見出し画像

中島義道先生について思うところを書いてみます

 僕が若い頃好きでよく読んでいた、哲学者の中島義道先生について、話そうと思います。
 若い頃の僕は中島義道先生を師と仰いでいました。中島義道先生は、ある種の人には、非常に心に刺さる文章を書く方です。幼かった僕は、中島義道先生の考え方に、非常に感銘を受けたものです。しかし、大人になるにつれて、中島義道先生の哲学の方法では、生きるのがしんどくなってきました。だから、そろそろ中島義道先生からは卒業するべきか、と思いまして、この文章を書いている次第でございます。

 このブログは糸崎公郎さんというYoutuberの方にアドバイスをもらいながら書いた文章になります。
 糸崎公朗さんも、若い頃中島義道先生に傾倒されていたようで、哲学・アートに造詣が深い方です。なんとなく僕と近しいものを感じる方です。最初、僕は中島義道先生に対する誹謗中傷スレスレの文章をわーっと書いてしまっていましたが、糸崎公朗さんから、「きちんとリスペクトを持って批判するべき」とのアドバイスをいただき、大幅に文章の変更をいたしました。
 糸崎公朗様、ありがとうございます。糸崎公朗さんのYoutubeチャンネルはこちらになります。

https://www.youtube.com/@kimio_itozaki

 中島義道先生は天才向きの生き方を勧める方です。
 中島義道先生の生き方は、「感謝・謝罪はするな」「孤独であれ」「欠点を伸ばせ」「つまらない常識人間になるな」「多数派と違う感性を持て」という教えを実行するというものです。
 これは上級者向きの生き方です。多くの普通人にはオススメできる生き方ではありません。
 大人になるにつれて、「ああ、人生は諦めなければならないことがたくさんあるんだなあ。」「自分は思ったより大した事ない奴なんだなあ」と、悟っていくわけですが、僕も仕事をして上司から怒られていく中で、そんな風に思うようになり、自然と中島義道先生の哲学からは離れていきました。

 感謝・謝罪がないと人生はハードモードになりますし、孤独だとそもそも人間は長生きできないようにプログラムされています。「孤独であれ」と、中島義道先生自身も言いますが、孤独で生き辛いとこぼしていました。欠点は長所になるという見方もできますが、自分を客観的に見て、自分の弱点の中で直せるところは直していこう、という姿勢はどうしても必要になります。また、常識を疑うのは常日頃からやったほうが良いことですが、常識的な解決策を見つけるのが最適解であることは多いです。また、多数派と違う感覚を大切にしたいという気持ちも分かりますが、柔軟な思考ができたほうが人生は楽になります。

 「感謝・謝罪はするな」「孤独であれ」「欠点を伸ばせ」「つまらない常識人間になるな」「多数派と違う感性を持て」という信念を貫き通すというのは、ある意味、魅力的な面もあります。ちょっと幼い勘違いのような側面もありますが、若い人はこうあって欲しいものです。人生の価値観に優劣はありません。このような生き方を死ぬまで貫くというなら、中島義道先生もある意味魅力的です。

 これから中島義道先生がASD(発達障害)であるように僕には見えるという理由で、批判を始めていきたいのですが、
 最初にASDの良いところ、中島義道先生の良いところを述べていこうと思います。
 ネット上では人を誹謗中傷するためにASDというレッテルを貼る人がちらほらいますが、そういったレッテル貼りは、ASDの方への偏見を生むので良くない、ASDであることを肯定的に見ていこう、と、糸崎公朗さんが僕の文章にアドバイスをくださりました。全くその通りだと思いました。僕はASDの人が好きです。病識(=自分が病気であるという自覚)のないタイプのASDに苦手意識があるわけです。自覚すればASDの症状も和らぐと、糸崎公朗さんもおっしゃっていました。僕はきちんと自分を知っているタイプのASDの方を大変尊敬しております。Youtuberの光武克さん・吉濱ツトムさん・コスメティック田中さんなどは、素晴らしい人格者だと思います。

 中島義道先生には独特の視点があります。普通の人より足りない部分、過剰すぎるほど優れた部分があり、能力に凹凸があります。「中島義道先生Bot」というアカウントがTwitterにありますが、なかなか良いこと言ってます。

 また、弱い立場の人に独特の優しさをみせるところもあり、哲学に対してはアイデアマンです。
 アイデアに関しては、「中島義道先生Bot」というTwitterアカウントを見ていただけたら、その面白さが分かっていただけると思います。

