『偏心――重症心身障害児(者)の妹・イン・ザ・ダイアローグ』第十六話

Text by:たくにゃん

先輩方の声を聴く

 『neoneo』9号の発刊後、役割を終えた私は『neoneo』編集室を離れた。すでに『スピラレ』の同人は事実上の解散をしていて、私は批評活動の新たな足場を探していた。そんな私の状況を知って、『スピラレ』の兄貴分に当たる『アラザル』同人の先輩方が仲間入りの声掛けをしてくださった。私は喜んで加入させていただいた。佐々木先生の講座が開講された時期としては5年ほど先駆けており、憧れの存在だった先輩方とお近づきになり、さらなる知見を吸収したいと思った。
 この頃から、私は単純な批評文ではなく何らかの批評的な文章を書くことを志向し始めていた。2018年5月に発刊された『アラザル』11号には、短い批評的エッセーの連作と、超短編小説を寄稿した。また、いきつけのBar「人間失格」の客によって2018年9月に創刊されたファンZINE、『失格』創刊号には短編小説を書いた。
 それまで自分の型にしていた「批評文」では、妹の声を聴くことに行き詰まりを感じ始めていた。それは恐らく、「私」性を排した批評文への違和感だった。これまで私は、「自分語りを徹底的に排せ。それでも「私」性はにじみ出てしまうから」という、師匠である佐々木先生の教えに忠実に従ってきた。確かに、批評文は一にも二にも批評対象について語るものである。一方で、どんな教えも、師匠を超えて自分のスタイルを確立していってこそ、活きるものではないか。
 『アラザル』の先輩方の中には、エッセーとも読めるような批評文など、形式に囚われずにそれぞれの批評を実践している方がいたことも、背中を後押しした。『失格』もジャンルを問わないテキストを寄稿できる場で、実験的な文章を書くことが叶った。新しい同人関係の中で知見を吸収したというよりも、同人の存在自体が前進するためのエネルギーとなった。書くときは一人でも、書く同志がいることが、書くことには必要なことだと再認識した。
 もっとも、「私」性を排した批評文を書くことを止めたわけではないし、妹の声を聴こうとする姿勢に変わりはなかった。端的に言えば、2種類の書き方を平行して進めるような段階に入ったのである。それは奇しくも、本業とプライベートの両方で、別種の編集・執筆作業をしている状況とも重なっていた。

  「久々に彼女もできて、批評活動と恋愛の両立にも忙しくなってきてたわよね」

  「人間にとって他者と生きることは大前提だと思っていたから、恋愛はその実践の最たるものとして欠かせなかったんだよ」

  「なに福祉的な文脈に引き寄せちゃって。本当はただセックスがしたかっただけでしょ」

  「……沙也香の存在や両親との関係といった家族の問題と向き合わざるを得ないおれにとって、それらを相対化するために自らの家庭を作ることは批評活動以上に大事だと思ってた」

  「あのね、恋愛は頭じゃなくて体、もっと言えば心でするものよ。それに、私のような独身だって、立派に他者と生きているんだから」

 確かに、家族のカタチに正解はないし、他者と生きることは――私の実家暮らしがそうであったように――苦痛を伴うことでもある。結局、私は本能に身を任せて恋愛していたのだろう。もしかしたら、批評活動も仕事も、全て自分が選んだかのようでいて、本能的な何かによって進んでいるところが大きいのかもしれない。それでも、そうだからこそ私は社会というより私自身に抵抗を続け、自分のスタイルを模索していた。躁うつ病のラッパー“かっつん”こと小林勝行が「オレヲダキシメロ」(2017年)で唄うように、「いつの日か自分の世界 良く変え」たくて。


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