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ナツノカモさんの「カンガエルカモ」で感じたこと、考えたこと

 高円寺hacoでのナツノカモさんの落語。相性のいい日本酒の、甘すぎず、香り高く、キレが良く、スッと喉の奥に落ちていき、体がじんわりと温かくなっていく、そんな感覚が思い出されるようで、気持ちが柔らかくほぐれていく。声に誘われて呼び覚まされる落語世界は、優しくて、どこか懐かしくて、よく知っているような気がしながらも決して自分の記憶の中の具体物ではなく、やっぱり新しいものなんだ、新しい出会いなんだと分かる。

 2023年の年末、初めてうかがった「カンガエルカモ」で聴いた『もうこの春が来ないとしても』。桜の花びらとともに、透明なカプセルに永遠に閉じ込めておきたいような一席だった。現代なのか、近未来なのか、桜についての対話が小さなの町内を駆け巡り、人と人を、記憶と想いをつないでいく。桜の花びらがひらひらと舞い落ちる、格別の美しさ、限られた時を共に過ごすはかなさ。花が散っているのだから、何かが終わりかけているはずのに、絶望だってあるはずなのに、もの悲しさを伴って、しっとりと別れや終わりが受け入れられていく。「春は来ないとしても」、移ろい行く季節のなかで大事な記憶はよび起こされ、顕れて、洗われて、澄んだ形に整っていく。

 気付いたら涙がこぼれていて、満たされた、温かい感覚以外は、何も考えられなかった。翌朝目が覚めて、心のさざ波というべきなのか、私の体の中に私の五感とともに動いているものの気配があって、空ッぽかもしれないと思っていた器に何かが注がれた気がした。カモさんの声なのか、表情なのか、私が知っている誰かのように思えて、でも、決して特定の誰かではなくて、それでいてしばらく会ってないけど会いたい人、もう会えないと思っていた人たちの顔、仕草、形を思い出した。亡くなった祖父とそのメガネの縁、「まめ」と名づけた子猫、お腹のところにカチカチごはんつぶのくっついた白熊のぬいぐるみ「くーちゃん」、ここにいたんだ。

 余談であるが、私が 「ナツノカモ」を知ったのは、九龍ジョー氏のブログだったように思うが、家に2冊あるはずの九龍氏の著作『メモリースティック』が見当たらず。そこに何か記述されているんじゃないかと思い、確認してから書こうと思っていたが、ついぞ見つからず。三冊目を買う決断もできなかったので、ナツノカモ氏のエッセイ『着物を脱いだ渡り鳥』を読み返す。私は、落語家だったときのナツノカモを知らないので、私はそのことについて語る資格をもたない。ただ、ナツノカモのエッセイには、落語についての真摯な思いがつづられていたことは間違いない。

「落語とは夢に近い。夢には必ず画がある。そして人は夢を見ている間、起きた事態を真に受ける。どんなに荒唐無稽な画を見たとしても、夢の中ではそれが真実になる。落語でも、登場人物たちは「起きた事態を真に受ける」。落語は「覚醒しながら夢を見る芸能」と言ってもいい、と僕は思っている」

ナツノカモ『着物を脱いだ渡り鳥」より

と書いてあった。しかし、私が彼の落語から感じた体験はもっと違った。フロイトが言っている転移に近い。これは、マカーリの著作からの孫引きだけども、1905年にフロイトはこう述べていたらしい。

「転移とは何か。それは、分析が進みゆくなかで呼び覚まされ意識化されることになる感情の蠢きであり、空想の装いを新たにした再販本であり複製品である。しかもこの転移という領域に特徴的なのは、以前の人物が医者という人物によって代用されることである。別の言い方をすれば、一連の過去の心的体験の全体が、過ぎ去った体験としてではなく、医者という人物との現在進行形の関係として息を吹き返すのである。」

フロイト 症例『ドーラ』(多分)

 フロイトが、夢の分析に執心するあまりに見落とした重要な要素が「転移」であったことを踏まえると興味深い。私の体験は、フロイトのいうところの「医者」を「落語」に言い換えて補完される面があるかもしれないが、私が落語世界の登場人物のそれぞれと再版された関係性を構築しているような、その過程において噺家の頭の中に住まう登場人物を借りているような、そんな体験をしたと思っている。

 「カンガエルカモ」の第四考は、擬古典の夕べのあとだったから擬古典の縛りだった。ナツノカモ氏が落語家になったばかりの時に作った作品から、落語家を辞めてから作った作品まで、その歴史を辿るように演目が並べられていた。「手の届く雲」「お化けの気持ち」そして「桃幻郷」。「手の届く雲」は、「猫と金魚」という古典落語の登場人物と、その世界観の「また別の日」として作られた。私は、カモさんの「猫と金魚」を聴いたことがないから、その比較はできないが番頭さんのひねくれ具合が面白かった。次いで「お化けの気持ち」。「町内の生き字引」を自称するご隠居と、賢い子ども金蔵の応酬が凄まじい創作落語だ。子どもになめてかかり、大人の欺瞞が暴かれそうになるが、大人のプライドとしてごまかしを真実にしようと幼稚にも試みる。どっちが子どもなのか分からなくなる展開に大笑いしながら、私自身が出会ってきた子どもの、子どもなりの理屈の面白さと、それを大事にしながらも引くに引けない親なりの理論がある状況が思い出され、愛おしく思う。

 中入りを挟んでの「桃幻郷」。2人の男が旅の途中で差し掛かった桃の木の密集地。桃の花の美しさに圧倒されながらも、桜や梅とは異なり香りはしない。木の脇に佇む人に目をやると、男にとって「会いたい人」であった。私にとっての「会いたい人」は誰だったのか、伝えたいこと、伝わらなかったこと、もっと伝えてほしかったこと。「もう会えないかもしれない」誰かが私の中で浮かんでは消え、浮かんでは消え。決して一つの所には留まらないから、後悔もまた立ちどころに消え。もう一人の男の行方を探してみると、その男にはメッセンジャーのように現実的な指摘、説教が届けられる。粗忽者に導かれ、笑い、日常へと戻ってくる、ちっぽけで、意味がなく、あまりにも具体的でばかばかしい現実生活のありがたみをお土産にしながら。

 帰り道の電車のなかで、私のなかの戻らない時間について考え、淋しく、同時に愛おしく思い、後悔が沸き起こることにも気づきながら、とにかくもう少し頑張ってみよう、と思った。過去は変わらずそこにあり、記憶や情緒は何かをきっかけに呼び覚まされているけれども、ナツノカモの落語との出会いによって、見ている画がどういう風にか変わったのかもしれない。

Text:三輪車のa
 


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