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2024年5月6日、伝説の「吉笑祭」昼 立川吉笑独演会~CD収録スペシャル~

 心臓が早鐘を打ち、血液が体中を駆け巡る。私の体を前へ前へと押し出していき、叫びたくなるような高揚感。叩きのめすような力とは違う、内側から湧き上がる力を語りのリズムが引き出し、観客を巻き込む立川吉笑の落語。2024年5月6日の吉笑祭は、昼夜にわたってその可能性が試された、そう思っている。

 2023年の真打トライアルにて、真打昇進が内定し、2025年に真打昇進予定。二ツ目としてのラストイヤーの吉笑祭では、CD収録のため6作品が連続して演じられた。まるで音楽ライブを収録するかのように、滔々と澱みなく、吉笑から迸る汗とともに熱量が伝播し、観客を盛り上げていく。落語世界の登場人物が客席から立ち上がり、舞台上にあがっていくような、そんな感覚すらあり、八っつあん、熊さん、横丁のご隠居が住む世界と地続きに、客としての私がいる。同じ創作話芸ユニットを組む瀧川鯉八師匠を司会として招き、そのゆるふわな雰囲気のコントラストによって生じる笑いもまた心地よい。


ぷるぷる

 はじめは、立川吉笑が2022年のNHK新人落語大賞を受賞したときの作品であり、いまや代表作ともいえる「ぷるぷる」。松脂を舐めた八五郎の唇の端が固まり、発話するごとに唇がぷるぷると震えてしまう。一生懸命に言葉を伝える八っつあんの、その真剣さに動かされ話しに耳を傾けているうちに、いつしか観客の耳が慣れ不思議と「ぷるぷる」が聞き取れるようになっている。ツッコミを待たずして笑えてしまう体験に気付いた時、もうすでに吉笑落語の世界に引き込まれているといえるだろう。

 立川吉笑は落語という方法を用いて世界を翻弄していく。
(ここにかっこいい写真を入れたかった!)

ぞおん

 定吉の奉公先となる、摩訶不思議な大店の話。「ぞおん」の中に出てくる社会は、上下関係の序列はそのままに、意思伝達のための方法が強烈である。一度落語が始まると我々はそのルールというべきか、この日の雰囲気からすれば音楽性というべきものに、全身で身を委ねなければならない。ゾーン状態に入ったという番頭さんの全く聞き取ることができない早さの指示に面食らう新人の定吉体験は、今まさに観客が「ぷるぷる」にて体験したこととよく似ている。

床女坊

 続く「床女坊」は舟渡しに関する数々の注文を船頭がうまく仕分けていくといった落語であり、背景には数理的な推理が強烈な「ルール」として存在している。与えられた難題の場合分けの「成功」と場合分けの「失敗」に落語の展開が委ねられているという不条理さ。何度も反復しながら場合分けのやり直すループの中に、微妙な差異が生まれ予測(不)可能なサゲに向かって一気に駆けだす感覚を味わう。

 私は立川吉笑の三題噺をきっかけに落語にのめり込んでいったという経緯があり、些細な題材が多様に展開していくことを知っている。また、ナツノカモ作の「明晰夢」を立川吉笑が演じているところに衝撃を受けたからかもしれないが、落語が反復されていくなかで演者によって少しずつ変化していくこと、同じ演者でも日によって全く異なる印象を受けること、観客のそれぞれによって抱く感想は様々であることについて考えもした。落語が観客の想像力によって成立している芸能である限りにおいて、一見同じように見える反復も、微妙な差異や受け取り方によっていくらでも変化しうる。その可能性を立川吉笑自身も楽しんでいるように私は思うのだ。

 中入りを挟んだ後の演目からは、反復に内在する多元的な展開の可能性のなかから、個性や人間性が立ちあらわれ、一層と揺さぶられていく。

一人相撲


 「一人相撲」は、番頭さんが見に行くことができなかった回向院の相撲を、奉公人たちが代わりにみて内容を伝達しようとするといった一席である。同じ事象にもかかわらず、人物によってものの見方、捉え方が大きく異なる。金蔵、定吉など、それぞれの性格、想い、視点などが丁寧に演じ分けられており、そこに私自身の記憶もくすぐられ、足が速いやつへの偏見に納得がいく。


狸の恩返しすぎ

 次いで、古典落語「狸札」の吉笑的展開ともいうべき作品「狸の恩返しすぎ」。古典落語の「狸札」同様、罠につかまった子狸を助けたお礼に恩返しをしてもらうという展開は変わらず、吉笑版は恩返しのしつこさが度を超している。子狸を配慮しわざと怒ってみたり、そのことで後悔してみたり、八五郎という人間の優しさが垣間見え、笑いの中から人間性が立ち上がってくるところもまた見どころだ。

くじ悲喜

 最後は「くじ悲喜」。擬古典と同様、吉笑の創作の切り口の一つともいえるギミックが用いられている。くじを引く側の悲しみと喜びではなく、くじとして引かれる側にも一喜一憂はある。自分に書かれた景品はなにかと議論する「くじ」たちによって、外の世界と内の世界は反転する。自分の使命について、真実を知ることに怖気づく。持っている者と持たない者の差と優越感と劣等感。こうした中で数年前の「くじ」として現れた者の、回収できない(してもらえなかった)過去が悔やまれる、という悲喜こもごも。観客としての私もまた、自分が誰なのか、一体どういう感情に、どういう経緯に共感しているのか、たえず揺れ動き、反転し入れ替わり、かき回されていく。

 この落語会=ライブはCDになる。 聴く人によって感想は違うだろう。私だって、何度も何度も反復して聴いているうちに、老い、生活の状況の変化に伴ってどんどんと感じ方が変わっていくかもしれない。毎日の繰り返しのなかで人間は変わるのだろうか、どれだけの喜びと悲しみを繰り返すのだろうか、持っているものを手放すことはできのだろうか。様々な問いが、立川吉笑の落語を浴びた後から次々と湧いてくる。だからこそ、この収録に立ち会ったという一回限りの収録の忘れがたい経験とともに、私の人生の多様な展開可能性とともに、こうして今、記述しておきたいのである。

Text:三輪車のa

 (夜の部は、考えてまとめることに疲れちゃいまして、すみません。書こうと思ってはいますが、書くか書かないか自分でもわかりません。けれども、ライブ性と多元的な展開の可能性と言う点においては、夜の部も吉笑色が濃かったと思う。田中光氏を招いてイラストと落語をコラボしていたがイラストが決して想像力を視覚的に補うというばかりでなく、田中氏の描く絵から真実が語られるのは面白かった。後半は、田中氏と吉笑さんの即興的なパフォーマンスであったが、2人の異なる意図を持つものがお互いに影響を受け合いながら、異なる方法を用いて着地点を模索するというのは不思議な感覚であったし、展開の可能性は一気に広がるだろうと思った。そして何より、お互いにヒリヒリしながら笑いを探っていく様子が、楽しそうだったし、面白そうだなー、と思った。)


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