ことばのうみのはじまり3 夏休み

小学校1年生の夏休みはとても楽しく過ごした。
自分の朝顔は青色が咲いてとても気に入った。
父がよく市民プールに連れて行ってくれて、ずいぶん泳ぎが上達した。
小学1年で25m泳げたのはスイミングスクールの子たちとわたしくらい。

ばあちゃんちに長く泊まり、いとこ達とキャーキャー遊んだ。
母方の叔父叔母、いとこ達はわたしにとって親兄弟同然。
長い休みには気がねのない家族が各地から集まってきた。
テレビゲームは無いので自分たちですごろくを作ったり、
椅子を組み上げて基地にしたり。
敷き布団一枚を木の上の巣に見たてて「可哀相なリスの家族ごっこ」などをした。
一番上のアッコちゃんが借金取り役となって巣に取り立てに来る遊びだ。
たまにわたしたち子リスが連れて行かれたりするので気が抜けない。

わたしはばあちゃんちでは思うさま子どもでいられた。
じいちゃんが建てた2階建ての家で、薪で焚く五右衛門風呂。
夜になると子ども達は2階で重なるように眠り、1階からは大人達の酒を飲みながらの話し声が聞こえていた。
何を話してるかは聞こえないガヤガヤしたその音は、死に際にも思い出すかも知れない。

今思えばうちの父や嫁に来た叔母などは血が繋がってもいないのに、
誰もがみんな家族にしか思えなかった。
遠慮みたいなことはどこにも感じない。
わたしが将棋でズルをすれば叔父にBOKANと殴られ「そんなことする奴とは打たねぞ」と怒られた。彼はわたしの母の弟で、わたしが無事生まれたときに男泣きに泣いたというエピソードがある。
幼稚園に行きたくなくて泣いてたわたしではあるけど、
その他のことで泣くことはほとんど無い。
不自由を強いられる事に比べれば何でもない。
母に「どうしたの?」と言われ「ズルしたらおんちゃんに怒られた」と話した。
「そりゃ怒られるわ。ごめんなさいしてきなさい」と言われ、
「ズルしてごめんね」と言った。
平和すぎる。


母方の構成を簡単に記すと
母が長子でその下に弟3人が居る。
上から、オジワン、オジツー、オジスリーとしておこう。
BOKANはオジツーである。
やんちゃな3兄弟をまとめ上げた姉なので母はなかなか強い。
サザエさんでいえばサザエ。北斗四兄弟でいえばラオウだ。

そんなラオウは小学校に入る前から大病を患う子どもだった。
両脚のヒザが腫れ上がり、立つことも出来なかった。
どこの医者に連れて行っても「切断しかない」と言われる。
それでも父であるじいちゃんは「この子をかたわにはさせね」と諦めなかった。
噂を聞けば怪しげな民間療法の家にも母を自転車のカゴに載せて連れて行く。
わたしの知ってるじいちゃんは無口で近寄りがたい人なのでそんな姿はなかなか想像できない。

ある時聞いた噂で、二つ向こうの村にお灸の名人がいるという。
藁にもすがるとはこういうことなのだろう。じいちゃんはまた母を自転車に載せて、夜中にその家を訪ねた。
囲炉裏の向こうにその爺がいたそうだ。母の症状を診て、
「ンでは、こことここに朝晩お灸しなさい」と母の脚に墨でバツ印を書いた。会ったのはそれきりで、お灸はセルフサービスらしい。

次の日からお灸をし始める。
母であるばあちゃんはお灸の熱さに苦しむラオ子を見ていられず、
近所のお灸が得意なおばさんが毎日来てくれた。
のちにわたしがお得意様になる駄菓子屋の婆だ。

ある日、母はいつものように布団の上で折り紙を折ったり切ったり遊んでいた。自分の上に紙屑がたまってきたのでそれを払おうと、ふっと立ち上がりパンパンと振り落とした。
洗濯物をたたみながらそれを目の当たりにしたばあちゃんは
「ラオ子が立った!」と叫んだ。
それからみるみる回復していったという。
クララが立っちゃう40年前の話だ。

