『偏心――重症心身障害児(者)の妹・イン・ザ・ダイアローグ』第十四話

Text by:たくにゃん

「障害福祉の母」の声を聴く

 糸賀一雄が「障害福祉の父」ならば、北浦雅子は「障害福祉の母」かもしれない。2017年9月に出版された『重い障がい児に導かれて──重症児の母、北浦雅子の足跡』(著:福田雅文/中央法規出版)を通して、私は北浦雅子の存在を知った。著者によれば、北浦は第三話で紹介した小林提樹と草野熊吉、そして糸賀一雄と並ぶ重症心身障害児(者)福祉の4人の先達者の1人という位置づけだった。
 北浦は、戦後の福岡で重症心身障害児(者)の次男を夫と共に育て、当事者家族の立場から国に対して施設整備のための予算要求活動等を積極的に行った功労者である。1976年に亡くなった夫の後をついで、「全国重症心身障害児(者)を守る会」の会長に就任。101歳になる現在でも会長として役員名簿に名を連ねている。
 1946年に生まれた次男の尚さん(ヒサ坊)は生後7カ月で種痘後脳炎にかかり、まひが残ったため、寝たきりで言葉は出ないようだ。しかし、48歳のときにひょんなことから抽象画を描くことができることが発見されるなど、ゆっくりとではあるが身体的・知的な成長を着実に遂げてきた。2018年に72歳で逝去している。
 晩年の北浦の言動として特筆したいのは、「重症児のいのちを守るためには、入所施設が必要不可欠である」という提言をしたことである。北浦は2010年に開かれた内閣府の「障がい者制度改革推進会議 総合福祉部会」に委員として参画。会議には各団体から50名を超える委員が参加しており、「入所施設は人権侵害であり、重症児(者)も地域移行させるべきだ」という意見が大勢を占めていた。そこで北浦は先述の主張を発言。さらに、すぐに「守る会」として12万筆の署名を集め、内閣府へ提出したことはNHKのニュースにもなった。
 確かに脱施設化が理想だが、重症心身障害児(者)の地域移行は非常にハードルが高い。地域自立生活を送るにも介助者が足りず、結局は母親(や父親)が介助を担うことになるだろう。本人と家族の高齢化が進む中で入所施設を減らすことは、現実的には重症心身障害児(者)の生死に直結する問題なのだ。

  「ここは住み心地が良いのよ。私としては、両親と離れて地域自立生活を送っているつもりなんだから」

  「それなら良かった。それにしても、ただでさえ『障害者』は例外的な存在とみなされるのに、重症心身障害児(者)は例外中の例外だと感じたな」

  「もちろん、一般的な地域自立生活を送りたいっていう重症心身障害児(者)もいるだろうけどね」

 ところで、2005年、東京都江東区に「守る会」が運営する超重症児・準超重症児に特化した入所施設が誕生した際、石原慎太郎東京都知事(当時)が、「このセンターは、生命に対する日本人の価値観・感性を象徴する存在であり、人類の将来にとって誇るべきモニュメントである」と挨拶したことは、あまり知られていない。石原都知事と言えば、1999年に東京都府中市の重症心身障害児(者)施設を視察した際に、「ああいう人ってのは、人格があるのかね」と発言したことで物議をかもした。このあまりにも有名な1999年の発言を踏まえると、2005年の発言は進歩のようにも受け取れる。しかし、「象徴」だとか「将来にとって」といった言い回しによって、巧みに自分の主義主張を押し殺して形式的な賞賛を演出している点には留意されたい。それでも、当事者家族は施設の誕生を喜ばざるを得ない。重症心身障害児(者)にとって、施設は最初で最後の砦になっている。

↑北浦さんが出てくるのは5:38~9:52くらいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?