 また、ASDの人は独特のかわいらしさがあります。
まだ社会性を身につけていない少年のような純粋さがある人が多く、感受性も多数派の人とは違います。バーベキューなどをしていて、みんなが、どっと笑いだしたりしたら、「なにがおもろいんだコイツら」とか思ったり、茶番があると、「それ、全く意味ないですよね」とか、突然場が凍るようなことも言ったりします。この辺は優れた愛嬌だと思います。

 さて、それでは中島義道先生の批判に入りたいと思います。
 中島義道先生はASDである可能性が高い、と言えると思います。僕は医者ではないので診断は出来ませんが、中島義道先生は ①自己理解 ②他者理解 ③柔軟な思考 この3つが出来ないASDである可能性が高そうです。僕がなぜ「中島義道先生はASDかもしれない」と思うのかというと、以下の特徴が当てはまるからです。

・こだわり行動がある
・相手の言葉を額面通りに受け取る
・特定のことに強い興味や関心を持っている
・無神経(自分は繊細だと思っている)
・他者がどう思っているのか、想像力が乏しい
・多数派と違う感受性を持っている
・運動音痴で不器用である
・しょっちゅう反芻思考をする
・集団の中に入れない
・会話を双方向的に展開するのが苦手である
・相手の考えていることを表情や言葉のニュアンスから読み取ることができない
・幼い頃、チックがあった
・場の雰囲気を読むことが苦手である
・人間関係がいつもうまくいかない
・マイルールを他人に押し付ける
・べき思考が強い
・超自我が強い
・認知が歪んでいる
・恥ずべきことを恥と思わず、恥じる必要のないことを恥じる
・パートナーをカサンドラにしてしまう
・プライドが高い
・被害者意識が強い
・自分は寛容すぎると思っている(実際は心が狭い)
・独自の世界観を持っているように見えるが実は自分が無い
・指示が無いと臨機応変に対応できない、融通が効かない
・自他の境界があいまいで、他者への投影、転移がある
・平凡恐怖がある
・衝動が強く我慢が出来ない
・無駄なことにいちいち反応する
・無駄なことにいちいち判断、批判をする
・独自の愛がある
・傷ついた人に深い思いやりを示す。
・アイデアマンである

 こういった点から、僕は中島義道先生がASDであると推測しています。

 最初に中島義道先生に違和感を感じたのは、行動がそのまんまクレーマーであるという点です。客観的に見ればクレーマーなんですが、自分は理屈の通った理知的な人間で、クレーマーではなく「戦う哲学者」なんだ、と勘違いの自認をしておられるようです。
 中島義道先生は人の気持ちを察する能力が低いと、ご自身でもおっしゃっておられました。他人の気持ちを察することが出来ないので、ちゃんと自分に分かるように丁寧に説明してほしいと、他人には求めます。お互いが察し合うことを求める社会ではなく、自分の気持ちを言葉にして表し合う健全な社会がいい、と中島義道先生はおっしゃいます。
 これには全く賛成です。僕も他人の気持ちを察するのは苦手なので、分かるように言葉で説明してほしいと、よく思います。しかし、中島義道先生は、人の気持ちを察する能力が極端に低いように見受けられます。他人には「自分にも分かるように言葉で説明してほしい」と要求するようですが、自分は他人に自分の気持ちをちゃんと分かるようには説明していない場合も多いようです。
 例えば、中島義道先生はしょっちゅう店員にクレームを入れますが、「店員が理由も分からないのに、ただひたすら、『申し訳ありません、申し訳ありません』と謝ったので、怒鳴りつけてやった。」みたいなことを書いていました。中島義道先生の怒りのポイントを店員さんが理解してくれたら、怒ることはなかった、といったニュアンスで中島義道先生はおっしゃっていました。
 しかし、これでは、店員さんもどうして怒鳴られているのか、分からないはずです。店員は中島義道先生の気持ちを察することが出来ませんから、ちゃんと怒らず丁寧に説明すればいいのに、さらに激しく怒鳴りつけたようです。
 おそらく中島義道先生は、その店員さんが「単なるクレーマーは理由も聞かずひたすら謝っとけば良い」という態度を取ったように見えたので腹を立てたのでしょう。「俺をクレーマー扱いしやがって」と。そうではなく、店員さんは中島義道先生にどう対応すれば良いのか分からなかっただけではないでしょうか?
 ひたすら謝るのが正解の場合のクレーマーもいますし、理由を聞こうとする態度を示した方がいい、中島義道先生のようなタイプの人もいます。単にこの店員さんはその様な理解がなかったのでしょう。
 中島義道先生は、暗にこの店員さんに、自分の気持ちを察することを強いています。ここに、中島義道先生の自己の非対称性があります。これが僕の違和感の正体です。自分は良くて他人は許せない、という点です。これは中島義道先生にとっての盲点ではないか?と思われます。

