高校生が、ライ麦畑でつかまえてを読んだ感想

   僕はこのあいだ、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を読んだ。村上春樹訳で。本の好き嫌いが激しいというか、ほとんどの本は途中で挫折してしまうのだが、3日間で読みきることができた。おもしろかった。

   分かりみが深すぎる。書いてあることは、僕の抱いてる悩み、そのものだと思った。社会に馴染めず、社会がインチキだと思う主人公。彼は退学になり、町をさ迷う。ディテールがとてつもなく細かい。細かいというか、ほとんど僕の苦しんでいることがそこにまるまる書かれてあるのだ。
   ただ唯一気ひっかかったのは、アメリカと日本の恋愛事情の差だ。やっぱりアメリカの方がプレイボーイ感がある。
   頭がぼうっとして、まともに人と向き合えないところとかは、めっちゃ共感できた。そこでぼくは、ライ麦畑風に、少しだけ小説を書いてみた。自分でも恥ずかしい、痛々しい感があるが、繰り返しになるけれども、どんな小説よりもこの作品は僕の現実とそのまま地続きになっていると思うので、やってみた。

僕は下の階の水道でバケツの水を満たし、せっせと教室に持ってきた。四階にあるもんだから、それだけでも疲れた。すでに机は椅子を乗っけて端に寄せられていて、モップもスタートしていた。窓からは町の背にある山並みがみえた。僕は何年もこの街に住んでいたから、そんなにだけれど、たまに見るとやっぱり感じるものがあるね。教室の窓ガラス越しにみると、なんかの屏風みたいだ。さあ雑巾がけをするぞと準備していると、男子が一人、なにやら言っていたが、僕はうまく聞き取れなかった。
「なんて?」
と僕が聞き返すと、また何やら言っていたけどこれも分からない。まあいっかと思って、雑巾がけをすることにきめた。相手が悪いわけじゃない。こういう事が僕にはよくあるんだ。人の話がたまに理解不能になっちゃう。なにがだめって、そこで聞き返さないことだ。
 そいつが今度は僕に近づいて、言った。
「お前、今日日直だよ」
僕ははっとなった。そうか。日直の人は、掃除の時間別の業務があるんだ。すっかり忘れていた。
 明日の時間割、日付、日直の人の名前を書くボードがある。黒板を、すごくちっちゃくしたみたいなやつだ。僕がそれを書き終わる頃には、教室の掃除は終わっていて、ホームルームまであと数分あった。席に戻ろうとすると、女子が僕に、
「日直の仕事はおさぼりしたの?」
と聞いてきた。別に嫌味な感じじゃなかった。ほんとに疑問に思っている感じだった。しかし僕ははてと思った。仕事ならさっき終わらせたはずだ。なんなんだろうと思い振り返ると、黒板に、数字がまだ残っていることに気づいた。日直は黒板も消さなきゃならない。まったく、こういう事がありすぎるんだよ。
 僕が本当に堪えたのはここからだった。急いで黒板の文字を消していると、机にくつろいでいる男が一言、
「昨日学校休んだよね、ていうことは次の日直はだれか分かるよね?」
今度はホントに嫌味ったらしい言い方だった。笑っていた。彼は出席番号でいえば僕の次だった、でも昨日僕は、体調不良で欠席していたから、その次の人の名前を僕はボードに書かなくちゃいけなかったのに、彼の名を書いていたんだ。彼は成績トップで運動部でも精を出しており、背がクラス一高かった。いや、ホントにそうなんだ。彼は今みたいに英国紳士のジョークみたいな嫌味をずっといってるもんだから、敬遠する人も少なくはないんだけど、それでもまあ優秀な生徒ってことになっていたし、少なくともこのクラスの男子では、こういう会話が流行っていた。彼は周りの友達へのショーとして僕と会話しているわけだ。僕はもうすべてにうんざりだった。


   天気の子で主人公の持ち物として、キャッチャーインザライが映るシーンがあるというが、確かに天気の子は現代版ライ麦畑といっていいだろう。すずめの戸締まりもその要素が入っている。僕はすずめの戸締まりが好きだ。監督の優しさが満ちている。生きていいんだ、そう思える。
 ライ麦もそうだ。最後の、妹がメリーゴーランドに乗っているのを、ホールデンがただ眺めているところ。それだけの描写だが、揺さぶられるものがある。

 最近、山極寿一さんの本を読んだが、その中で、ゴリラは家族を、サルは階層を大事にしていて、人間はその両方を持ち合わせているのではないか、そして、我々はどんどんサルの方に寄ってきているのではないかという指摘があった。
    社会では様々なことが求められる。優劣をつけられる。そういったもののなかに飛び込むことの快感もあるのかもしれないし、そういったものを全部捨てることはやはりできないが、家族的な、人との繋がりこそが、僕たちにとって重要なのだと思う。

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