見出し画像

二元論を超えて〜宇宙開闢の世界観




夜空に瞬く星々の多くが単独の星ではなく連星(Binary Star)であることが、観測技術の向上にともない分かってきました。太陽を除いて地球から見える最も明るい恒星のシリウス(-1.46等級)も、肉眼では1つに見えますが実はシリウスA(主系列星)とシリウスB(白色矮星)から成る二連星です(※三連星という説もあります)。


双子座の双子(Pollux and Castor) の兄カストルは変光星ですが、変光の原因は三連星が互いに干渉し合うことによって見かけの明るさが変化するためです。しかも、その三連星はそれぞれが二連星で、つまり六重連星ということになります。双子座はカストルとポルックスだけで7つの星を冠する、実に豊かな星座なのです。


観測技術の向上に伴い、これまで単独星と思われていた星が連星であることがわかり、連星の割合は年々増えています。そもそも星が誕生する初期の段階では、二連星、三重連星、四重連星が一般的で、単独星は滅多にないということも判ってきました。 そして、力学的に不安定な三重以上の連星は単独星を放出して二連星として安定し、放出された星が単独星として成長するのです。



星の始まりが連星だからでしょうか、我々は世の中を、善と悪、陰と陽、左と右というように二元論で捉えがちです。ところが、これら二極を際立たせ二元論として成立させるためには「これ(第一の存在)」と「それ(第二の存在)」のあいだの「第三の存在(媒体)」が必要となります。この「第三の存在」を忘れると二元論はたちまち「これ」対「それ」の対立構造に陥ります。


たとえば「月は地球の周りを回っている」という現象を二元論的に捉えると「地球が月を従えている」となり、そこには主従関係が生じます。これは極めて男性的で独善的な左脳思考と言えます。あるいは「月は地球に守られている」と、女性的で母性的な右脳の感性で捉えることもできますが、これも強者と弱者という主従関係にほかなりません。


では、現在夜空の星々を支配している二連星の恒星たちの関係はどうでしょう。連星のあいだには必ず互いが公転し合う中心点(=「共通重心」)が存在します。私たちの〝目には見えない〟共通重心という「第三の存在」がそこにあるからこそ二者の関係は安定し、どちらかがどちらかを従えるという主従関係ではない、イーブンでフラットな関係性が現れるのです。


実はこの関係性は地球と月のあいだにも当てはまります。地球と月では地球の方がかなり重く大きいため、その共通重心は地球と月の間ではなく地球内部に位置します。地球も月によってほんの少しだけ振り回されているのです。月は地球の周りを公転しているのではなく、地球と月もシリウスABと同じように共通重心の周りを公転しているのです。


「第三の存在(共通重心)」が「第一の存在(地球)」の内部にあるために、あたかも「第一の存在(地球)」が「第二の存在(月)」を従えているように見えるのですが、自己の内面にあって目には見えない「第三の存在」をしっかりと認識できれば、天使と悪魔、男と女、左脳と右脳といった対立構造ではなく、調和と安定、融合と合一いう、この大宇宙の普遍的な本質に気づくことができるはずです。


キリスト教には〝父と子と聖霊(The Father, The Son and The Holy Spirit)〟という「三位一体」の思想があります。また、日本の古事記には、世界の始まりに〝天之御中主(アメノミナカヌシ)と高御産巣日(タカミムスビ)と神産巣日(カミムスビ)が現れた〟「造化三神」という天地創造の概念があります。


一神教のキリスト教も多神教の神道も、実はいずれも「三神(三柱)」からなる三元論がその根本ルーツにあるのです。この天地創造に繋がる宗教観は、夜空を埋め尽くす二連星たちの関係性と重なります。「恒星A」と「恒星B」とその関係を愛の絆で安定させる「共通重心C」という三元論こそが、この大宇宙の天地創造の真理と言えます。


科学の進歩により人類は、計り知れない発展を享受しました。しかし、科学技術の発展は時として軍事利用、クローン、遺伝子組み換えなど、殺戮と戦争、道徳や倫理の問題に直面します。アインシュタイン(Albert Einstein)は『宗教なき科学は足が不自由で、科学なき宗教は盲目である』と言いました。左脳的な科学と右脳的な情緒を統合できない葛藤が、現代科学が次元の壁を超えられない要因なのかもしれません。


私たちの左脳と右脳のあいだには「松果体(The pineal gland)」という内分泌器官があります。フランスの哲学者ルネ・デカルト(René Descartes)は、『この世にある「物質」と「精神」という根本的に異なる2つの実相は「松果体」を通じて相互作用する』と唱え、松果体のことを〝魂の座(seat of the soul)〟と考えました。デカルトは二元論の融合には、魂という第三の存在が必要だと気づいていたのでしょう。


二極が対立したときには、目には見えずとも両極のあいだに存在する、もしくは自己の心奥に内在する共通重心としての愛や思いやり、右脳と左脳を繋ぐ松果体としての魂のありかを探すことです。それは単なる〝概念〟ではなく、紛れもない〝実体〟としての「第三の存在」です。魂の座で思索を深め公転のバランスを取り、「男(オトこ)」と「女(オんナ)」という二極性を超越した「大人(オトナ)」として、星々が誕生したこの愛情豊かな大宇宙へと帰還したいものです゚・:,。☆

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?