『偏心――重症心身障害児(者)の妹・イン・ザ・ダイアローグ』第二十話

Text by:たくにゃん

自分の声を聴く

 介護の専門新聞の仕事で、これまでドキュメンタリー映画などメディアの中だけで接してきた障害福祉の現場について、たくさん取材するようになった。重症心身障害児(者)については、「あゆちゃんち」にお邪魔したり、知的障害者施設において多少は接することができた。また、児玉真美さんの新刊『殺す親 殺させられる親』の書評を担当するなど、自分の中心的な関心テーマについて仕事として書くことを経験できたことは僥倖だった。
 ただ、さまざまな現場を取材してきたこの3年間で、私が強く関心を持つようになってきたのは、20~30代のきょうだい児(者)の活躍だった。たとえば、知的障害のある人のアートをデザインに落とし込んだネクタイ等の販売を行うヘラルボニーの代表・松田崇弥さんや障害のある家族との思い出や日常を軽妙洒脱なエッセーに仕立てる作家の岸田奈美さん、聞こえないきょうだいをもつSODAソーダの会の代表で弁護士の藤木和子さんなどが有名だ。
 また、きょうだい児であることを創作に落とし込んで活動している人たちも出てきた。たとえば、彫刻家の平山匠さんや劇作家の伊藤毅さん(青年団リンクやしゃご)、アーティストの飯山由貴さんなどだ。それまで私の知る限りでは、2011年に『ちづる』というドキュメンタリー映画を撮った、赤崎正和さんくらいしかいなかった。東京パラリンピックの開催に伴う障害福祉の盛り上がりと相まって、きょうだい児がヤングケアラーとして注目され始めた状況と無関係の現象ではないと思う。
 こうした流れの中で刺激を受けた私は、プライベートの執筆活動において「私」性を取り戻した批評的なテキストを書くにあたって、自分がきょうだい児(者)であることについて改めて見つめ直した。確かに私は重症心身障害児(者)のことを最大の関心事としているが、その土台には自分が重症心身障害児(者)のきょうだい児だったことがある。つまり、重症心身障害児(者)について論じたり表現するときに、切っても切り離せない関係性にあるということ。青い芝の会の行動宣言の一番目に、「自らがCP者であることを自覚する」があるが、私はこれまで批評文を書く際に、自らが「きょうだい児(者)」であることを自覚できていなかったのだ。

 障害者と健全者との関り合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、はじめて前身することができるのではないだろうか。

横田弘『障害者殺しの思想』P104

 これは青い芝の会の横田弘が著書、『障害者殺しの思想』の中で述べた一文である。私ははじめ、この「障害者」の部分が重症心身障害児(者)の妹で、「健全者」が私だと思っていた。しかし、「障害者」の部分にきょうだい児(者)も入るとしたらどうだろう。きょうだい児(者)の私と「健全者」の私もまた、絶えることのない日常的な闘争を行っていたとしたら。「健全者」の私は二正面戦線を強いられる、ダブルバインドに陥っていたのかもしれない。

 「そうなると、お兄ちゃんの中に健全者としての自分ときょうだい児(者)としての自分がいたというわけね。それは、脳性まひ者が “健全者幻想”に気を付けなければならないことと、同じ課題があると言えそうね」

 「そうだね。おれは健全者になりたくても、なれないということになる。半分は健全者で、半分はきょうだい児(者)というか。ただ、そもそも健全者なんていないんだ。普通なんてない。普通の人はいない。一人ひとり中にも多様性が広がっているってこと。でも、現実的にはカッコつきの障害者はいる。まだ、残念ながら」

 「だから、障害の有無を超えて、人としての尊厳が重要になってくるって話よね。ねえ、最後に確認しておきたいんだけど、私のこれまでの発言って全部都合がいいんじゃないの? つまり、今しゃべっている内容もそうだけど、お兄ちゃんにコントロールされた私でしかないよね」

 「そうだね、多様な沙也香の中の一人というか……」

 「伝家の宝刀を抜けるのは一度きりだと思うよ」

 「分かってる。でも、また協力してもらうときが来るかも」

 「分かってないなあ。植松は自分で控訴を取り下げたくせに、そのあと再審を要求して、結局認められなかったんだからね。まあ、気が向いたらね」

 重症心身障害児(者)のきょうだい児(者)としての私は、半固体との親和性の高い重症心身障害児(者)と二者性の関係にある、中間的で曖昧な人間だと感じる。それを「半端ある人」とでも呼べるかもしれない。もっとも、名付けるつもりはない。ただ自分は、少し偏った心を持っていると思う。無宗教だが、自分の中に妹という神様が同居している。「福子伝説」のように、妹を聖なるもの扱いしているわけではない。自分以外に信じられる人が自分の中にいるということ。それをラッキーだと思える自分がいることは確かだ。これまでも、これからも。
 知的障害のある人が働くリサイクルショップ、「にじ屋」のメンバーが中心のバンド、「スーパー猛毒ちんどん」の楽曲「数え唄」で歌われているように、「生まれおちて このかた バカだった 仲間はずれ ずっと一人で 笑ってた 今が 時だ 逆襲の」。誰へ向けた逆襲かと言えば、それはもちろん、健常者としての自分への逆襲である。そして、本稿は妹への勝手な返信であり、植松聖への一方的な返信でもあり、健常者としての自分への返信なのだ。


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