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ドイツ人が難民だった頃

ベルリン・ライニッケンドルフ区の郷土史勉強会に行ってきました。

テーマは「難民」。これはウクライナ難民に寄り添うために、ドイツ人自身が難民であったことを思い出そうという進行役の歴史学者の先生の配慮です。

ウクライナに限らず、ドイツがこれまで多くの難民を受け入れてきたのは、ドイツ人自身が難民であった歴史を持つことも理由の一つかもしれません。第二次世界大戦の終戦直前に東から迫りくる赤軍を逃れて難民となったドイツ人、戦後、国土の25%がポーランドとソ連へ割譲されたために追放されたドイツ人、合わせて1500万人以上が故郷を失い、そのうち210万人以上がドイツ本土に辿り着くことなく亡くなっています。私の義母も生後二ヶ月で東プロイセンから逃げてきた引き揚げ者ですので、今回は義母にも参加してもらいました。

①男性 1935年生まれ ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード出身)

1944年暮れ、赤軍がそこまで迫っていると聞いて、家族も親戚も近所の人も恐怖の日々を送っていた。大砲の音が次第に近付いているのに、州から「避難禁止令」が出ていて、逃げたら国への忠誠義務の違反、国家反逆罪で投獄、銃殺だった。何より食糧配給券は配給された町でしか使えなかったので、逃げても飢え死にすると脅された。赤軍が町を包囲し始めた時、家族で慌てて西へと逃げた。ナチスの役人たちはとっくに逃げていたと後で聞いた。数日遅かったら町は赤軍に完全包囲され、私たちは市街戦に巻き込まれていただろう。実際に逃げ遅れた多くの市民が犠牲となった。凍った潟を西へとひたすら歩き続け、割れた氷に沈んでいる馬車や馬、凍傷で動けなくなって泣き叫ぶ子供たちも見た。私たち家族は19世紀に先祖が建てた城館に住んでいたが、不動産を含めた全財産をソ連に没収され、ドイツ本土では貧乏のどん底を体験した。

②女性 1943年生まれ ダンツィヒ(現ポーランド領グダニスク)出身

私は赤ん坊だったので覚えていないが、母から当時の状況を聞いている。終戦直前に東から南から、毎日多くの難民がダンツィヒにやって来た。ここを経由して20㎞北のゴーテンハーフェン港から引き揚げ船でバルト海を渡ってドイツ本土に逃げるためだ。長旅で疲れ果て、道にしゃがみこんで動けなくなっている高齢者や大きなお腹を抱えた妊婦を、母は教会の信者たちと教会、映画館、コンサート会場などの臨時宿泊施設に連れて行った。施設はごった返していて、皆、疲れ切っていた。持病で苦しんでいる高齢者もいたけれど、薬はなく、病院は負傷兵が優先されてベッドはいっぱいだった。毎日、死体が教会に運ばれた。私たちダンツィヒ市民は引き揚げ船の予約が早く取れたので、無事に本土に逃げることが出来た。その何便かあとの引き揚げ船がソ連の潜水艦の雷撃を受けて9000人以上の犠牲者を出したグストロフ号だ。

③女性、1944年生まれ エルビング(現ポーランド領エルブロンク)出身

私は生まれて二週間で難民になった。1945年1月、取る物も取り敢えず、母は老いた祖母、私の兄4歳、姉2歳、暮れに生まれたばかりの私を連れて幌馬車に乗せてもらい、マイナス15℃の中、ダンツィヒへと向かった。母の話によると、列車はすでに軍隊用で一般市民は使えず、一般用の最終列車は役所のナチ党員とその家族たちでいっぱいだったらしい。最後まで避難禁止令は解除されていなかったが、赤軍はすぐそこまで迫っていたので、すべての市民は町を出た。逃げ遅れた女性は強姦され、ほとんどが殺された。エルビングは空襲もなかったので、ドイツ本土の大都市から多くの人が疎開していた。ダンツィヒへの道中、母は道脇に置かれたたくさんの赤ん坊の死体を見た。道が凍り付いているので墓を作ることも出来なかったのだ。母は他の難民同様、「(第一次世界)大戦の時と同じで、一時的な避難だからまたすぐに戻れる」と信じていたから、父の高価な切手コレクションや写真を持ってこなかった。捕虜収容所から戻った父は戦後もずっとそれについて怒っていたが、子供たちの命を守ることで精一杯だったのに、何言ってるの、と母は呆れ果てていた。母が98歳で亡くなる直前まで赤十字の難民施設でシリアなどの中東、バルカンからの難民の世話をしていたのは、自分の体験からだ。

④男性1938年生まれ ベルリン出身

戦後、東からの多くの難民が引き車や乳母車に荷物を乗せて町を歩いていた。口の悪い人は「リュックサック族」と言ってバカにしていた。小さな子供のいる女性は、両手で子供たちの手を繋げるようにリュックサックを背負っていたからだ。ベルリンは瓦礫の山で、誰もが腹を空かせていたから、難民は全く歓迎されなかった。「ポラック(ポーランド人の蔑称)は早くどこかへ行け」と言っている人もいた。幼い子供を連れた女性が「私たちはドイツ人ですよ」と悲しそうな顔で言っていたのを今でも覚えている。

⑤③と同じ女性

私たちは難民船でキール港に渡り、そこから汽車で小さな村に移された。そこはまだ電気も通っていないような田舎で、お嬢様育ちの祖母は「ここでは舞踏会はないのかしら」と言って母を驚かせたらしい。農家の屋根裏部屋を一部屋借り、そこで5人、父が捕虜収容所から戻るまで2年間暮らした。母は農家を手伝い、祖母は私たちの世話をしながら少しでも暮らしが豊かになるよう、様々な工夫していた。例えば祖母は勇敢にも不用になったナチスの旗を村中から集めてきて、赤い部分の布を切り抜いて私と姉に服を手縫いで作ってくれた。都会ではすでに連合軍による非ナチ化が始まっており、ナチスの旗など持っていたら処罰されたのだが、村にはしばらく連合軍は来なかったので、のんびりしたものだった。祖母は旗の生地を全く無駄にせず、赤いワンピースには白い襟と黒いくるみボタンもついていてとてもおしゃれだったそうだ。村人たちはそれがまさかナチスの旗だったとは気付かず、とても羨ましがった。母も細く紙縒(こより)にした新聞紙でバッグを作ったり、木材所から木屑をもらってきて兄におもちゃの汽車を作ったり、捨てられていたソファーの皮を剝いできてボールを作ったり。「捨てる物など何もない」と言って子供たちが喜ぶのを嬉しそうに見ていた。村での生活は貧しく、難民はひどい差別を受けたはずなのに、明るい母が愚痴を言ったり悲しんだりしている姿を全く見なかった。私はまだ幼かったのでほとんど記憶がないが、兄も姉も豊かな自然の中でのびのびと生活し、村の子供たちと楽しく遊んだ記憶しかないそうだ。天に向かって亡き母に「お見事でした」と言ってあげたい。


写真は1945年1月、東プロイセンの難民たち


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