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『桜』

 深爪した親指で音楽プレイヤーのボリュームを最大まで上げながら、信号のない横断歩道の黒い部分を踏む。
 人影はまばらで、辺りは静けさ保っているが、草臥れたサラリーマンや、買い物帰りの主婦、家路を急ぐ子どもたちの息遣いが、足取りが、私には雑踏の中にいるかのように騒がしく感じられた。まるで夢でもみているみたいに、足取りは軽やかで、地に着いていない。声高に鳴き続けるプレイヤーは、すれ違う人にすら届きそうな程の音量で、彼が好んだ歌を吐き出す。イヤホンの向こう側から聞こえる幻聴のようなノイズと混じり合って、頭の芯がくらくらした。限界を訴えているボリュームの+ボタンを昂揚感に任せて押し続けると、冷たい機体からは穏やかな音色が溢れだして、私をぼんやりと曖昧な、それでいて妙に研ぎ澄まされた感覚でいっぱいにした。オレンジ色に染まり始めた街並みや、空気を膨らませる晩ご飯の匂い、夕方独特の雰囲気が、私の柔らかい部分を搔き乱していく。正面に沈もうとしている夕日のせいではなく、眼の奥がちかちかする。まだお酒を吞んだことはないけれど、きっと酔っぱらったときの多幸感というのは、こんな感じなんだろう。
 少しの眩暈を覚えながらも、横断歩道を渡り切った。一瞬縺れそうになった脚をやや強引に捻って左折し、駅へと続く坂道を上り始める。私は焦りに似た、けれどそれよりもっと幸せに近い感情に突き動かされるまま、とにかく歩を進めた。見た目よりも急な勾配にも、振り動く脚は鈍ることなどなく、むしろ加速を続ける。

 息が、切れる。


***


 あの日、学校帰りに寄ったコンビニで彼への見舞いのプリンを選んでいた私に、彼から珍しく電話があった。

 「あ、もしもし。風邪は大丈夫?2日も休んでどうしたの。今年は我々受験生にとっては大変な年なんだから、体調管理には気を付けたまえよ」

 茶化した口調でそう言いながら、滅多に体調を崩さない彼のために奮発して大きい方をレジに持っていく。朝から降り続く雨のおかげで店内はいつもより空いていて、並ばずに済んだ。ラッキーだなと思うのと同時に、床が濡れているのが不快だなとも感じた。

 『ああ、うん。まあね。君こそ先週の試験、あんまりよくなかったんだろ?頑張らなきゃね』
 「大丈夫だよ、多分。それより後ろが騒がしいけど、何の音?アナウンス?今駅にいるの?」

 3年間使い込んで端がすっかり擦り切れた学生鞄から財布を取り出しつつ、体調不良で休んでおきながら駅にいるとは何事かと彼を問い詰める。冬に近づき始めた気温のせいか、指先に触れた10円玉が嫌に冷たかった。

 『うん。今、駅のホーム。ちょっと用があって。それでふと、君に言っておかなきゃいけないことがあるなあと思って電話したんだ』

 無愛想な店員からプリンの入った袋を受け取り、暗くなり始めた空を映す硝子扉に向かう。携帯から聞こえる彼の声は、電車が走り抜ける音のせいか、あるいは私の左手のレジ袋がこすれる音のせいか、がさがさと乾燥したノイズに聞こえた。私は店の外に出ると、レジ袋を手首まで滑らせ、空いた左手で傘を開く。先週雨が降った時に彼に借りた傘だ。今度返さなきゃな、なんてぼうっと考える。

 「ふぅん、何?数学の宿題なら、ちゃんと君の分も貰ってきたよ」
 『そうじゃなくてさ、うーん、なんて言えばいいのかな。いや、その、さ。ありがとうね、いつも』
 「何それ、どうしたの」

 そこでようやく私は彼の様子がいつもと違うことに気付いて、何かあったの、と訊いたのだけれど、彼は何でもないよと笑うだけだった。今更になって嫌な予感や胸騒ぎ、言葉にならない不安が喉の奥に込み上げてきたけれど、私に出来ることは、既に何もないのだと心のどこかで自覚していた。
 そして、彼の「もう電車が来るから、じゃあね」という言葉で、電話は切れた。
 すぐ後ろで開いた扉の向こうから、悲しいくらい明るい光と、彼がいつか好きだと言っていた曲が漏れてくる。もう食べてもらえないプリンの入った袋と、もう本来の持ち主に使ってもらえない傘は、ただただ黙って、雨に打たれていた。

