【蓮ノ空感想文】 あなたが機械さんを得意になるまで
最初に梢センパイが気になったのは、単純に自分と誕生日が同じだったからでした。
そこから活動記録を読んでいく中で、あ~梢センパイ好きだな~と思うようになりました。
なるべくして好きになったというか、運命だったというか。不思議な縁ではありますが、最初からなんとなく魅かれていたんだろうな~と思っています。
梢センパイ。
すごく、素敵なキャラクターだと思います。スクールアイドル及びラブライブ!への情熱がメンバーの中でも頭ひとつ抜けていて、シリーズで追ってきた人なら誰もが愛してきたであろうものを、同じように大切にしていて。
仕草も品があって、歌声も綺麗で。カードも強いし、キャラ同士の関係性も濃厚で、本当にいいところだらけの完璧キャラクターのように見えます。
でも、思うんです。
私たちが梢センパイを見ていて、「好きだな」と思う時って、きっとそういう梢センパイの長所を見ている時じゃないと思うんです。
自分の夢に呪いのように縛られて、そんな生き方を変えられなくて、そんな人だから、何度も選択を間違えて、躓いて、傷ついてしまうそんな姿が、たまらなく愛おしくて、その今にも消えてしまいそうな微かな声で紡がれる言葉がどうしようもなく胸に突き刺さって。
私たちと梢センパイは運命共同体でも何でもないのに、全然他人事に思えなくて、どうしても目を離せなくなって。
努力とプライドで丁寧に積み上げられたそのこころの層の奥の方にある、誰にも見せたくない弱い部分が曝け出されて、曝け出された気持ちのコントロールが全然効かなくて、そうやって本心とは全然違う道ばかり選んで。
ファンとしてはあまり大きな声では言えないなと思いながらも、梢センパイのそういう弱い部分だとか、隠したいはずの部分にどうしようもなく魅かれてしまって、彼女の絶望や苦しみをまるで自分のもののように感じてしまって。
流れた涙に美しさを感じてしまうように、儚げなその表情や言葉の息遣いが好きだと思ってしまう。深い海の底で、周囲のその暗さに妖しげな魅力を感じてしまうように、もっともっと、彼女のこころに触れたいと思ってしまう。
もしかしたら、それはファンとしてはあまりよろしくない感情なのかもしれません。
本当は、梢センパイのかっこいいところや可愛いところ、素敵なところを「好きだよ」って言ってあげたいのに、本心では、彼女のカッコ悪いところ、触れられたくないところ、弱いところをどうしようもなく愛おしく思ってしまっているんです。
振り返れば、彼女の象徴的なエピソードの中で、頭に残っているのは、どれも幸せなシーンではありませんでした。
6月の撫子祭で『DEEPNESS』に再挑戦するまでのエピソードは、ずっと気持ちがすれ違っていた綴理と気持ちを1つにすることができました。
決意表明のシーンとか、さやかさん呼びのシーンとか、梢センパイにとって新しく何かを獲得したシーンはたくさんありました。8話は間違いなく、梢センパイにとって転機となるエピソードです。
でも、私がこのエピソードの中でいちばん印象に残っているのはここです。
普段の落ち着いたトーンが乱れたこの瞬間が、今もずっと忘れられません。
ため息交じりに絞り出された「……ああ、」、からの「そう。」では明らかに声が震えていて。
「そうなのね。――私は、なんにも分かっていなかった……!」では、その自嘲とも嘆きとも取れる言葉から、やっと叫ぶ事を許されたこころの奥底にある本当の気持ちと、そんな気持ちから目を逸らし続けていた後悔と、そして、間違った選択によって綴理を裏切った事への罪の意識と、様々な感情がこの一瞬で彼女の中で駆け巡ったことが見てとれます。
花帆との会話の中で半ば導かれるように、自分でも気づいていなかった本心に気づいてしまった時の、彼女の絶望はどれほどのものだったでしょう?
