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苦界浄土という世界 

石牟礼道子「苦界浄土」を読んで

「不知火」という現象の名をした海、に根付いた水俣の地の景色を、おそらく訪れた以上の感度で浴びていた。それは、シナプスを刺激するには十分で、わたしの中にもあった遠い日の、からだの中に置き忘れた風景が湧き上がり猛烈な懐かしさの波を受けて、しばらく動けずにいた。

私にとって死とは「全ての終わり」であり、わたしが終わった後には世界は存在しないのだという虚無感に苛まれていた。それが作中の「やさしい死」に出会い、死生観が揺れた。もっと「自然」の近くで暮らしていた頃、死は「畏れる」対象でありながらも、永続的な終わりではない、万物は流転する、土に還り再び違う命としてこの世界にやってくること、その「やさしさ」の描写が見事だった。
この「苦界浄土」という作品は、単なる「水俣病」を扱ったものではなく、筆者自身が巫女になって書いた「長編詩」だと思う。あくまでも、主人公は水俣病の患者であるものの、有機水銀を垂れ流していたチッソという会社側の視点、患者ではない「水俣はあの水俣」という他所から寄せられるイメージの中を生きている者の視点、患者を応援する中にも「患者のこと」が第一義である者と、公害という視点から患者のためでなく自分のために動く者の視点、そして患者の中でさえ様々な立場があったこと、たくさんの人間の人生が描かれている。

二段組700ページを、水俣の方言が続く文章は、一見近寄りがたい。数ページで、様々な理由から断念する人も多いだろう。そして、4100円という値段も、敷居を高くする要素のひとつかもしれない。しかし、そこで止めず、読み進めていくと開けていく詩的世界が圧巻なのだ。わたしは、毎夜、数ページづつ一文字一文字大切に読んだ。先程も書いたとおり、自分の過去が甦る圧倒的な力がこの本にはあった。諦めずに読みはじめ、諦めずに読み進めることを願う。

Twitterで知ったこの本に出会えなければ、教科書やメディアでのみ知り得た水俣病であった。水俣病によって「普通に」生きて死ぬことを果たせなかった者たちの悲痛な声がわたしの中で息をしている。
この本の中で問われているのは、水俣病という病のことだけではない。わたしたちは、この世界の中で何を大切にし、何のために生きてゆけばいいのか、という問題提起を含んだ作品だ。そこまでして戦ったこと、その戦い方はあっていたのか、そうする以外に方法はなかったのか、も含めて切り捨てられて終わる可能性のあったマイノリティが声をあげることに伴う困難も含めての問題提起だと思う。
今も水俣では不知火が見られるのだろうか。8月の海に灯るその現象が、命のテーマとリンクするこの作品の良さは、「詩」だと思う。解説文を寄せている池澤夏樹さんが、以下のようにかいている。
/許される範囲を越えて引用を繰り返し、すごい本だと声をからして(おもかさまよろしく)「おめき」続けた。解説としては破格かもしれない。だが、小声で言い訳をすれば『苦界浄土』はそのように読む者に憑くのだ。それを存分に体験していただきたい。/
方言の多い(それこそがこの本の魅力ではあるのだが)一見読みづらい文章に込められた祈りのようなものの、どこにわたしか惹かれたのかを次回、引いてみたい。

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