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圧倒的な光と寂寥

「トレモロ」とは、「単一の高さを連続して小刻みに演奏すること」らしい。「たたん、たたん」という音が表記された詩、「あけぼの」を、まずみてみたい。

 寝台特急「あけぼの」は、二〇一五年に運行終了となったブルートレインのことだ。「今はない」列車の旅は、2050(二十時五〇分)に上野を出発し、638(六時三十八分)に秋田に着くまで続く。作者の見ている風景は、記憶なのか、あるいはまったくの虚構なのか、そのあわいを揺れているように感じる。それは、闇から光へ向かう旅だ。
537(五時三十七分)に秋田の象潟に着いた時、詩中、三度目の「たたん」が鳴る。

たたん、たたん/途上/鳴いたのは刻むため/去った星も ほどける影も/

「ほどける」は、2138(二十一時三十八分)の大宮で「つらなれば/いずれほどけて/だから/そのために約す夢があった」の、つらなりの後の「ほどける」に、掛かっているのだろうか。
 時間を遡り、020(午前零時二十分)に二度目の「たたん」の後に、次の詩行がある。

わたしからおまえへと/おまえたちへと/何を手渡せるだろう/ふる問いは/宛てなく積もり/しんしんと運ばれる/

この「あけぼの」という詩だけでなく、詩集中の人称は一人称である「わたし」が、とても少ない。主語を省略したものも多く、それ故に立ち上がるものがある。これから「生きてゆくもの」へ何を渡せるのかという、本質的な、しかし強靭な問いかけの箇所である。詩評をかくにあたり、行きつ戻りつしながら読んでいるうちに、圧倒的な眩しい光に満ちた寂しさに胸がつまった。
届くことがないかもしれないものたちは、「しんしんと運ばれる」。この、「しんしん」という音を彷彿させる「雪」という詩を次にみてみたい。

いくど 道を違えれば/おなじ雪が降るだろう/眼を伏せてわらう あなたの/ながい影が落ちて/しずかな湖となる/夕刻の/すずなりの/すずかけの実と/はぐれた稚魚のような/しろい月

 冒頭の二行ではっとする。二連で倒置となる「夕刻の」が非常に効果的で、「すずなり」「すずかけ」と鈴を連想させる平仮名の音へ重なりあう。短い詩行をさらに読点ではなく空白とする箇所が、「拍」を打っているように感じる。そして、「しろい月」は「はぐれた稚魚のよう」なのだ。なんと美しい描写だろうか。この詩の最後に降るのは「雪を模したうろこ」。まっしろな鱗の降る空は、雪よりも白いかもしれない。

詩集タイトルの「トレモロ」に、以下の詩行がある。

あらゆるやわらかな誤読を/濡れた前歯が砕いて/なお満ちるトレモロ/もしかしたらもう一度/もう一度/届けられるかもしれない歌を/あなたに

 もしかしたらと仮定し、「もう一度」を二度繰り返す。その強さで「あなたに」届けたい歌があるのだ。詩中の「誤読」を恐れずにいえば、「はつなつ」という詩集中の詩タイトルと、「はぎのなつみ」という作者の名前との親和性を感じたことを付け加えたい。

詩集最後の詩「夏果歌」は、「/次の音を きかせて」で終わる。余韻に身を沈める。沈んでいるうちに、息をすることを忘れていたことに気づく、そんな一冊だ。




『トレモロ』萩野なつみ 
(七月堂、一七〇〇円)

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