次ハリコフ会戦の最終段階。

※4
この記述は執筆者の記憶違いであると思われる。ポポフ中将が指揮していたのは、ソ連南西正面軍の正面軍機動集団(ポポフ機動集団)と呼ばれる軍規模の部隊である。なお、第3戦車軍(ヴォロネジ正面軍)司令官はルイバンコ中将。ポポフ機動集団を含む南西正面軍は当初、スターリノ[現ドネツィク市]を経由し、マリウポリに向かう予定であったが、ドイツ第1装甲軍の抵抗に遭い、進撃は頓挫。2月中旬から進撃方向を西に変更し、ドニエプル川[ドニプロ川]の渡河点であるドニエプルペトロフスク[ドニプロ市]とザポロジェ[ザポリッジャ市]に向かうことになった。

※5
実際にドニエプル川へ進撃していたのは、ソ連南西正面軍隷下の第6軍と第1親衛軍。

※6
ナチスの治安組織である親衛隊(SS)の軍事部門(武装SS)に所属する部隊の一つ。正規軍とは別組織であるが、戦場では、ほとんどの場合、正規軍の指揮下で作戦任務についた。1943年3月時点の名称は第3SS装甲擲弾兵師団(西側でいう機械化歩兵師団)だったが、実質的には装甲師団であり、通常の装甲師団以上の戦力を有していた。なお、同師団に偵察連隊は存在しておらず、ここで述べられている連隊は、偵察大隊を基幹として戦車等の各種部隊が配置された連隊規模の戦闘団(Kampfgruppe)のことを指していると思われる。

※7
グロスドイッチュラント師団は、ドイツ陸軍の精鋭部隊の一つ。1943年3月時点の名称はグロスドイッチュラント装甲擲弾兵師団だったが、実質的には装甲師団であり、通常の装甲師団以上の戦力を有していた。総統護衛大隊は、総統大本営を警護する目的で編成されたドイツ国防軍の部隊だが、前線任務にも投入された。

※8
ドイツ第51軍団は第6軍隷下部隊としてスターリングラードで包囲されており(1943年2月2日に第6軍は降伏)、第168師団左翼に位置していたのは、第52軍団であると思われる。

※9
この時点では、番号の付かない「SS装甲軍団」だった。司令官はパウル・ハウサーSS大将。隷下部隊は第1SS・第2SS・第3SS装甲擲弾兵師団である。

※10
OlshanyではなくVilʹshanyであると思われる。

※11
ラウス軍団の行動を含むハリコフ〜ドネツ地域の反撃(第3次ハリコフ会戦)を統括していたのは、ドイツ南方軍集団司令部である。司令官はエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥。

※12
ドイツ軍の重戦車ティーガーⅠとソ連製中戦車T-34の初交戦が第3次ハリコフ会戦時だったかどうかは、訳者には不明だが、ティーガーⅠの初実戦投入は1942年8月末であり、レニングラード方面で投入された。なお、第3次ハリコフ会戦に参加したドイツ軍機械化部隊のなかで、国防軍のグロスドイッチュラント師団と武装SSの第1SS・第2SS・第3SS師団は、中隊規模のティーガーⅠ部隊を保有していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?