仕事を辞めてアメリカに帯同したときのこと(出発編)

前回の投稿でご紹介しましたが私は夫の急な出向で
自分の仕事を辞めてアメリカに帯同することになりました。
今日はその時に感じた思いを思い出せる限り
書いていこうと思います。


アメリカについて行くか、日本に残るか

五、六年前の10月のとある日、夫が何とも言い表せない笑ってるわけでもない悲しんでるわけでもない、
でも今からとんでもないことを言い出すのだろうとは予測のつく顔で私に「報告がある」と言います。
私「転勤!?」
夫「うん」
私「どんまい!」
(この時点で私は国内の単身赴任だろうと思っていた)
夫「アメリカ」

アメリカ…私も仕事でかじる程度にアメリカに関わったことはありますが、自分の人生には正直これ以上交わることはないだろうと思ってたアメリカ。
私の脳内情報で完結できることは難しく、その後の生活も想像し難いその四文字に言葉を失い、ただただ「んーーーーーー。。。。。」の言葉で済ませてしまった記憶があります。
聞けば、出向は二ヶ月後とのこと。
ついて行くならばそれまでに自分の仕事を辞め、仕事の引き継ぎ等を行うと同時に、大阪に行ってビザの申請、娘のパスポート、国際運転免許証の申請、持ち家をどうするか問題、アメリカへの引っ越し準備、娘のワクチン接種、後にわかる二人目妊娠、、、
冷静に考えれば出国前の二ヶ月間で行わなければならないタスクが山ほどある。
もちろん私も夫も娘も何ら変わらぬ今までの日常にプラスする形で生じる作業だ。
まずは私と娘がアメリカについて行くかどうかだ。
夫の意向は皆で行きたい。
それはそうでしょう。一歳10ヶ月ほどの娘と離れて右も左もわからぬ異国の地で過ごすのはね・・・。

でも、家庭のケアを考えれば、果たして二カ月後、無事に私(妻)は仕事を退職し、それまでの引継ぎを行い、周りへの挨拶を終え、子どもに関わる申請手続き、子どものワクチン、アメリカに行って生活を始めるにとりあえず必要な子供に関わる予備知識(ミルクの種類や紙おむつ事情(おむつもパンツ式があまりないとか)、その他もろもろどう逆算しても迷う暇もありませんでした。
行く方向で日々準備は進めながらも心の中の迷いは消せぬまま、2週間ほど経ったとき、第二子の妊娠が分かりました。
子どもたちの成長を一緒にそばで見守ること、その一点で、私の帯同の決心がついたとも言えます。
私はこれを機に、仕事を退職し、夫の帯同者として初めて主婦になりました。
自分自身の退職後の手続きや大学病院でアメリカで義務とされている予防接種を子どもがすべて接種しているか確認したり、引っ越しの準備をしたり、、、
やるべきことを進め、いざアメリカに出発。

アメリカに到着

アメリカへは航空便と船便に分けて荷物を送っていましたが、その年は大寒波の影響を受けて、なかなか荷物が届かないということもあり、
アメリカに到着して航空便が届くまでの数日は旅行と同じ状態で、最低限の荷物で過ごさないといけないため、ありったけのスーツケースに荷物を入れて、航空便が届かなくても生活できるだけのものを持っていきました。
それが大変で大変で・・・(笑)
まだ車もないので、おむつ等も一週間は過ごせるように持って行ったため、
子どもがいるとどうしても荷物が増えますが、本当にしんどいの一言に尽きる。そんな移動でした。今思えば何も知らなかったからこそ、出来た!と言える状況だったと思います。

子どもの謎の高熱から学んだこと

アメリカに到着して四日ほど経ったある日、子どもの首の動きに違和感を覚えました。
名前を呼び掛けてもこちらを振り向いてもあまり首が回っていないような・・・
熱を測ると39.0度を超えている・・・
でもアメリカの小児科なんてわからないしそもそも支払いもどうなるのかわからない。。
ネットで色々検索しているうちに、子どもの首から顎にかけてどんどんどんどん腫れていきます。
これはまずいと思い、夫に電話をし、急遽近くの小児科を紹介してもらって病院へ連れて行きました。お金がいくらかかるか、そんなことはどうでもいいからまずは病院に行かないと!と思うほどの腫れでした。
こんな時本当にありがたかったのが、先に渡米している日本人の帯同者の方々でした。帯同している奥様方のコミュニティを到着後すぐに紹介いただいていたので、その方々に相談したところ、近くの小児科を教えてもらえたのです。
医療通訳さんも教えていただき、無事に病院を受診することができました。
とりあえず二日後もう一度受診してください、ということで抗生剤をいただき、自宅で様子を見ることになりました。
ただし、二日後にも子どもの様子が改善することはなく、今すぐ大学病院に行ってくださいと言われ、渡米して一週間ほどで子どもは入院⇒そのまま手術という流れになったのです。

まさかその日のうちに入院・手術なんて考えられなかった私は着の身着のまま家を出てきていたし、すでに時間は夜の8時。しかも若干まだ時差ボケ。
子どもはたくさんの検査を受けてずっと泣きっぱなし。
喉も乾いているはず、お腹もすいているはず・・・でも明日の手術に向けてもう飲食はしてはいけないといわれているし、、
あまりにも突然の出来事で、何が起こっているかの理解も追いつかないまま
そもそも手術が必要なのかの考えも追いつかないまま、
一歳の子供に異国の地で全身麻酔で手術をするという事実に対して、
約2カ月前に自分自身が決断した子どもも一緒に帯同するという決意への
後悔ばかりを考えてしまいました。

子どもが手術をした日、まだ夫も仕事を開始して数日しか経っていないにも
関わらず、たくさんの方がお見舞いに来てくれて、日本人の方は日本食を皆で交代で用意してくださいました。現地の方々もたくさん励ましてくださいました。
娘にはたくさん痛い思い、怖い思いをさせてしまいましたが、
この時ほどに、日本食のありがたみを感じたことはありませんでしたし、
皆様の温かさは忘れることができません。
そして、日本ではいつも当たり前のように送れていた日常が、
一歩異国の地に出てみれば、一人ではその日常を送ることさえ難しいこと、たくさんの人に支えられていることに気づくことができました。

スーパーで食料を購入できること、銀行を開設すること、家賃を支払うこと、子どもを公園に連れていくこと、子どもの様態について話すこと・・・・
日常のあらゆる当たり前に行ってきた行いが、言語の壁やルール、制度上のの違い等、あらゆることでスムーズにいかないことを経験したからこそ、私は今送る日常に大変感謝しています。

今日もそんな日常を日本で送っていますが、この文を書きながら
頭に浮かんできたのはこの曲でした。

何をどうしたいのか 自分の事を推し測る
辛いとか辞めたいとかそれも日によるみたいだ
何でも打ち明けてと 言われる度に言えなくなる
ご厚意に甘えるのも 割とキツいみたいだ
別に大した事ないよ 話すだけで十分だよ
打たれ弱いくせして あなたにまだ良い顔をしていたい
ノルマ以下か以上か 日常は今日も計られる
スーツでもスウェットでもそれは同じみたいだ
変わりないか元気か あなたは今日も気にかける
良い日でも悪い日でも それも同じみたいだ

Official髭男dism  日常


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