見出し画像

カムチャッカ・クリュチェフスカヤ遠征2003の記録

 クリュチェフスカヤ火山は標高4750m、カムチャッカ半島最高峰でありユーラシア大陸最大の活火山である。日本山岳会福岡支部では1980年代に福岡登高会メンバーを中心にクリュチェフスカヤ遠征の計画があったが、当時の国際情勢や登山予算の関係で実現化できなかった。福岡登高会では2002年にグリーンランド遠征を終えた時点で2003年のカムチャッカ遠征が決定された。そして7月18日から8月1日までカムチャッカ最高峰クリュチェフスカヤ登山、フィッシング及び周辺山域の調査を行った。


■クリュチェフスカヤへのアプローチ
 メンバーは7/18関空からウラジオストク航空にてロシア極東のウラジオストクへ。7/19同国内線でカムチャッカへ飛んだ。玄関口はペトロパブロフスクカムチャッキー(長いので地元の人はペトロ、発音はピーチェルと略す)は人口約25万人。
 7/20ホテルにロシア側メンバー集合。登山班の通訳はアルチョム。釣班の通訳はアレクセイ(Alexey)、登山ガイドはボバMRとセルゲイMR、コックはセルゲイMR(ロシア人には多い名)、それとスタッフとしてボバさんの奥さんのレナMSの6名のロシアスタッフとドライバー。登山基地のエッソまでタイガの未舗装道路を528Km、車で約10時間の距離である。エッソとはエベン語でカラマツの意。800戸4000人が住むエベン人の都だ。年間300日晴れるといわれる盆地にある。街の第一印象派はアラスカのタルキートナに良く似ている。

■エッソ/クリュチェフスカヤBCのヘリフライト
 クリュチェフスカヤBCのペルバルニクレーター(2750m)へは、歩けば道なきツンドラを一週間要す。我々はチャーターヘリを利用したが、7/21は気象条件により飛ぶことができなかった。エッソからクリュチェフスカヤは直線距離で約120Km東に離れている。エッソからは中央山脈が邪魔をしてクリュチェフスカヤ山群は見えない。エッソは年間300日晴れると言われているが盆地なので朝は霧が出る。エッソ盆地とクリュチェフスカヤ下部の霧、そしてBC周辺の午後の雲との兼合いがフライトに影響をあたえるようだ。エッソが雲ひとつないエッソ晴れになっているのに、むこうは雲っているといって飛行許可がでない。また山火事が多い時期でヘリが消火に使われているらしい。なかなかタイミングが合わない。カムチャッカは漢字で「咬血奴蚊」と当て字にするくらい蚊の多いところではあるが、民宿から定期的にペリパッドに連絡して様子を確認できるので、蚊の群れの中で待機しなくて良いのは助かる。ヘリはネパールでも使われている大型のロシアン・ヘリである。小型バスほどの大きさがある。

 7/22午前、ヘリパッドへ来いと連絡が入る。テント等の共同装備、食料、水20Lx5タンク、個人装備をヘリのお尻から積み込む。(ヘリの後部が観音開きに開くようになっている。)人間は横の入口から入る。隊員9名、登山スタッフ5名、パイロットと助手を入れると総勢16名と荷物は500Kg位はあろうか、それに予備燃料のドラムカンまで載っている。これで飛べるのだろうかと思うが、ヘリはゆっくりと浮上した。山脈をいくつか飛び越えると広大な大地と三日月湖を従えて蛇行する大河が見えてきた。カムチャッカ川だ。氷雪がまぶしいトルバチク山(3682m)を南に見ながら東へ飛ぶ。

 ヘリは一旦標高1500mのツンドラの中間地点に着陸した。ここで隊員と予備燃料を下ろさなければ上には飛べないとのこと。見晴らしの良いツンドラの丘にはカナディアン・ロッキーで言うインデアンペイントブラシが咲き乱れている。ロッキーでは赤、ピンクと多彩だがここカムチャッカは白のみだ。トルバチク山がとても近くに見える。ウシュコフスキー山の奥にカーミン峰と噴煙を上げた最高峰クリュチェフスカヤの頭が見える。南東にはジミナ、ウジナの2峰も見渡せる。展望の良いところなのでキャンプをしても良さそうな場所だ、などと思っているうちにヘリが戻ってきた。
 プロペラを回したままのヘリに素早く乗込む。ウシュコフスキーの南側を巻く様に飛ぶと眼前に巨大なクリュチェフスカヤの全貌が現れた。氷原の上にクレーター状に土が盛っている地点に着陸。標高2,750m、ペルバルニ(峠の意)・クレーターと呼ばれるベースキャンプである。回りは氷河の山々に囲まれているが最高峰で巨大なクリュチェフスカヤだけが黒々として雪を頂いていない姿は異様な感じがする。時々爆音とともに噴煙を高々と上げており、嫌な感じだ。ヘリが去り、我々だけが地の果てに取り残された感じがするが、さっそくBCの設営にとりかかる。
 夕方高所順応を兼ねてウシュコフスキー峰のアイスフォール直下まで往復トレッキングを行う。

