ことばのうみのはじまり9 やとわれた声

中学3年の春の大会でようやくバスケ部から引退できた。
わたしを縛り続けてきた部活動。
レギュラーにはなれなかったけど、スタジアムみたいな体育館のベンチで応援してるのすら緊張した。
試合が終わり、早々に負けて悔しいフリを通路でしていたけど、心は完全に笑っていた。もうミーティングもいらないから早く帰らせてほしい。
わたしは自由になるのだ。
本当に全部忘れたいくらい部活は重荷だった。
頑張ってたメンバーや顧問たちにはちっとも悪いなんて思わない。
十分付き合ってやった。戦争嫌いの兵士もいるのだ。
辞める強さが無かったから嘘をつき続けてここまで来たけど、
これからの人生、逃げたい時は逃げよう。


引退して心に余裕が出来てすぐ、学校で音楽の先生に呼ばれた。
「ポッカちゃんさ、合唱部入らない?」
「んー?」
心の中のアーノルド坊やが「冗談は顔だけにしろよ!」と言っている。
ちなみに「アーノルド坊やは人気者」という海外ドラマは全国区ではないので知らない人が多い。
「いやポッカちゃん声がいいのよ~。そして合唱部は大会に出るのに人が足りない」
後半が本音とみた。
「部活は秋の大会で終わるから、まあ考えておいて」

考えておいて、か。

その日、幼なじみのオタマも声をかけられていた。
オタマはわたしと違い、バレー部の部長でエースだった。
ああオタマが一緒なら楽しめるかな。
それに人が頭下げて頼んでるんだ、断れない。
引退して舌の根も乾かぬうちに合唱部に入部してしまった。
誉めて頼めば即OKって、思い返すと眉間にシワが寄る。
戦場でしか生きられない兵士のようにわたしは部活に舞い戻った。


合唱部では何をするのかといえば、先ずは基礎体力だった。
発声のためには腹筋をはじめとした筋トレやストレッチが必要ということだった。さらに他校との交流練習などもありバスケ部よりよっぽど理に適っていた。
スカウトで新入部したのは7人。総勢40人ほど。運動部からきたオタマとわたしにとって体力づくり関連は赤子の手をひねるより楽だった。
もちろん苦しそうにやっている人もいるけど、なにしろ雰囲気が明るい。
無断で休んでも「オラァ!○○はどうした!」と怒鳴られることもない。
ここで三年間を送っていたら、部活は重荷じゃなくて救いになってたかもと思った。
アメリカの監獄を出て、ジワタネホのホテルに来た気分だった。


夏休みに入っても練習はあったけど、不思議と苦になるようなことはなかった。
心を病んだ傷病兵のような男子、他では声を出さないような女子。クラスの目立たない者ばかりを集めてきたような部員たち。みんなどこかしら空気が優しかった。
この村人たちとなら声を出そう。勝つためのやる気がわいていた。

夏休み中、山の方に二泊三日で他校と合宿に行った。
朝はジョギングから始まり、筋トレや音合わせ。受験生ということもあり、夜は学習室でみんなで自習した。
男女がこれだけ同じ時間を過ごしているのだから当然ロマンスもあるはずだが、マンガのようなことは一切無かった。
その頃わたしは火薬に夢中になっていたので、爆竹から抜き出した火薬をプラスチックの筒に入れて持ち歩いていた。色恋をしらない兵士だった。
キャンプファイヤの時などはそういうもので遊んでしまう、ムードもへったくれもない子どもだった。
キャンプファイヤといえば夏生まれの生徒がわたしを含め何人か選ばれ、松明をそれぞれ持って入場し点火する「火の精」をやった。
わたしに火なんて持たせた日には、我が校の人々に松明を振り回して追いかけながら入場した。
「ポッカちゃんマジでスレスレだったって」と幾人かに引かれた。
オタマはわたしが火を持った瞬間から一定の距離をとっていて「まあそうなるな」とドングリのような目をしていた。
いい思い出だ。


秋になり最後の大会がやってきた。
バスケ部の時と違い、色んな学校との合同練習で場慣れをしてきたので緊張も程よい。
結果は憶えていないけど、
終わるのが寂しく感じたのは憶えている。

印象的だったのは
学芸会の演劇部の公演で、主役オタマの迫真の演技でゲラゲラ笑ってたオタマの母さんが「あんたたちの歌声聞いたとき背中がゾワッときたよ」
と言っていたこと。
結果は憶えていないと言ったけど、そう悪くはなかったはずだ。

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