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物語は、「私」を拡張させる

小説を読む。映画を観る。

ともすれば、「趣味」「娯楽」として片づけられてしまうもの。効率やわかりやすさが求められる社会において、それらは余剰の多すぎる情報でしかないと捉える人もいるかもしれない。

たしかに、一冊の本を数日かけて読む、一本の映画を2時間かけて観る、それだけの時間を費やすだけの費用対効果を示すのは難しい。同じ時間を資格試験の勉強に費やすなり、仕事にまつわる情報収集をするなりした方が収入やキャリアアップにつながりやすい、わかりやすく「有意義な」時間の使い方かもしれない。

けれど私は、時間をかけて物語の世界に入っていきたい。それは単なる娯楽ではなく、自分の枠を広げるための行為だと思うから。これまで他人事に見えていたことが、自分ごとになってゆく。

そうやって世界の中の「自分」の領域を広げることも、物語のひとつの役割なんじゃないかと思う。

今月公開された映画「52ヘルツのクジラたち」にまつわる鼎談のなかで語られた杉咲さんの言葉たちから、その思いを新たにさせられた。

記事の中盤で、杉咲さんは当事者たちの傷や苦しみを「消費」してしまっているかもしれないという危機感について語っている。

例えば、性的マイノリティの悲劇的な物語を見ながら涙してしまうとき、それは自分のジェンダーやセクシュアリティについて悩んだり、世間の偏見や差別に傷ついたり、生死を脅かされるような経験をしたことがない安全圏にたまたまいたということからきているのかもしれないと思うんです。私はそれを容易に感動と呼んではいけないと思っていて。当事者たちの境遇を“消費”してしまっているかもしれないという恐れを抱いています。

いち鑑賞者として、彼女のこの視点は胸に刺さった。「リスペクト」という見上げるかたちさえつくれば、彼我の間に線を引いて他人事として眺めることに罪悪感を持たずに済む。こんな大変な人たちもいるんだ、出会うことがあったら優しくしてあげなくちゃ、そのことを知れただけでも意義がある。

他者の苦しみを自分の中で消化する上で、そういう綺麗ごとで済ませてしまうことに、いち受け手としてずっとうっすらした嫌悪感と葛藤があった。

小説は、「これは私の物語だ」と思わせるのが素晴らしい作品だとよく言われる。それは主人公の設定や境遇のようなわかりやすい部分ではなく、同じ思いを味わったことがある、似た感情を抱いたことがあるという、もっと深く広い意味での共感だと私は思う。

ゆえに、名作と呼ばれる小説たちはあらすじだけ読むとろくでもない登場人物ばかりなのに、その人間らしさに惹き込まれてしまう魅力がある。時代も社会情勢も違っていても「これは私の物語だ」と思わせる、人間というものに共通する深い理解。それが名作を名作たらしめているのだと思う。

これは小説に限ったことではなく、映画にしても歌にしても、自分の物語として受け取る人が多ければ多いほど、よりたくさんの人の心を動かすことができるのだと思う。

逆にいえば、受け手としては、さまざまな物語のなかに、「私」を発見していきたい。そうやって自分の世界に内在する傷や悲しみの幅を広げることで、世界を優しく包めるようになりたい。

いつの頃からか、そんな思いで物語に向き合うようになった。

たとえば、ちょうど二年ほど前に原作を読み、映画も観た「流浪の月」。この作品には深く心を揺さぶられ、小説と映画それぞれの感想を書いた。

私は登場人物たちの困難と同じものを抱えているわけではない。主人公二人のような関係の人がいるわけでもない。けれど、人に理解されない苦しみや「普通」から解き放たれた関係性の心地よさなど、深く共感するところが多かった。

何ひとつ私の境遇と似ているところなどないのに、「これは私の物語だ」と思った。死ぬまできっと、ことあるごとに何度も思い出すし、きっと何度も読み返す。そういう物語だ、と思った。

小説や映画は、すぐに何かが得られるような類のものではない。けれど、いい作品はずっと頭の片隅や心の奥底に残り、ふとしたときに浮かび上がってくる。何度も何度も、自分のなかで物語が繰り返される。そして何気なく観たシーンに、ある日思いがけず救われたりする。

分かり合えなくても、寄り添える人や場面が、少しずつ増えていく。物語を自分の中に内在化させる醍醐味は、そうやって時間をかけて、他者に優しく向き合う素地をつくりあげるところにあるのではないかと思う。

この感覚と対極にあるのが、時事ニュースに対するインターネット上でのコメントだ。それらを読んでいると、書き手にとって自分とそのニュースは明確に分けられているのだ、と感じることが多い。自分は「そちら側」にはならないという絶対的な自信。あくまで他人事だから発することができる言葉たち。

もちろん、学びになる意見や自分にない視点もたくさんあるし、「大衆」というかたちのないものを批難して溜飲を下げるような短絡的な結論を導き出したいわけでもない。すべてに心を寄せていたら疲れてしまうから、ある程度は自他を切り離す必要もたしかにある。

けれど、自分と他者を明確に切り離して、その属性や立ち位置にレッテルをつけて、自分以外の人を記号的に消費し、評価していく論調に慣らされすぎてしまうと、この世界への恨みばかりが増幅してしまうような気がする。

この世界は、人間という生き物は、とても複雑で割り切れなくて、言葉では表しようのない感情もあって、それぞれがどうしようもない苦しみも抱えている。その難しい部分を無視して、効率だけを利己的に追いかけていった先で苦しむのは、実は自分自身だったりする。

昨今のテレビやYouTubeなどでは「号泣、爆笑、感動」といったわかりやすい言葉が目につく機会が増えている気がするし、その明確さが人を惹きつけて評価されやすい時代なのだと思うんです。でもそういう言葉だけでは表現しきれない、人間の複雑な感情を生活者たちは知っているはずで。そこに潜り込んで、自分だけの正解を見つけ出す2時間があってもいいと思うんですよね。

そのわからなさの先に広がる想像力こそが、誰かへの優しさにつながるんじゃないかって。そうやって、観客が映画館を出たあとのことに思いを馳せながら作品づくりをすることが大切なのではないかと思っています。

いい物語は、暇つぶしのために刹那的に消費するものではなく、自分の中に地下水のようにこんこんと溜まり、財産になっていくものだと私は思う。そしてそのためには、受け手である私たち自身も、それぞれの物語の中に「私」を見出し、共感することで、少しずつ自分自身を拡張していく必要がある。

そしてその物語から受け取ったものは、必ずしもわかりやすい言葉に変換してしまっておく必要はない。複雑でわかりにくいものは、複雑でわかりにくいまま、自分のなかに置いておく。するとある日、すとんと意味が腑に落ちる日がくる。

むしろそのために、何時間もかけて本を読んだり、映画を観たりするのだと私は思う。あらすじや結末だけ情報として知っても、それは物語を理解したとは言えない。すべてを自分で観て、自分で読むことでしか、物語の要諦はつかめない。

どんどん情報は細切れになり、話題が流れるスピードは早くなっていく。その中で「自分」を保ち続けるためには、物語によって自己を拡張していくという逆説的な作業が必要なのかもしれない。

(カバー画像は、先日まで開催されていた岩井俊二監督のポップアップショップで展示されていた映画「スワロウテイル」のチェキ。強く感銘を受けた作品のひとつなので、当時のCHARAがそのまま映し出されたチェキはタイムカプセルを掘り起こしたときのような感慨があった)

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