■アタックキャンプ設営
 7/23高所順応と荷上げを兼ねて、クリュチェフカヤとカーミン峰の鞍部に登りC1を設営する。アタック隊でない者もトレッキングとしてC1往復に参加。ペルバルニ・クレーターBC(2,750m)から一旦、溶岩の流出跡を少し下る。このあたりは1975年の噴火(南噴火口)の溶岩跡とのこと。流れがそのまま固まった様子が理解できる。2900m地点でサイドモレーンから氷河上に入る。クリュチェフカヤとカーミン峰の鞍部3300m地点C1に到着。テント、食糧等をデポする。C1からはカーミン峰(4579m)を仰ぎ見るようになり迫力がある。カーミンとは石とか岩の意味があるらしいが、なるほど他の火山とは違いマッターホルンのような岩峰に青氷がへばりついた秀峰で登頂意欲をそそられるが、今回は氷壁登攀の用意がないので、こちらは諦めるしかない。昼食をとり、間近に迫るクリュチェフスカヤ、カーミン峰や、北西対岸のウシュコフシキー、南にジミナ峰、ウジナ峰などの氷河の山々の展望をたのしんだ後BCへ下った。

■クリュチェフスカヤ・アタック

 7/24隊員6名とガイドのボバ、セルゲイ、通訳のアルチョムでC1へ上がることとする。10:15 BC(2750m)発。15:15 C1(3300m)着。雨が降った場合を考えてちょっとした高台にC1を移動する。日本隊員テント2張りとロシア人用テント1張りを設営。
夕方、反対の東側からドイツ隊が上がってきた。ヘリを使用せずクリュチから4日で歩いて来たとのこと。
 夕食は日本から用意したフリーズドライ。コンロはMSR、燃料は自動車用ガソリン(エッソで調達)を使用。水は雪解けの沢から火山灰に注意して利用した。クリュチェフスカヤは相変わらず数十分おきに爆発を繰り返している。時々轟音とともに噴煙を数百m上げる。噴石、落石が心配だ。
 7/25前日炊いていたメシで雑炊をつくる。05:45C1を出発。晴天。
 クリュチェフスカヤの巨大な三角形の影の中を登る。登るにつれ朝日をあびた反対側のカーミン峰は先鋭になっていく。クーロワールに入り落石の危険性が高くなる。傾斜が急になり、噴石が氷の上に積もったレキ帯のため登り難い。クーロワールのトラバースも控えるためコンティニュアスでロープをセットする。4000mを越えた10:00ころ大きな噴火。見上げた瞬間、直径1m程の岩が転がって来てボバの約2m横を猛スピードで通過した。直後、直径10~20cmの石が砲弾のように数十個ダイレクトに降ってきた。コンテで結び合っているため動きが取れず非常に危険な状態になった。半分ずり落ちながら後ずさりするしかなかった。噴石が直接届かなくなったかと思うと今度は落石がはじまった。噴石が転がり、誘発された石が落ちてくるのだ。落石の1つが隊員の腕に当たった。幸いかすっただけであったが、誰もこれ以上登山を続行する気にはなれなかった。4010mで敗退となった。無念だが勇気ある撤退だと思うしかない。安全地帯まで下山しロープを解除。晴天だったので噴石、落石が視認できたのが幸いであった。もしガスが出ていたらと思うとぞっとする。
 C1に下山。先に下った隊員は落石の影響はなかったとのことで安心した。下山してみると不思議なことに噴火の頻度が急に少なくなった。C1を撤収してBCへ下山することとする。BC着。隊長に敗退を報告。夜は残った酒の消化だけが目的となった。203高地(ロシアではあまり良い例えではないが)を攻めるような無謀な山だったと皆で話し合った。


【クリュチェフスカヤ登山総括メモ】
 クリュチェフスカヤ登山に特別な登山技術はいらない。アタックキャンプから長時間の登山になることと、噴石が氷の上に積もったレキ帯、ガレの登山ため足場は悪く体力勝負の山である。そして何より危険なのは15分毎位に起こる噴火による火山弾の噴石、落石である。噴火(水蒸気爆発)の予測は困難であるが、火山活動が沈滞している時期にチャンスを見て登るしかなかろう。この点は登山技術でカバーできるものではないので賢明な登山家なら無謀登山としか言わないだろう。カムチャッカ最高峰、そしてユーラシア大陸最大の活火山としての魅力はあるが、カーミン峰やウシュコフスキー、クリストフスキーの氷雪の峰の方が登山としては今後注目されるだろう。