母は「だからわたしは鍼灸を絶対に馬鹿にできない」と言う。
西洋医学に任せていたら、じいちゃんが諦めていたら、両脚は無かったのだから。


そんな歴史はつゆ知らず。
わたしは小学一年生を楽しく過ごした。
二年生になってもクラス替えは無く、同じ先生。
ますます学校にも慣れて楽しくなってきた。

そしてまたお待ちかねの夏休みがやってくる。
同じように海へプールへばあちゃんちへ。

でも何かが違う。
楽しいのだけれど…時間が過ぎるのが早い。

冬休み、クリスマス、お正月。…これはなんだろ。

楽しくてしょうがなかったものの質と量が減っている。
同じ期間、同じように過ごしたのに、わたしの期待値よりわずかに楽しさが少ない。
これに関しては「今思えば」ではなく当時、理解した。


時間と慣れだ。
楽しい時間が短く感じるのは、自分がその時間を当然のように無駄づかいしたからだ。そして同じ事をすれば同じだけ楽しいかといえば、違うのだ。
慣れることでほんの少しずつ楽しさが削がれてゆく。
いずれゼロに近づく。

「時間を噛みしめなければならない」
そう教訓を得た。
考えた結果、3年生の夏休みから絵日記を書くようにした。

朝から今日起こる出来事を日記に書けるよう考え、
日付を噛みしめ、起こったことを噛みしめ、終わりの来る事を時々噛みしめる。時間を考えることで流れを遅くした。
実際には時間は変わらないけど、自分の脳みそをひっくり返した。
ともあれ効果は十分あったし、言葉で舵を切ることで大切なものをこぼしにくくできると知った。

美味しいものは食べる前までが絶頂、のような考え方も聞くが、わたしはわたし。食べた後もその絶頂が続くよう自分の脳みそが感じるように。
面白きこともなき世を面白く、生きるように。
本や映画も同じく、一度きりの出会い方によって感動が変わり、楽しみの総量が変わる。
目を閉じるより、見開いてジェットコースターに乗るのだ。

そしてもう一つ「忘れる」ことだ。
意図的に忘れることで同じ漫画本を何度でも楽しめる。
噛みしめたり忘れたり、脳みそを自分でかき回す訓練は
その後のわたしに役立つ能力になった。

「人生なんてアッという間だ」と言う大人にはならないと決めた。
十分しゃぶり尽くすように工夫すれば、少なくとも時間の長短で後悔することはないだろう。

絵日記は卒業まで続いた。


ーーー日記に書けなかったこと。怖いのが苦手な方は引き返して下さい。

小学校4年生の夏休み。
いつも通りばあちゃんちに親戚一同が集まり、しばらく滞在した。
雨上がりの日、近所にカタツムリの穴場を見つけ、いとこのみんなで「こんな大きいの見たことない」とたくさん捕まえて帰る。
大人の反応は覚えていないが、梅酒などを漬ける大きなガラス瓶をくれたので、葉っぱなどと一緒に入れて二階へ持って行った。
それからまた一日中遊んで夕飯前の夕暮れ時。
わたしはなんとなしに暗がりの二階へひとりで上がっていった。

目の前にすっかり忘れていたカタツムリの瓶がある。
さあ調子はどうだいとフタを開けて、大きいのをひとつ取り出そうとした。
ん?いや取り出せない。
葉っぱならまだしも、ガラス瓶にピッタリ付いたカタツムリはそうそう離れてくれない。

日記を書くことを考えることはできても、わたしはわたし。
えいっと引っ張ったら何か大事なものが殻から出てきた。

すぐに何事もなかったように元に戻して、みんなのいる一階へ逃げた。
夜になりいとこの一人が「あれっ、このカタツムリ大変!」と気づいたが、わたしは向こうの布団で興味なさそうに「へえ」とだけ言った。
その後カタツムリの事には触れないよう夏休みを過ごした。
このことは絵日記には書けなかったので、事件は薮の中にある。

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