非情になった振りをして、守りたかったはずの大切な人を傷つける選択をしてから半年。その選択が「間違いだった」んだという事に気づいたとき、彼女の行いを正当化するものは何もなくなってしまうんです。
残るのは、「夕霧綴理を裏切った」罪と、「選択を間違えた」後悔、そして、いくら嘆いても帰っては来ない半年という時間。
そして、それはただ自分の本当の気持ちを分かっていれば起きなかった、「綴理と離れたくない」という気持ちに気づきさえしていれば、選択を間違えることはなかったという、実現しなかった幸せな「もしも」。
自分に言い聞かせるように絞り出した「そうなのね。」という言葉は、まるで無意識のうちに彼女がこころを守るためのもののようでした。
自分を客観視している自分という、自分ではないものの視点に立つことで、犯した罪の意識から逃れようとしているようで、初見でゾっとしたのを覚えています。
『Dream Believes 乙宗梢』の特訓2回目の解放ボイスでは、努力をすることが好きだった事と、高校生活は3年間しかないことについて触れられています。だからこそ、一歩一歩の歩幅を大きくしてただがむしゃらに駆け抜けたいという決意が語られています。
ゲームの性能面でも、梢センパイは「効果量は小さいがステージの最初から最後まで効果が続く」といったスキルが多く、「このセクション中」を対象に取る他のキャラ以上に1回1回の積み重ねが重要なカードとなっています。
そんなキャラクターだからこそ、「半年前の選択は間違いだった」「この半年はもう帰ってこない」という事実を自覚し、さらに「綴理を裏切った」という罪の意識を正当化する理由まで取り上げられてしまったとき、彼女は無意識の内では「逃げ」を選択するんだと示されたとき、それをすごく美しいと思ってしまったんです。
この一瞬のやりとりの中で梢センパイの中を駆け巡った想いが、その発言の一挙一動に詰め込まれて、まるで彼女が味わった感覚と同じ密度で浴びせられたように、私たちにも情報量として一気に降り注いだ時に、その声の儚さの中に今を生きる彼女の憂いがすべて詰め込まれているような気がして。
散って地面に落ちて踏まれてボロボロになった花びらに趣を感じてしまうように、琵琶の音の中に滅んで行った平家の幻を見るように。
彼女の息遣いの中にはそういうある意味で退廃的で感傷的な魔物が潜んでいて、それがスクールアイドルという「言葉ならざるもの」を表現しようとする芸術に魅せられた私たちの耽美精神を刺激して、そのこころの奥底に引きずり込まれてしまうような。
沙知先輩の卒業の時もそう。
『抱きしめる花びら 乙宗梢』の解放ボイス1では、「こうすればよかった」と後悔を口にしています。こうした後悔に関しては102期生は全員そうなんですけど、綴理と慈は最終的には今の話をしているのに対して、梢は最後まで弱音を吐いています。
このボイスの「遊びに行けばよかったのに」の、少し吐き捨てるような「よかったのに」がすごく自嘲的で、まるでまた自分が選択を間違えたと背負い込んでいるように聴こえてきてしまうのですが、そうしたどうしようもない感情に触れている時の梢センパイがいちばん「美しいな」「いいな」って思ってしまうんですよね。
どうしてこんなにも、弱い部分ばかりを好きになってしまうのでしょう?
もう少し素敵な部分とか、キラキラした部分を好きだって言ってあげたいのに、自分のこころに突き刺さって夢中になってしまうのは、いつも梢センパイが苦しんだり傷ついたりしている姿ばかりで、彼女の笑顔よりも、憂鬱さを抱える横顔や何かに思い悩む姿に”らしさ”を感じてしまう。
それをすごく不思議だなと思っていたんですけど、活動記録の15話を見た時に、「これかぁ……」って思ったのを覚えています。
ひとつは、梢センパイが私たちにすごく近いキャラクターだということです。梢センパイ役の花宮初奈さんが、Liella!の一般公募オーディションを受けていた過去があるのもそう思う要素のひとつなのですが、そんな花宮初奈さんが「同族嫌悪」とコメントしているのも少しわかる気がします。(これに関しては、浮世離れしてるところに関してかも)
スクールアイドルが好きで、スクールアイドルに触れたことで生き方が少なからず変化した人は、シリーズのファンの中でも決して少なくなくて、経験としてかなり共感できるポイントだと思います。
その結果、自分のやりたいことを見つけられた人とか、何かを成し遂げた人も何人も見てきたんですけど、光あるところに影もあるように、そうならなかった人もたくさん見てきました。
ラブライブ!から貰った夢を「諦めてしまった」人や、何かを成し遂げたいと思ったのに、成し遂げたいものが「何もない」人。
特に梢センパイは、選択を間違えてしまうキャラクターなので、ラブライブ!の影響がとことん裏目に出てるんですよね。
でも、結局は元々の気持ちは同じなんですよね。結果的にどんな立ち位置に落ち着いたのであれ、ラブライブ!シリーズの作品から影響を受けた人であるならば、絶対に「もしも」の姿としてチラついてしまう姿。
それが、梢センパイなんです。
「私にはなにもない……。」という言葉も、シリーズで追っている人だったら、作品の中だったり、作品が好きな仲間だったりの言葉として既視感のあるものだったんじゃないでしょうか?