■下山しフィッシング隊と合流
 7/26ヘリにてBC発、ダイレクトでエッソに降立った。エッソの民宿に投宿。フィッシング隊2名はまだ帰着していなかったがアナトリおばちゃんがニコニコしながら「キングサーモンが釣れたのよ」と丼いっぱいのイクラを持って来た。釣組を待ってはおられない。さっそく酒盛りがはじまった。やがて、フィッシング隊も帰ってきて、誇らしげにキングサーモンの刺身を裁く。今回もフィッシング組みは大成功のようだ。フィッシング隊の武勇伝を聞きながら刺身に舌鼓を打つ。キングサーモンはペアで遡上しているところをルアーで釣り上げたそうだ。2人は6日間エッソ・ビーストラ川やカムチャッカ川、その支流などでフライを中心に釣りまくり、チャー(オショロコマ)、サーモン、レインボートラウト、グレーリング等を上げたとのこと。グレーリングは釣れすぎてあきるほどだったと満足そうであった。最近、登高会の遠征は登山とフィッシングの2隊編成が恒例化しているが、どうもフィッシング隊に軍配が上がる。
 
■カムチャッカの大自然を満喫
 7/27から7/30まで様々な方法でカムチャッカの大自然を楽しんだ。マルキビーストラ川ではフィッシングキャンプで釣とゴムボートによる川下り。カムチャッカのスキー登山クラブ「アルネイ」のビルチンスキー山山麓のロッジには2泊し、露天風呂やフラワーハイキングを満喫した。
 ビルチンスキー山山麓ではノヒメアヤメ、ツガザクラ、ミヤマアキノキリンソウ、シオガマ、ヒメヤナギラン、ウルップソウなど観察。驚いたのはエゾツツジの見渡す限りの大群落である。他にハクサンイチゲ、キバナシャクナゲに似た花を愛でることができた。


 またゴレーリー山からムトノフスキー山麓も訪れた。ゴレーリー火山は大きなカルデラの外輪山で形成されておりクレーターのリッジの最高峰は1,892m。回りにはいくつもの小さなクレーターもある。我々は最大の直径5Kmのクレーターの中を横断した。火山岩の殺伐とした風景だったゴレーリー山麓に比べムトノフスキー山麓は草原が広がっている。ゴルビカ(ロシア語でブルーベリーのこと)の実が豊富にあり、皆で食べ歩く。愛嬌者のスースリック(マーモット)が顔を出す。ムトノフスキー山麓の丘のひとつに登る。大展望の山々を「アルネイ」クラブのボバさんが説明してくれる。ピラトコフスキー、ハドゥートゥカ、アサジャ、ゴレーリー、ビルチンスキー、スカリースタヤ、ドゥゴールバヤ、ムトノフスキー。いすれも雪渓や草原の模様が美しい山々だがとても覚えきれない。北海道の大雪山系を大きくしたような風景である。ムトノフスキー火山は大きな2つのクレーターを持つ美しい山で標高は2323m。ボバさんはカムチャッカで最も美しい地域だと誇らしげだが、なるほどこれほどの手付かずのダイナミックな景色は見たことがない。

■カムチャッカの自然とツーリズム
 「カムチャッカの観光資源は大自然そのものである」といわれる。旧ソ連時代カムチャッカは軍事的な理由などから外国人ツーリストには制約があったが旧ソ連が崩壊し、1992年から対外開放された。市場経済導入後、国内分業システムは崩れ、軍事産業も縮小された今、観光産業への期待度は大きい。まだまだ西側並のサービス体制にはほど遠いが、大自然とはそもそも不便を承知で向き合うものである。不便を楽しむ余裕がなければ大自然を楽しむことはできない。
 私は2002年、自然研究会の方々と野鳥の宝庫スタリチェコフ島への上陸調査を希望したが許可されなかった。おびただしい数の鳥が乱舞する島をゾヂアックで巡ってみて実感したことは、この島に観察施設でも建ててしまえば、この膨大な数の野鳥の生態系は維持できないだろうということだ。また、2002年バチュガゼッツ山麓、そして今回のビルチンスキー、ムトノフスキー山麓もキャンプや山小屋を利用して植物観察を行った。ワイルドフラワーの宝庫に宿泊施設ができれば周辺の植物は踏み荒らされるか、外来種の浸入もおこり生態系に変化が生じるだろう。カムチャッカのツールズムは人間の生活圏から隔離されているこれらの手付かず野生世界を、観光資源ととらえるべきなのか重要な選択を迫られている。
 自然にとっての最大の脅威因子は人間の人口密度であるが、訪問者の密度も当然この観光資源である大自然に直接影響を与える。この矛盾点が一番の障害である。マスツーリズムは一時的には観光収入をもたらすが持続的な観光産業とは言い難い。施設の開発なしに観光収入を得るには高額な入域料を取るのが一番手っ取り早いが、金を払う訪問者が自然にとって善良なる訪問者とは限らない。私は不便に耐えうる訪問者ほど自然に対するインパクトが小さいと勝手に理解している。エコツアーなどとわざわざ銘打つのはマスツーリズムそのもの手法である。したがって極論を言えば不便にしておくのが最良の策である。
 予想を遥かに越えた野生世界を目の当たりしたのが今回の山旅であったが、現在のカムチャッカもまた一時的な夢の世界なのかもしれないと思ったりする。訪問する側の日常生活の価値観の変革なしに、このツーリズムのパラドックスに挑むことはたいへん困難な問題であると実感した旅でもあった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?