第55回新潮新人賞について

 このほど第55回新潮新人賞を受賞した伊良刹那というひとのインタビューをたまたま読んで、とある発言が気にかかってしかたがない。作品を読んでもいないのだからなにもいう資格はないのかもしれないが、「高校2年生の美貌の青年・北條司と、彼にひかれる同級生の速水圭一らが織りなす群像劇」とのことで、あわい同性愛があつかわれているらしいことがここからも窺える。
 問題の発言は「美しい人物と、その美にひかれる(…)人物を設定し」たと語ったあと、「組み合わせが男女だと簡単すぎるし、性別を超えた美しさのようなものを表したかったので、あえて性別はそろえて男性同士にしました」とつづけたところだ。
 いったい、「性別を超えた美しさ」とはなんであろうか。同性同士の恋愛であれば性別は越えてはいないはずだし、ある人物の外見的な美しさを感じとるのに、性別など関係があるものなのか。むろん、インタビューを読んだ限りでは、ふたりの主人公の関係が恋愛に発展したのかどうかもわからない。それでもこの発言からは、少なくとも作者にとって恋愛とは、シスジェンダーによる異性愛が基本であると認識しているのが容易に推察できる。その前提があるからこそ、「あえて性別はそろえて」と発言しうるのではないか。インタビュー内でどれだけ経験不足を弁明しようとも、いささか無神経で、配慮に欠いた発言ではないか。
 読んでもいないのだから、この設定に必然性があるのかどうかはわからないにしても、というか、同性愛者が小説内に登場することに必然性もなにもないのはそうだが、話題づくりのために利用され、消費された、と感じないでもない。
 いちいちこんな些細な発言に躓いていては繊細すぎると感じられるかもしれない。しかし、杉田水脈や小川榮太郎の論考によって「新潮45」が休刊となったことから、新潮社はなにも学んではいないのではないか、と思わせられるのだ。というのもこのインタビューが「デイリー新潮」配信の記事だからであり、いくらインタビューとはいえ、「新潮」編集部が事前にチェックしなかったとは考えられないからである。「新潮45」に掲載された小川榮太郎の記事について後記で「認識不足としか言いようのない差別的表現」と糾弾した矢野優編集長は、このインタビューを読んでどう考えているのだろうか。

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