そして、だからこそ私たちは、梢センパイがどうしたらいいのかなんとなく分かっていたりするんです。自分と近いキャラクターだからこそ、選択を間違え続けるその姿を見て「素直になれ!」「話をしろ!」「仲間を頼れ!」と口を出したくなってしまうんです。
でも、私たちのその言葉が梢センパイに届くことはありません。私たちは活動記録で彼女の物語を覗き見しているだけで、実際に声を掛けられる場所にはいません。
そして、それは実際に近くにいる仲間も例外ではありません。梢センパイが本心を吐露するのは、活動記録の中でも数えるほどしかありません。残りは、カードの解放ボイスという、触れようとしてある程度入り込まなければ触れられない奥底にひっそりと隠してあって、公になることはほとんどありません。
私たちが、彼女の物憂げで儚くて傷ついた姿を魅力的に感じてしまうふたつめの理由は、彼女がどこまでいってもスクールアイドルであることです。良くも、悪くも。
確信を持ったのはこのシーンでした。
花帆が、梢センパイの夢を「分かっていなかった」と発言したうえでのこの言葉です。
花帆からすると、聞かされていなかったのではなく、「聞いてはいたけれどそういう意味だとは思っていなかった」ということになるはずなんですよね。
どういうことかというと、スクールアイドルに限らず表現においてよくある、「込められた想いが伝わっていなかった」ということです。
私たちは梢センパイの儚く消え入りそうな息遣いの中に、彼女のこころの奥底にある感情の存在を認識してそこに美しさを感じてしまうわけですが、それは文面の美しさとは別のものなんですよね。
それは、スクールアイドルの表現と共通するものだと思います。歌には歌詞があり、歌詞をテキストとして受け取って楽しむ楽しみ方もありますが、このテキストを「誰が」「誰に」「いつ」「どんな表情で」「どんな歌い方で」というような、言葉の外側にも表現はあり、そしてそこにしか宿らない想いは絶対に無視できない程に重要な要素となっています。
「言葉で語る」のではなく、「歌う」理由はそれなんだと私は思っていたりするのですが、梢センパイもそういうキャラクターになっているのだと思います。
本心を語らないで、嘘を吐いて。自分でも本心は分かっていないからこそ、その言葉は信用できなくて。
だからこそ、梢センパイって、言葉の外側が大事なキャラだと思いますし、それがすごく「スクールアイドルだな」って思うんですけど、それはきっと花帆を始めとした仲間たちにとっても同じだったと思うんです。
言葉の外側に、彼女の気持ちがあったからこそ、敏感な綴理はなんとなく彼女の嘘に気づいていて。
言葉の外側にある彼女の気持ちに気づいていなかったからこそ、花帆は夢を何度も聞いていたにも関わらず気づけなくて。
ある意味では、すごく残酷な設定を持ったキャラクターです。「スクールアイドルらしい」といえるこうした要素を、こんなにも裏目に出るように描かれるキャラクターだからこそ、私たちはきっと彼女の涙を美しいと感じてしまうのでしょう。
そして彼女が「スクールアイドル」らしいと思った理由はもう一つあります。それは、彼女がいつも選択を間違える理由が、「1人で抱え込む」からであることです。
スクールアイドルは、1人ではできないんです。
どれだけ伝えたい気持ちがあって、大切な想いがあったとしても、それを伝える相手がいなければ、その歌は誰にも届かないんです。
逆に、たったひとりでも聴いてくれる人がいれば、誰だってスクールアイドルになれるんです。梢センパイが憧れたμ’sだって、一番最初のライブの観客はたったひとりでした。でも、そのひとりが現れたからこそ、あのライブはスクールアイドルとしてのファーストライブになれた。そうだったはずです。
蓮ノ空はWith×MEETSという配信コンテンツがあり、ファンがコメントを書き込むことでスクールアイドルと私たちを繋げることを試みています。
だからこそ、最初梢センパイが「機械が苦手」な人だと分かった時に、かなり衝撃でした。え、この作品でこの設定大丈夫なの!?っていう。
活動記録を読み進めていくと、この「機械が苦手」というのは、スクコネ及びWith×MEETSも例外ではないことが分かりました。それどころか、彼女の機械が苦手な一面は、主にWith×MEETSに影響を与える要素としてばかり取りざたされています。
