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目下考え中学

「陳腐であることによってしかその存在意義が認められない設問」というものが、世の中には多くある。こうした問いは、妙案をめぐってどれだけ頭をひねったところで結局「陳腐な答え」しか打ち出すことが出来ないように出来ている。昨日、学生時代の腐れ縁知人と、気分と肝臓の調子が悪いときは鼻を近づけただけでゲロを誘発しかねない四リットル三千円以下のウイスキーもどきをしたたか飲みながら、そのことを確かめようとした。                               

「もし無人島に一つだけ持っていくとしたらそれは何ですか」           「喪服」

「もし百億円あったら何に使いますか」               「非常に品のあるどこかの元社長のように、自分のツイッターアカウントをフォロー&リツイートしてくる薄汚い乞食どもに抽選で百万円を配ったあと、『俺のこの靴底をなめてピカピカにしてくれた人には更に五十万円追加!』とか『この便器をなめてピカピカに掃除してくれた人には更に二百万円追加!』とかいうそんな金配りゲームをしてみたい」

「初任給は何に使う予定ですか」                                 「全額コアラ基金に寄付します」

誰がどれだけ気を衒う努力をしたところで、せいぜいこんな「陳腐」なことしか言えないと思う。その種の問いの前にあっては、奇天烈な答え、露悪的な答え、虚を突くような答えは、最早ありはしない。メタ質問的なリアクションでさえ野暮の域を出ない。あらゆる珍答愚答は過去出し尽くされている。はじめから「答えたら負け」は運命づけられている。

なんでいきなりこんなことを言うのかと言うと、私が平生よりことのほか執着している「なぜ何も存在しないのではなく何ものかが存在しているのか」という問いも、実はそんな「答えたら負け」あるいは「答えようとしたら負け」系の問いに収まるものなのではないかと、内心穏やかではないからだ。「問いの立て方」以前に、「問いを立てること自体」が間違っているという、そんな気になること頻りなのです。言い換えるなら、「問題などそもそも存在しているのか」という身も蓋もナッシングな禅的境地に足をすくわれつつある。「それ」は「有効な問い」なのかと。そもそも「有効な問い」を立てることなど不可能じゃないのかと。ああ、なんてことだ。これこそ「哲学の自殺」じゃないか。なんかもうあらゆる思考を放擲したくなっている。

この「なぜ」による「無限後退」は「言語を通じて思索する限り」どこまでも付いて来る「問題」だ。ところで「世界」と「言語」はどのように相違しているだろう。「何かが存在している」という「現存在におけるこの所与的経験」と、「何かが存在している」という「事実言明」を、どのように区別できるだろうか(あるいは区別すべきだろうか)。前者の認知カテゴリーが後者の認知カテゴリーに「先行」しているとする「認識根拠」は「どこにある」だろうか。ここの部分はかなり分かりにくいかも知れない。

「存在」はその都度「本質的に何ものか」として「感覚」されている。すくなくとも既に常に感覚されているこの「何ものか」は、「何も無い」という言葉で「表象」しうるような「絶対的一面真空世界」とは「違う」。「何ものか」はやはり「あり続けている」。「こうやって考えている私という今・ここ」が「ある」。「いま・ここ・私」という「認知体制」は「何によって、どのように」用意されたのか。「いま」とか「ここ」とか「私」と呼ばれているこれらの認知カテゴリーについて、「なぜそのようでなければならないのか」と問われれば、「ある」は「そのようにある」として常に既に「現出化されなければならない」からだと、さしあたり答えるしかない。「いま」や「ここ」や「私」といった「体制」は、そうした「現出化の一形式」であるに過ぎない。「いま」と「ここ」があやふやに混在して両者の概念的区別をほとんど要さない「体制」も場合によっては可能だろうし、「私」という「意識-体制」を介在させない「現存在」もありうる。「私」という「主体的局限」は、「存在の必然」などではない。これは答えとしては雑に過ぎる。私はこの頃この問いに際し、「分化」という言葉をよく使うのだけど、よく使うわりに「いまいちしっくり来ない」のだ。ただそれを言いはじめると、結局「あらゆる言葉が私にはしっくり来ない」ということにも気が付いてしまう。

そろそろイオンに行きます。間抜け面した学生どもでごったがえす前に冷凍餃子とストロング・ゼロを買いたい。あそこロング缶安いんだよね。

続きは次回ということで。

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