 「あの店員は謝りながらもきっと裏では、『ああいう客は気をつけろよ』、と、部下に言っているに違いない」と、中島義道先生は書かれていました。そうでしょうか?店員さんもそんなに暇ではない可能性もあります。「もっとクレーム対応、上手くなりたいな」と、思っているかもしれません。中島義道先生の認知からしたら、「他人はこんなもんだ」「謝っている店員なんてこんなもんだ」と、そう見えるんでしょう。

 中島義道先生は、自著の中で何度も「自分に正直に生きたい」と言います。この言葉を見ると、どうしてもこの漫画のワンシーンを思い出してしまします。(ロクニシコージ「こぐまレンサ」より)

 中島義道先生は、自分に正直に生きたいという思いは美しい、と考えているし、言っているようですが、客観的に見てこういうキモチワルさがあるものです。

 また、中島哲学は「目の前にあるものしか信じない」というものなのですが、これはASDの特徴が由来のように僕には見えます。野波ツナ先生の「旦那様はアスペルガー」という漫画の中でこの様な描写があって、これなどは、中島哲学をよく表していると思います。

 では、もう少し中島義道先生を深掘りしていきたいと思います。

①まず、中島義道先生の自己理解について。

 中島義道先生はあまり自己理解が出来ていないようです。自己理解が出来ていない人間に限って「自分のことは自分がいちばんよく分かっているんだ」と言います。中島義道先生は頻繁に自己嫌悪をして自分を攻撃しているタイプの人間ですが、正しく自己を見ていないようです。
 中島義道先生は自己を客観的に、俯瞰して見ることができないように見受けられます。自分は特別な人間なんだという思いが強く、平凡恐怖があるようです。自分は平凡な人間ではないんだ、天才なんだ、という強い思いが行間から読み取れます。
 また、ASD特有の盲点があるようです。端的に言えば嘘つきです。自分が嘘つきであるという自覚は無いようです。例えば「異文化夫婦」の中で「自分は食べ物にこだわりがない」などと書いていました。嘘です。食べ物に関しては大変なこだわりがあります。そのこだわりが奥さんにどれだけ迷惑をかけているのか、理解できていないようです。だから自分の嘘には無頓着なのです。

 また、香山リカとの対談で「健康的なことが好き」と言っていました。これも嘘です。中島義道先生の周りにいる女性(母親や姉や奥さん)が不健康なことをしているのは嫌いなので、このような発言があった訳ですが、自分は散々不健康なことをしています。自分のやっている不健康なことに自覚はありませんが、周りの女性たちが少しでも不健康なことをするのは許せない様です。とても視野が狭いのです。

 中島義道先生は不健康で疲れやすい考え方をしています。
 「怒りを表現しなければ損だ」と思っています。「怒らないようにしよう」という常識的な発想はありません。被害者意識が強いので、自分の感受性が侵害されたとすぐ思い込み、癇癪を起しやすいからでしょう。

 不健康で疲れやすい考え方、というなら他にも、自分の中の「嫌い」という感受性を大切にする、という特徴があります。自分の持っている歪んだモノサシで周りを測り、周りも自分も不幸にしていくわけですが、自分のことが見えていないため、これがむしろ健康的なんだ、とさえ思っているようです。中島義道先生の周りにいる女性(母親や姉や奥さん)が自分の中の「嫌い」という感受性を大切にしていたら、恐らく彼は彼女達を嫌悪することでしょう。無自覚な嘘つきです。

 他にも、「周りが明るい雰囲気だと元気がなくなる、周りが暗い雰囲気だと元気が出る」と言っていましたがこれも嘘です。母親が暗い雰囲気だと元気がなくなります。しかし、周りの明るい雰囲気をぶち壊すのは好きな様です。

 中島義道先生に対して、あなたは嘘を吐いている、と言うとびっくりすると思います。盲点だからです。ASDの人には盲点があるといいます。自分が他人に及ぼしている迷惑については鈍感ですが、自分の心が侵害されたことについては、過度に攻撃的になるタイプのASDの方は一定数おられるようです。一般にASDの方はメタ認知能力が低いと言われています。中島義道先生は「自分は怒って当然なんだ」と思っているようです。

 中島義道先生は自己評価が低いので、しょっちゅう自己嫌悪をし、自分を攻撃しています。これはただ想念を垂れ流しているだけで、ASDの方によくある「反芻思考」である可能性がありますが、これで「自己批判が出来ている」と思っているようです。「自分のことはよく分かっているんだ」と、勘違いしているみたいです。周りの善良な多数派の人間は自己批判が出来ていないように見えるらしく、他人にはやたら厳しいです。例えば、「『俺、バカだから』と言う人は、本当にバカなのです!」と言い、手厳しく攻撃します。その人がなにかしたのでしょうか?「周りのやつらは自己批判能力が無い」と、大声で喚くのです。

