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顔を合わせて、ことばを交わして、人と生きる。


数年前、感染症の流行により人と人が簡単には会えない状況に陥りました。その時テクノロジーは進化を遂げ、人と人が会えない中でも物事を進めることは可能だということに、私たちは気付いてしまいました。

社屋という場所に社員が集わなくても仕事が出来るという、いつしか流れたコーヒーのテレビコマーシャルが描いた未来は予想より早くやって来ました。概念は変わる、変えられる。システムや制度は柔軟に変化・対応していき、人間の持つ何とかしよう精神は凄まじいなと思ったものです。

人が易々とは集えなくなり、正直気持ちが楽になったこともありました。本当に自分が大切にしたいと思う関係性を見つめ直すことが出来た時間でもあったように思います。


そして現在。感染症はまだそこにあれど、会いたい時に会いたい人に会うことが出来ます。人と会うことが出来るようになって、一緒にお出かけすることが可能になって、何人かで集まってワイワイとお酒を飲むことも自由になりました。

顔の半分以上を覆っていたマスクを外し、目を合わせて口を開けて話し合う、笑い合う。ああ、こうして同じ空間で顔を合わせ話すことを会話と呼ぶのだろうと、しみじみ感じる日々を昨年は過ごしました。去年はどんな1年だった?と聞かれたとき、人と会う機会が増えて楽しかったなという気持ちが最初に浮かんだほどです。



わざわざ出向かなくても、それぞれがお互いの家からオンラインで話すことも出来る。それでもやはり顔を合わせて話をすることでしか共有できない空気感があり、その空間を通して伝わる温度感があり、確かに生まれる信頼関係があるのではないかと思うのです。

いくらこうしてテキストを入力することが出来ても、やはりプレゼントには思いを込めた手書きの手紙やカードを添えたくなるように。いくら技術が進歩して実際に会う必要がなくなったとしても、やはり会って話したい。そんな思いはどうやら自然と湧き上がってくるようです。

人と直接会うことが面倒だと言ってしまえば、それはそうなのかもしれません。億劫になることもあれば、正直疲れることもあります。それでも、1人で生きているわけではないからなあ、と思うのです。


先日、ぽっぽさんにとって人生とは?と、職場の先輩に問われました。先程まで他愛もない会話を繰り広げていたところに突然降ってきた哲学じみた質問。あいにくその質問に対する答えは私の中に常備されていなかったのですが、ぽんっと浮かんだ私の答えは、「人と生きる、ですかね。」でした。

せっかく自分以外の人がたくさん住んでいるこの地球に産まれて、ミラクルロマンスだって有り得る世界。ロマンス以外のミラクルも然り、それは自分以外の人がいるからこそ起こり得ることだと思うのです。

自分の考えを伝えたりお互いに気持ちを伝え合ったりするための術が、私たちにはある。こうして、文字や音で並べたり仕草で表すことの出来ることばは、きっと人が人と生きるために進化してきたもの。人と関わりあって日々を暮らすことで、人生は豊かになるのだろうと感じます。



人と簡単に会えなかったあの日々は、人と生きることが自分にとってどれだけ重要なことなのかを教えてくれた気がしています。対面で交わす会話から、目には見えない確かなエネルギーをもらっている。そんなことを思い知ったのです。

あの日から現在まで続いている縁も、あの時の自分が助けられた多生の縁も、そして私の記憶の中で生きるひいおばあちゃんの存在も。人との繋がりで現在私がここに居るんだなということを、時々ちゃんと噛みしめながら生きていたい。それが、人と生きる人生なのかなと感じています。

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