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12年目とかそんなもん、

何年経とうと、震災後の日々が積み重なっていくだけで節目もくそもない。
東日本大震災から12年。私はあの時、高校2年生だったけれど自分のやりたいことや夢に溢れていて、毎日本当に楽しかったと思う。2011年、全国高等学校総合文化祭の開催地が福島県に決定していた。私は全国レベルの放送部に所属していて、高総文祭も相双地区代表として活動していた。2010年の開催地だった宮崎県にも視察で赴いたし、地元ラジオにも出演した。全国の高校生たち、放送部員たちを福島でおもてなしすること。そして自分も朗読部門で出場し、全国レベルの人たちと戦うことを楽しみにしていた矢先のことだった。東日本大震災が起きたのは。


これ以上、私のなかで震災を特別にしたくないから、3月11日を特別にしようとしない人と一緒に過ごしたいと毎年思っている。

震災を食い物にする人達が得意じゃない。震災を描いたものがたりが正直わたしは大嫌いだ。書くなら、やるなら、絶対被災者を監修や座組に入れろと思っているから積極的にオーディションを受けている。被災者でも何でもない人が震災のものがたりを書くグロテスクさに吐き気がする。私が当事者だからなのかもしれないが、そのたびにすさまじい嫌悪感を抱く。そんなことを言っていたら被災者以外がものがたりを書けないと思うので、書くんだったら福島を食い物にするな、だしに使うなと思う。ただただ、誠実に書いてほしい。聖人君主なんて世の中にはいないと考えているけれど、人の道を外れた人生を歩みながら震災の話を書くなと心底思っている。

14時46分に「黙祷」とツイートする人達が本当は得意じゃない。その時間に黙祷したとしても、したことを呟くとしても、あとでええやんと思ってしまう。その時間に「黙祷」と呟くことが対外的なアピールに見えるからかもしれない。震災を風化させたくなければ別の方法があるし、黙祷は他者から強要されるものではないのでいつだってしたいときにすればいいと思う。「あ、今日黙祷するの忘れてた」という方も思い出したときに、したいと思ったときにしたらいいと思う。14時46分はただの境で、その時間を境に多くの人達が亡くなっていったわけで、あなたが思い出したそのタイミングであの日、誰かが亡くなったかもしれないのだから。

私はあの日、天井が崩れ落ちる高校から避難し、津波警報が鳴り響く校庭で、雪が降る中、どんどん地震によってひび割れていく校庭を見つめていた。どうにかその日のうちに故郷である飯舘村に帰ってこられたけれど、山道は崩落していたし、全村停電で村は真っ暗だった。家がいつ崩れるかわからなかったから車の中で母と夜を過ごした。家の前の県道は海沿いから避難する人たちの車の灯りで朝まで照らされていた。ラジオからは「アンパンマンマーチ」や「勇気100%」が流れ続けていて、チャンネルを変えれば震災の恐ろしさを伝えるニュースばかりで一睡もできなかった。
地面は、ずっと揺れていた。


いつだってあの日を、亡くなった人たちを想っている。震災が起きた日を昨日の事のように思い出せる。私は偶然生き延びただけで、その後の震災に纏わる、原発に纏わる事象からも生き延びている。


震災から1ヶ月は毎日泣いて過ごした。避難先で、隣で眠る母にバレたくなくて布団の中でずっと泣いていた。

避難先にはなんにもなかったから赤十字から家電をもらった。嬉しいのか悔しいのか分からず泣いた。

転校先の制服はその高校の卒業生がくれた。お手紙とお菓子までついていた。この時も嬉しいのか悔しいのか分からず泣いた。

1ヶ月過ぎて、被災者としてどうにか生きていかないといけなくて、慣れない転校先でどうにか日々を過ごしているうちに泣かなくなった。

クラスメイトの男子に「あいつは原発のところから避難してきたから放射能を浴びまくってる」と言われても泣かなかった。寧ろ「お前を原子炉に落とすぞ」と言い返してしまった。何故か笑いが起きた。

高校3年生のうちに、元の高校へ戻れないことが分かっても泣かなかった。

放射能の影響で、母の甲状腺に癌が出来ても泣かなかった。

故郷の実家が震災によって取り壊されることが決まっても泣かなかった。

福島関連の舞台の為に自分の出自や震災当時のことを数え切れないくらい説明してきたが泣かなかった。

いつの間にか震災のことで泣かなくなった。
自分の心の傷を塞いで、見ないようにして、本当は誰よりも泣きたかったけれど泣いたって仕方なかったから泣かなくなった。本当は際限なく泣けることにも気付いていた。

嬉しいのか、悔しいのか、辛いのか、怒りたいのか、ずっとずっと分からなかったが、この歳になってようやく分かった気がする。
震災が無ければ出会えなかった人たちがいて、私はその人たちが大好きなのだ。でも、震災があったからこそ失った人達も、失った故郷も、失った未来もあって。

今の私は震災があったからこそ形作られたものだと理解しているからこそ、悔しくて辛くて、怒っている。
ぐちゃぐちゃの気持ちのまま、整理できないままでも生きていかなくちゃ。私は生きているから生きていかなくちゃいけない。

あのとき生まれた命たちが、もう今年で12歳だ。子供たちが安心して過ごせることを願いたいし、自然災害はいつ起こるかわからないのだから(これは普段言ってる性被害に関してもそうなのだが)、正しい知識を身につけて、被害が起きた時のための用意を今からでも遅くないからしておいてほしいと思う。震災が起きたらどこに避難すればいいのか、非常食をどれくらい用意しておくべきなのか、防災セットをどこに置いておくか、未来の自分を守るための行動は幾らだってしてほしい。ちなみに私は震災時、食料がなくてマジでティッシュを食べた(真似しないでください)(こうなってほしくないので備蓄してください)。

12年経っても心は、頭は整理されない。少しでも被災地が本当の意味で復興することを祈りながら生きていくしかない。
震災関連で亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
そして生き延びた人たちが出来るだけ苦しまず、おだやかに、ゆるやかに、楽しく生きていけることを祈ります。

とかなんとか言っても、あ~あ、今年の今日もくるしかったな。
明日も生きようね。

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