 中島義道先生は恐らく哲学を、現実的な問題や具体的な問題から目を背けるための道具にしているのでしょう。「なぜ?」と抽象的な話をするのは好きだけれど「どうするか?」という現実的、具体的なことを考えたくないため、逃げているように見えます。

 また、中島義道先生は「俺はスゲーんだ。天才なんだ」という異常なまでのプライドの高さと「自分は醜く、最低なんだ」という自己肯定感の低さを同時に持つようです。「自分にはこういう良いところもあれば悪いところもある」というニュートラルな視点で自己を認識できないようです。
 歪んだナルシシズムが邪魔をして自分自身を等身大に見ることが出来ないのです。自著の中で自分は冷酷な人間なんだと、中島義道先生は書かれていまいした。そんなことはないです。色々手厳しいことを僕は言っていますが、中島義道先生にも良いところはあります。独特の愛嬌もあります。中島義道先生は普通の他人には不寛容ですが、窮地に立たされた人には寛容です。中島義道先生にも独特の愛があり、傷ついた人間や哲学を目指す若者などに、深い愛情を示すことがあります。中島義道先生にもいいところはたくさんあります。
 中島義道先生はあまり自己理解が出来ていないようです。

②次に他者理解について。

 中島義道先生はあまり他者理解が出来ていないようです。自己理解が出来ないので他者理解も出来ないようです。中島義道先生にはASD特有の想像力の無さがあるように見受けられます。「この人ならこう考えるだろう」という推論が出来ないみたいです。
 学校の勉強は出来るのに、他人の気持ちを理解することは苦手なようです。
 一般にASDの方は自分の感情、感覚に対して極端に鈍感な部分と極端に敏感な部分(凹凸)があり、他人の気持ちが言語外から理解できない、と言われています。
 また、自分の延長でしか他人を見ない。自他の境界が分からない、という特徴を色濃く持つASDの方は多いです。
 中島義道先生も本質的に他者というものは自分とは考えが根本から異なるということが理解が出来ていないようです。
 中島義道先生はどうも自分の延長にしか他人を理解しないようです。自分の視点からしかものごとを見ず、自分の視点から一歩も外に動けないのです。

 江國香織が秋葉原で周りの騒々しさを気にせず、本を読んでいるシーンがあり、「その感覚はおかしい」と、中島義道先生は批判をしていました。自分なら秋葉原なんて騒々しい街で本など読んでいられない。江國香織は感覚がおかしいのだ。などと言っていました。多分中島義道先生は自分が他人と感覚が違うことを分かっていません。自分の感覚が他人にも通用すると思っているようです。そのためマイルールを他人に押し付けます。

 中島義道先生は「最近の若者はプライドが高すぎるのではないだろうか?」と言いますが、プライドが高いのは中島義道先生自身ではないでしょうか。
 「最近の人たちは自分の感覚も分からなくなっているのではないだろうか?」とも言います。ASDの人は感覚鈍麻がある人が多いので、自分の気持ち・感覚に鈍感な人が多いです。
 自分の感覚が分からないのは中島義道先生自身ではないでしょうか?中島義道先生の文章を読んでいると、それは他人のことなのか自分のことなのか、ぐじゃぐじゃになっています。これも自他の境界が曖昧になるASDの特徴だと思います。

 自他の境界が分からないので、奥さんをカサンドラにしています。
 女の好きな10の言葉という本の中で、女は恨み節の言葉が好きだ、と中島義道先生は言います。
 「ほんとうの愛って何?」「私はあなたの何なの?」「私を人間として見て!」「あなたには私が必要なの!」「あなたは不潔よ!」「私に何でも言って!」「私に心配かけないで!」
 この様な言葉は、どんな男っぽい女でも、つい言ってしまう、などと中島義道先生は書いていますが、彼に関わった女だから発しているのではないでしょうか?中島義道先生が相手なので、パートナーになったら、どんな女でもカサンドラになってしまうのではないでしょうか?
 「あなたは不潔よ!」というのは、中島義道先生が不潔なことをしていたから言われたのだと思います。自分を改めようとは思わないみたいです。

 おそらく中島義道先生の奥さんは、まだ社会性を身に付けていない少年のような中島義道先生の素晴らしさに気が付くことの出来る人だったと思います。そのような奥さんを大切にしてほしかったです。

