ことばのうみのはじまり7 善と悪

小学校を卒業する時、担任の先生がクラスでしたスピーチを覚えている。

「皆さんはとても善い人に育ってくれました。先生はみんなをどこに出しても恥ずかしくない。だからこそ言っておきたい事があります。これから先、善い人だけではやっていけない事もあるということです。みんなの素直さが先生は大好きですが、世の中には悪い人もいて、色んな人の中で生きていかないといけません。みんなの真っ直ぐな眼を見ているとそれが心配になるのです。強く生きることを忘れないで下さい」
初めて文字に起こしてみるけど、自分でも気味悪いくらい覚えている。

卒業という晴れの日と、警告めいた言葉のちぐはぐ感が印象深かった。
今なら先生が本当にわたし達を好きでいてくれたのが分かる。
この先生は30代の若い男で、うちに飲みに来てそのまま泊まっていったり、休日にはボロい軽自動車に生徒ギュウギュウ詰めで川にメダカを捕りに行ったりした。忘れ物が続く男子はパンツを降ろされ生尻をひっぱたかれた。いつもヨレヨレシャツだった愛すべきこの男に「お人好し認定」されるのなら、今の自分は間違ってないなと思えた。


中学校は
木炭で出来たような真っ黒な木造校舎だった。古くて汚い。いっぺん燃えたような建物。
同じ小学校出身者は4分の1くらいで、知らない顔が多い。
部活はバスケ部に入った。なんとなく運動部と文化部では、文化部に入ったら負け、みたいな風潮があった。

バスケットボールは好きだったけど、部活というのは上下関係や練習量など厳しいばかり。わたしの嫌いな「不自由」の巣窟なのを知る。何が悲しくて夜や朝練、あまつさえ土日まで束縛されるのだ。後で知ったけどうちのバスケ部は全部活中でも最も厳しかった。楽しむことに重きを置いてるわたしは酷くゲンナリした。その割に強豪校でもないというシゴキに見合わない負のサークル・オブ・ライフが成立していた。

はじめ同期で入部した1年生は結構な人数がいた。それがゴールデンウィークまでにはかなりの人数が振り落とされて辞めていった。入ってビックリ、基礎体力作りからハンパなく厳しかったのだ。見渡せばあいつもあいつもあいつもバスケ部を辞めていった顔がクラスにいる。何故わたしが辞めなかったかといえば、辞める選択肢を取る強さがなかっただけ。「一度入ったからには辞めることはできない」という脅迫観念のようなものがあった。もっとゆるく考えることが出来たら、誰かがそう教えてくれていたらと思う。

小学校との環境の違いにわたしは追い詰められていた。
そして幸か不幸か、わたしは勉強ができた。
クラスのボス的な連中に目をつけられるようになった。
中学の年頃だと肉体的に優れている連中がボス的だったりして、抵抗しても喧嘩しても相手にならなかった。
中間テストや期末テストで学年上位になれば机を彫刻刀で刻まれた。
「遊ぼうよ」と声をかけられ一方的に蹴られた。わたしは気づかない振りをし続けた。これはイジメだと気づいてしまうと自尊心が砕けてしまう気がしていたから。
合唱コンクールの練習中、後ろから連中がわたしの背中を小突いてくる。
「やめろ」と言ってもやめやしない。先生がいないとやりたい放題だ。

小学校までわたしは大体の人は善だと思っていた。
ドラえもんは国民的に知られたアニメで、まさかスネ夫やジャイアンになりたい奴なんて居ないと思っていた。どうやったらジャイアンになりたい奴が出来上がるんだ?藤子不二雄に何を学んだんだ?人のものを盗ったり壊したりする、そんな自分になりたいのだろうか?

悪だ。醜い悪が存在する。醜さが臭すぎて目にしみる

わたしの目から涙が溢れていた。
すぐに気づいて目を拭って笑い顔をつくるけど、止まらない。
クラスの皆が見ている前で笑いながら泣いていた。
笑いも涙も止まらなかった。

今思えば精神がどこかやられていたのかも知れない。
急に高熱を出したり、朝食を食べながら涙が止まらなくなったりするようになった。
その頃のわたしを支えたのは水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」や「悪魔くん」、田河水泡の「のらくろ」等の古い漫画本だった。古いものの中には何か本当のことが隠されている気がしていた。そういったものに没頭して自分の自分らしさを保っていた。


中学2年になって環境が変わる。
クラス替えがありイヤな奴が居なくなった。
新校舎ができピカピカの教室。
何故か選ばれる学級委員。
部活は相変わらず厳しいけど、今度は後輩もいる。自分たちが受けた理不尽なシゴキをしたくないと適当に指導した。
今でも付き合いのある友人にも出会えた。
おかしな体調になることもなくなった。

中学1年の経験があるから、どうしても中学生活は灰色であり暗黒時代として記憶されている。
どうにかして良い方に考えるなら、あの軍隊生活のような日々に比べれば、大抵のことはマシに思えるのと、基礎体力が十分ついた事だろうか。
わたしはバスケ部では底辺だった。気の合う底辺3人組で「もし時間が巻き戻せたら何部に入る?」と埒のあかない話を練習をサボりながらしていた。そんな3人組だったけどクラスの体力測定や体育のバスケの授業では野球部やサッカー部を差し置いて「さすがバスケ部だな」と言われた。肺活量が3人ともクラスでダントツだった。漫画でよくある「ヤツは四天王の中でも最弱」であっても、並の中学生には負けないくらいのシゴキを受けていたのだ。

勉強は嫌いじゃなかった。
争う相手が他人じゃなくて自分なのがよかった。
中学3年のある日の帰り、松永というのが声をかけてきた。
松永とは中1の時同じクラス。バスケ部を辞めたうちの一人で、その後吹奏楽部で活躍するようになり学年でも有名だった。
「なんだい有名人」
「ポッカさ、今度の中間テスト何位だった?」
久しぶりの会話でよく分からないことを聞かれた
「んーん?たぶん30…なんぼか」
「ヨシッヨシッ」
松永はカクカクと不思議な動きのガッツポーズをしている。
向こうを向いてカクカクしている松永をしばらく見てから
「どしたの」と聞いてみた。
「ボ、ボクは1年の時からポッカを目標にしてきたんだっ!ようやく勉強で追いついた!」
「学年というか学校で注目されてるお前が言うかい。」
「でも本当なんだっ!ヨシッ」

わたしの暗黒の中1時代を見ている松永。
嫌がらせを受けてみんなの前で無様に涙を流し、バスケ部ではついて行けず底辺で、体にも変調をきたしていたあの頃。
マイナスの私しか知られてないと思っていた。
毎年なにかの賞をもらってる有名人が
わたしなんかに何を見ていたのだ。
どうやらテストの点数のことだけじゃなさそうだったけど
わたしの覚えていないエピソードでもあっただろうか。
わたしはつらいだけだったけど、誰かの目標にもなっていた。
松永が言葉とパフォーマンスで伝えてくれたから、彼の気持ちを知ることができたし、今わたしの心にも残っている。

中学2年の時出会い、今でも音信のある滝沢。
高校も同じで部活も一緒だった。
ベタついた関係を想像させるが全く逆で、ライバルというか腐れ縁みたいなものだ。
大人になって久しぶりに会った時
滝沢は「中2の頃が人生で一番楽しかった」と言った。
よほど仕事がキツいのか、幸せではないのかと一瞬だけ心配した。
わたしにとって中学時代は自分がなにを出来るのか、何が好きで嫌いなのか、何も分からなくなる混沌の頃だった。
わたしは今が一番いい。

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