 その時私には、彼が死んだことがはっきりわかった。


***

 
 ぜいぜいと切れ切れの息を整えないまま、改札に定期を押し付ける。エスカレーターはないので、いつも通り階段を使ってホームに降りる。高くもないパンプスの踵がかこんかこんと音を立てるのがイヤホンを通り越して聞こえてきて、更に楽しい気分になる。緩む頬を意識しながら、さほど長くない階段の最後の段もかこんと鳴らして、私はホームに下り立った。
 電車は丁度出発したところらしく、乗り損ねた人たちが何人か時刻表を確認している。機械的なアナウンスが、少し前の駅で起きた人身事故の影響で次の電車が遅延していることを知らせる。いつも通りの光景。誰かの命が鉄の塊に轢き潰されていても、彼らが気になるのは自分が予定通りに電車に乗れないということだけ。今日もここはいつも通りだ。
 その光景を横目で見ながら、私は彼らとは少し離れた位置に立って、到着までまだしばらく掛かる電車を待つことにした。構内案内のパネルの感触を背中に感じながら、柱にもたれかかる。冬の名残を感じさせる肌寒い風が髪の間をすり抜けて行って、昂ぶっていた気持ちは少し落ち着きを取り戻した。
 しばらく風に当たって頭がある程度冷たさに慣れてくると、ふ、と彼と過ごした日々のことが浮かんできた。耳元でリピートし続ける歌のせいだろうか。私はそれらの中に暖かな春の日差しを感じたような気がして、身を委ねてみる。


***


 「この曲、いいでしょう?」

 学校からの帰り道、携帯の画面を見つめながら、彼は私に言った。
 お昼前くらいまで降っていた雨のおかげで、空はすっかり晴れ渡っていて、彼の手の中の真っ白な機体に反射していた。画面を覗き込もうと傾げた首を、私は少しの眩しさを覚えてひっこめる。画面を覗き込もうとしたのはタイトルが気になったからであって、その旋律は充分私の耳に届いていたから、別段問題はなかった。
 彼の愛機からは、そのメタリックな外見とは相反する、素朴で柔らかいメロディが流れ出していた。名前も知らない歌手の穏やかな声は、この季節になるとアスファルトの通学路を綺麗に染め上げる、薄桃色の花のことを歌っていた。なんだか切ない感じだなあ、というのが、その曲に対する私の第一印象だった。

 「何の曲?」

 雨上がりの独特の、しっとりと薫る空気を少し深めに吸い込んで、私は訊ねた。
彼は立ち止り、道端のバスの時刻表を見上げる。(当時の彼は、身長があまり高くなかった。「まだ成長期が来てないだけなんだよ、きっと。夏休み明けには10センチくらい伸びてる、はず」と不安顔で主張していた彼だけれど、その後3年程経っても、あまり大きな変化はなかったように思う。)
 まだ少し濡れた時刻表には、柔らかくて厚みのある花びらが、無機質な数字の羅列に彩りを添えるかのようにくっついていた。

 「僕の好きな映画の主題歌なんだ。切なくて、でも強くて、暖かい、そんな男の子と女の子のお話なんだよ」

 止んでしまった雨の代わりに、と、しとしと舞い落ちる花びらの中で、まるで自分の初恋について語るみたいに甘酸っぱい表情をしていたその時の彼は、視線こそ時刻表に向いていたけれど、見つめていたのはきっと、全然別の何かだったのだろう。それこそ、もしかしたら本当に、初恋の少女のことを想起していたのかもしれない。


***


 私と彼との馴れ初めに、小説やドラマみたいな鮮烈さはない。それは2人の関係が、紛れもない現実だったということなのだと私は思っているけれど、もし始まりの瞬間を思い出すとすれば、あの日の澄んだ空や、濡れた空気や、彼の横顔が、真っ先に浮かんでくる。おそらくあの日が、曖昧ながらも、ただのクラスメイトではない2人としての、スタート地点だったのだと思う。花吹雪の中で紡がれた思い出たちは胸がきゅうとなるくらい魅力的で、あの日から、私と彼はそれなりの時間を一緒に過ごしたけれど、2人の時間が一番輝いていたのは間違いなく、あのむせ返るような薄桃色の世界の中だった、と、自信を持って言える。それくらい、春という季節と彼との日々は、私の中に強烈なイメージとして焼き付いている。

 ホームにアナウンスが響く。私が回想に耽っている間も勤勉に音を生産していたプレイヤーを止めて、イヤホンを外す。マニュアル通りの台詞が、もうすぐ電車がくることを告げている。彼との日々を思い出していたら、私はなんだか、ここに来るまでの浮かれた気持ちを少し恥ずかしいと思うくらいに、とても穏やかな気分になっていた。心のどこかに残っていた一抹の不安も、恐怖も、もうすっかり消えてしまった。
 近くの踏切が鳴る音が、鮮明に聞こえる。ホームのあちこちで周囲との壁を作っていた人たちがぞろぞろと集まってきて、黄色い線を先頭に列を作り始めた。私はその列を避けて、ホームの一番端にある番号の書いていない線につま先を置く。彼とお揃いだった真っ白いプレイヤーをポケットにしまって、少しだけ空を見上げた。相変わらず風は肌寒い。

 電車がこちらに近づいてくる。
 とても、とても清々しい気分だ。
 もし向こうで彼に会えたなら、その時は、言えなかった私の気持ちを伝えてみよう。

そんなことを考えながら、私は、どこからか舞ってきた桜の花びらと一緒に、ふわりと線路に落ちた。


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