 「もう少し奥さんの気持ちを考えてあげたら?」「他人の立場に立ってみましょうよ。」
 これを言われると中島義道先生は怒り狂う様です。そして、「そもそも人間は他人の立場に立てないんだ」などと言い出すことでしょう。
 確かに完璧に他人の立場に立つことは誰も出来ませんが、「多分この人ならこう考えるだろう」という推論が出来ないのでしょう。
 中島義道先生はいつもゼロヒャク思考で考えるようです。必ず白黒つけたがります。認知の歪みがあります。精神病気質の人間はゼロヒャク思考、白黒思考をしたがります。実際、中島義道先生も精神が病んでいます。

 中島義道先生はものごとを曖昧なまま受容することが出来ません。だから「他人とは理解し合えない」などと極端なことを言います。「他人とは理解し合える部分もあるし、そうでない部分もある」という柔軟な考えには至りません。そして、「他人とは理解し合えない」などと言っておきながら、他人と100%理解し合おうとします。特に、奥さんや母親に対して100%の理解を求めます。これもASDの特徴です。マザコンのASDは多いそうです。中島義道先生もその様です。

 中島義道先生は奥さんや母親の批判ばかりしていますが、奥さんや母親が欲しいのは「ありがとう」とか「ごめんなさい」の一言なのに、それが分かっていません。

 中島義道先生はあまり他者理解が出来ていないようです。

③最後に柔軟な思考について

 中島義道先生は全く柔軟な思考が出来ていません。
 中島義道先生は感謝・謝罪が出来ない人間です。生まれてきたことに感謝などするものか、と思っているようです。ASDの特性ゆえ、謝罪ができない、という人はいます。感謝・謝罪が出来ない人間の人生はハードモードになりますが、自分から人生をハードモードにしておいて、「生きづらい」「こんな目に合うのはお前らのせいだ」などと不平・不満・愚痴・批判・攻撃を周りの人々に撒き散らします。特に、奥さんや店員など、弱い立場の人間に攻撃的になります。
 中島義道先生はクレーマーですが、クレーマーは大抵「自分は被害者だ」「俺をクレーマー扱いするな」と思っています。中島義道先生もご多分に漏れず、そうです。
 自分の満足のためなら、他人の嫌がることもする。これが「真実の追求だ」「哲学なんだ」と思っています。認知が歪んでいます。

 ASDの人は感覚過敏や感覚鈍麻がありますが、中島義道先生もその様です。聴覚過敏があるのですが、聴覚過敏に効くリスペリドンやアリピプラゾールといった薬物を飲もうとしません。周りの人間のほうを変えようとします。
 マイルールを他人に押し付けるのです。

 確かに、機械の音声が耳障りであるという意見は当時誰も言わなかったことだし、「うるさい日本の私」は、良い問題提起をしたということもあって、画期的な良書でした。しかし、中島義道先生のほうも、薬を飲んで周りに合わせ、妥協し、歩み寄ることを少しくらいはしても良いのではないでしょうか?全く自分を変えることが出来ない様です。

 柔軟な思考が出来ないため、叱られたとき、「良い機会だから自分を変えていこう」などとは思わないようです。とにかくプライドが高く、歪んだ自己愛を大切にするので、叱られたとき、単に「屈辱を受けた」「暴力的なことをされた」と思うだけで、自分のやったことには目が行きません。

 怒られることが非常に苦手で、死活問題になるようです。
 中島義道先生自身は「人のために怒る」ということが無いため、「自分のために怒ってくれている」という発想がありません。どんな他人も自分と同様に「人は自分のためだけに怒るものだ」と思っています。怒ってくれている相手を自分と同じレベルに引きずり降ろします。叱られた経験を活かして成長するということがないのです。

 自分を変えていくことが出来ないため、恐ろしく未熟です。単に物知りな子どもです。
 個別具体的なものをたくさん覚えておくことは出来ますが、情報を統合して全体の意味を求める指向性や意欲の傾向が低いのです。これは高学歴ASDの特徴です。中島義道先生もこのタイプのようです。

 とにかく自分は変えたくない。しかし、他人の行動を変えさせたいというこだわりと情動から、その場しのぎ・苦し紛れのありとあらゆるアイデアを中島義道先生は考え出します。

 中島義道先生は全く柔軟な思考が出来ていません。

 以上、中島義道先生についての考察でした。
 かなり手厳しい批判をしてしまいました。
 中島義道先生、申し訳ありません。そしてありがとうございます。
 この文章を書く際は糸崎公朗さまのアドバイスをいただきました。ありがとうございます。

 長文になってしまいました。最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?