『偏心――重症心身障害児(者)の妹・イン・ザ・ダイアローグ』第十八話

Text by:たくにゃん

被告の声を聴く

 2019年8月に、3年3カ月お世話になった編プロを退社した。元々、次へのステップと考えて入社していたし、代表からも給料が上がる保証はないから3年後には一人前になるんだぞと言われていた。そこで3年が経とうかという頃から転職活動を始め、無事に転職先が決まったので円満退社することができた。
 肝心の転職先は、業界紙(専門新聞)や月刊誌を発行している創立50年の小さな新聞社だ。配属は、介護保険サービス——高齢者に対する介護——を提供する事業者向けの新聞を作る編集部である。メインは高齢者福祉だが、障害福祉(サービス)も扱っているとのことで、私は念願の福祉関係のメディア職に就くことができたのだった。
 入社して4カ月目の2020年1月8日、私は植松聖被告の初公判を取材するため横浜地方裁判所にいた。上司からの指示が直前だったこともあり、傍聴席は確保できていない。一般傍聴席の抽選に臨んだが、当選することもなかった。わずか26席に対して、1944人の希望者が早朝から傘をさして行列を作っていた。
 よって、私が取材できたのは、傍聴を終えた関係者や一般人に対する囲み取材と、閉廷後の関係者による記者会見だけだ。だから、マスコミで報道された通り、法廷内の証言台で植松被告が起訴内容を認めて退席する際に、「みなさまに、お詫び申し上げます」と叫んだ直後、指をかみ切ろうとするかのような行動に出て取り押さえられ、裁判が中断された場面を私は実際には見ていない。中断後に植松被告が再登場することはなく、検察・弁護側双方の冒頭陳述が行われて初日は終わった。
 植松被告の行動について、記者会見で被害者家族の男性は「自殺するかのようなパフォーマンス」だとばっさり切った。しかし、植松被告はその夜というか翌日の午前6時前、横浜拘置所の独房で、噛み切れなかった右手の小指を噛みちぎった。第一関節から先はぐちゃぐちゃで縫合できず、傷口は縫うことになったという。
 このことから、指をかみ切ろうとした行動は、謝罪の言葉の本気度を表そうとしたものだったことが分かる。もっとも、被害者家族にとっては逆に不誠実な態度とも受け取れ、世間一般からすれば狂人性を強める方向に進んだ。植松聖は、事件から3年半の月日が流れたこのときも、相変わらず自分が一番で、他者の気持ちを考えられずにいるようだった。

  「まるでお兄ちゃんとそっくりね。自分の文学を第一に考えて、カノジョさんとか周りの人の気持ちに全然気づけないし」

  「おれだけじゃなく、こういう人は少なくないよ。自分が傷つくことを過度に恐れているんだ。無意識的に」

  「植松にはどんなトラウマ体験があったのかしら」

  「それが分からないんだよね。公判では植松聖の両親が出廷することなく、成育歴について掘り下げられることがなかったから」

  「分かりやすいトラウマがないとしても、小さな心の傷が慢性的な病のようにゆっくりと育ってしまう環境で生きてきたのかもね」

 その後の公判から、植松被告が小学校低学年のときに、『障害者はいらない』という作文を書いていたことが明らかになった。親や先生からのお咎めはなかったらしい。また、植松被告は中学生のときに、一学年下の知的障害者の腹を殴ったことを話した。理由は、その子が同級生の女の子を階段から突き落としたからだという。
 障害者差別の思想の芽は小さいものだったが、摘まれずに10数年が経った。そこで何らかの様々な成長剤と出会い、一気に花開くこととなってしまったのかもしれない。いずれにせよ、その差別の矛先が重症心身障害児(者)に向いてしまったことについて、私は考え続けている。鹿児島県の知的障害者入所施設「しょうぶ学園」によるotto & orabuの音楽パフォーマンスの基調になっている、絶え間ない生の叫びのように。


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