そして15話で、花帆に対して本心を最初は打ち明けようとはしなかった時。そんな梢センパイに対する花帆のこの発言で、全てが繋がりました。
ああ、なるほど、だから機械が「得意になる途中」なのか、と。
この人、「人と繋がる」のが苦手なんだ……!って。
梢センパイとは対照的に、配信が得意な慈は、トラウマさえ乗り越えたら基本的には心が強くて頼れる上に、(意地張ってなければ)選択を間違えないキャラクターです。
人と繋がるのも得意で、なおかつ、沙知先輩からは「言葉なら慈」とも評されています。
そういうのもあって、機械が苦手な梢は、この慈の長所になっている部分が全部弱点になっているんです。
梢センパイがスクコネで配信をやって、私たちはWith×MEETSでコメントをして。そういう関係性があるからこそ、私たちはあの子たちにとっての「想いを伝える相手」となります。
つまり、With×MEETSを通して私たちとスクールアイドルが交流する事は、そのまま彼女たちの「歌う理由」になっているんです。
……では、そんなスクールアイドルに「機械が苦手」という設定があったとしたら?機械が苦手で、それが主にWith×MEETSの場でマイナスに働いていたとしたら?
そう、それが梢センパイなんです。
たぶん、私たちとの繋がりという点では、梢センパイがいちばん弱いんですよね。そしてそれはそのまま、梢センパイがスクールアイドルとして「想いが上手く伝わらない」ことのメタファーとして機能しているんじゃないかと思います。
きっと、まだ私たちじゃダメなんです。だって、スクコネやWith×MEETSは、梢センパイにとって得意ではないことだから。
私たちと梢センパイは、きっとまだうまく繋がれていないんです。
繋がっていないからこそ、梢センパイは孤独でした。孤独だからこそ、選択を間違えます。想いは誰にも伝わりません。
そうして、誰にも伝わらない想いや、選択を間違え叶わなかった夢は、後悔となって、自罰的な梢センパイをずっと呪いのように縛り続けます。
なんと「スクールアイドル」らしいのでしょう?
なんと儚くて、美しくて、愛おしいのでしょう?
だからこそ、自分から繋がりを求めた花帆は、梢センパイにとって運命だったんだと思います。
機械が苦手で、本心を打ち明けることに臆病で、孤独なまま想いを抱え込む彼女にとって、花帆が運命共同体として、その想いも、傷跡も、絶望も、後悔も、罪も、孤独も全部受け入れて、そして、「ラブライブ!優勝」という呪いと化した夢さえも信じて、その全てを愛してくれているからこそ、本当の意味での「想いを届ける相手」になったんだと思います。
たとえ、私たちに想いが届かなくて、誰にも声が届かなかったとしても、「梢センパイには、日野下花帆がいる」と信じることができるなら本当の意味で「スクールアイドル」になれると気づいたからこそ、最後に「花帆さん」から「花帆」へと変わったんじゃないかなと思います。
繋がることが苦手で、誰との繋がりも本当の意味では信じ切れていなかった梢センパイが、初めて「繋がること」を信じることができた相手が花帆だったって、そういうエピソードだったと思うんですよね。
リンクラは一周年を迎え、スクールアイドルたちも進級して、蓮ノ空は現在104期となりました。
メンバーの追加や学年の更新に伴い、公式サイトの自己紹介も更新されています。
梢センパイの紹介ページを見ると、最近は少し機械の操作に慣れつつあることが仄めかされています。
去年は、「繋がること」も「機械の操作」も、梢センパイにとっては弱点でした。
でも、去年とは違って花帆との繋がりを信じることができるようになった今年は、機械の操作もちょっとだけ上手くなってきたみたいです。
今はまだ得意になる途中だとしても、いつか梢センパイが機械の操作が得意になるその日には、きっと画面の向こう側にいる私たちの存在も、梢センパイにとって信じられる繋がりになっていて欲しいな、と思っています。
私たちが、「あなたを支える力」になれるその日まで、ずっと応援しています。
2024年4月30日
#蓮ノ空感想文 #LinkLikeラブライブ #リンクラ #乙宗梢 #蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ #蓮ノ空 #ラブライブ
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?