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やっぱり雑談はしたほうがいいと思う

2年前、「今、世の中に必要なのは雑談だ」と思い立ち、マンツーマン雑談企画「サクちゃん聞いて」をはじめました。

これは、開始時に書いたnoteです。はりきっています。

はじめてすぐに感染症が拡がり、対面で話すことができなくなってしまったので、オンラインに切り替えました。現在もオンライン(zoom)で行なっています。

コロナ禍でリモートワークが推奨され、仕事場で人と顔をあわせる機会もなくなってしまったので、より雑談の機会が減ってしまいました。必要なことだけをやりとりし、効率は上がりましたが、ちょっとした疑問や脇道に逸れた話は「不要不急なもの」として削ぎ落とされてしまいました。

しかし、「そういえば、」とたまたま出た話の中に大事なことが含まれていることはよくあるし、言葉にするほどではないちょっとしたモヤモヤが顔に出ているのを見て「どうしたの?」と聞くことで、理解度を深めたり、差を埋めたりできることもあります。削ぎ落とされたものは、宝だったかもしれません。

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仕事だけではなく、個人でも同じことが言えます。

友人とお茶しながら、お酒を飲みながら、ダラダラと意味のない話をしたり、ぽろりと大事な話が出たり、愚痴を言ったり、励まし合ったり、そういうなんとも愛おしい時間が減ってしまいました。

こんな状況だから仕方がないのはたしかなので、みんなが我慢していました。いつかまたあの時間を取り戻せるよう願いながら、雑談のない環境に慣れていきました。

雑談がなくなると、「自分の話をする時間」がなくなります。「最近どうよ?」と聞かれるから、「えーと、最近の自分はどうだったかしら」と考えて話すことができます。ちょっと話すとどんどん出てくるし、話してみてようやく「こんなに話すことあったんだ」と気がつきます。

栓をしている状態が長く続くと、中身が詰まって出てきにくくなったり、ときには内側で発酵して膨らみ暴発したりします。それを防ぐためにも、定期的に出して確認したほうがいいと思っています。

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「雑談」といっても人それぞれイメージするものがちがうと思います。わたしのいう「雑談」が何なのか、ちょっと書いてみます。

人は「お悩み相談です」といえば、わかりやすく「悩み」を持ってきてくれるし、「悩んでいる人」の役割を背負って自分の話をしてくれます。わたしが自分のすることに「雑談」と名前をつけているのは、はじめから「悩み」を準備して持ってこなくていいよ、どんな話でも聞きたいし、話す意味の有無や重さで判断しないよという表明でもあります。

話しはじめると、自然にそのとき気になっていることが出てくるので、問題や悩みが出てくることもあります。関連ないはずのいくつかの話に共通した問題が見えてくることもあります。そんなときはもちろん一緒に眺めていきます。

つまり、「悩んでいるわたし」に話してほしいのではなく、「わたしの話」の中に悩みがあるのがいいのです。我ながら細かいことをうるせえなとも思いますが、わたしにとっては大違いなのです。

とにかく「わたしの話」をしてほしいのですが、どんな自分を見せるかを用意してきてほしくないのです。つい出ちゃうのが見たいのです(変態っぽくてすみません)。

普段から自分の話をするのが苦手な人は、話す前は「何を話せばいいかわからない」と言いますが、絶対に話を聞いてくれる相手が目の前にいて、興味関心を持ってくれてさえいば、安心して話せます。その結果、「こんなのが出ちゃったな」と自分でも驚くという体験をしてくれると、雑談冥利につきるというか、うれしい気持ちになります。

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次に、雑談相手としてのわたしはどんな役割なのか、なぜわたしがやるのか、言葉にしてみます。

「雑談」といっても、友達とのおしゃべりとは違います。友達だと「わたしの話ばかりしたらいけない、同じ分量話さないと」と思ってしまったり、話す内容を相手のコンディションやテンションに合わせたりしますが、ここでいう「雑談」では「自分の話をする」が目的です。相手がどう思うかを気にせずに思い切り話してほしいです。そして、わたしは全力で聞きます。

もちろん、ただ黙って聞いているだけではなく、質問したり、わたしの話をしたり、感想を言ったりもします。そんなときは、わたしがなにかについて考えるときのいつものやり方が出ます。

それは「何を大事にしているのか」を確認するやり方です。どんな人も大事なものを大事にしてほしい。そのためには何を大事にするか自覚しないといけない。こう書くと当たり前のようですが、人はうっかり嫌なことを大事に抱えてしまうことがあります。嫌なものをぎゅっと手に抱えていたら、いいものを拾えませんが、まずは「こんなものを大事にしちゃってたわ」と自覚しないと、手を離すこともできません。

わたしが人と話をしたり、文章を書くことで言い続けてきたのは、「自分で選ぶこと、決めることを諦めないでほしい」ということだと思います。

一緒にいる人を、仕事を、信頼する相手を、時間の使い方を、言葉を、食べるものを、考え方を、美しさを、得る知識を、お金の使い道を、大事にするものを、自分で決めていいんだよ。と、言い続けたいです。

いつか選べなくて諦めたことを、何歳になっても取り戻していいし、自分で決めるべきことを人に奪われてはいけない。そのためには、自分のあたまと心で考えて、自分がいったいどうしたいのかを知るしかないと思っています。どんなに人の話を聞いてもそこに答えはなくて、絶対に自分にしかわからないから、わかるまで自分の話をしてほしいのです。

わたしは文章を書くことで「自分の話をする」体験したので、以前は「みんなも書いたらいいよ」と言っていましたが、言語化して文章にするのはハードルが高くむずかしいのだなとわかりました。それで「じゃあ、うまく言葉にならないままでも聞いてくれる人がいたら、話すのならできるのでは?」と思い、この「雑談」企画をはじめました。

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実際に雑談をしてみてどうだったか、振り返ってみます。

何百人もの人とお話しして、特に5回連続で継続して話すやり方にしてから、目の前でどんどん変わっていく様子を見るのは、とても感慨深く面白かったです。

ゆっくり変わろうとする人もいれば、爆速で駆け抜けるように変わる人もいました。わたしは話を聞いているだけで、みんな自分自身の口から出た言葉に背中を押されているように見えました。やはり、頭で考えているだけではなくて、言葉にして人に話すことには力があるなと実感しています。

体験した方の感想の一部を紹介すると、「話している時間以外も『これサクちゃんに話そう』と思ったり『サクちゃんならなんて言うかな』と考えて、思ったことをそのまま人にぶつけることが少なくなりました」と言ってくれる人や「ぐちゃぐちゃモヤモヤの頭の中を整理整頓するやり方を知って、シンプルに考えられるようになった気がします」と言ってくれる人がいました。

前に、整理収納アドバイザーの人が話しているのを聞いて、同じことをしているなと思いました。ギュウギュウのクローゼットから一旦全部出して、ひとつひとつ眺めながら「これはいるかな?いらないかな?」と整理していく。いらないものを捨てないと、新しいものが入らない。いらないものに囲まれていると、自分を大事にしている感覚がわからない。観察して、取捨選択して、分類して、大事なものを知る。その繰り返しです。

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無計画に書き始めたら長くなりました。

5月31日の20時から、マンツーマン雑談企画「サクちゃん聞いて」6月〜9月の募集をします。ありがたいことに継続参加の方が多く、欠員分の募集になるため若干名になりますが、ぜひご検討ください。

ご応募はこちらから
https://forms.gle/FmF7jmrBNjhE1kzDA



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