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我慢している人ほど”正しさ”に固執する件

昔の私がそうだったんだよぅ…!という視点で、今日はお話させてください。

悲報:周りに気を遣って、空気を読んで、本当に言いたいことを飲み込んで、我慢して生きてるんです!息苦しいです!
という人ほど、同時に自分の中の「善/悪」「正しい/正しくない」「正義/悪」「責任/無責任」みたいな観点が強いのではないかと思うのです。
そして息苦しくて対人関係がしんどい話のスタートは、我慢してることではなく、善悪や責任の話がスタートなのでは?と思うのです。

こちら↓のお話のように、他者の感情を察知しやすい人は、しやすいゆえに相手にどう思われているかが気になりがちです。

色んな感情を受け取るということは、他の人より素敵な感情もたくさんもらったかもしれないけど、同じくらい嫌な感情ももらった可能性があり、それは完全には予測できなくて、できれば受け取りたくないものだったりして、自分の言動に気を付けていくうちに「相手はどう思ってる?」を気にするのがスタンダードになっていきます。

そういった経験を積み重ねていくうちに、自分の言動や思考の禁止項目が増えてくるんです。
この言動はNG
この話題はNG
あの考え方は間違ってる(からNG)
そういうことはやっちゃいけない
 etc…

恐らく自分で禁止していることすら気付いていないことが多いでしょうが、ぜひ一度、「我慢してること」の理由を考えてみてください。
いつ、誰に、どんな理由でダメだと言われたかすら分からないけど「間違ってる」「ダメ」「正しくない」と思いこんでることがたくさんあると思います。
例えば「友達に『今度一緒に○○に行こう』と言われたら、気乗りしなくても『行く行く~♪』とこたえないといけない(相手の意図に沿わない返事はNG)」みたいな。
断ったり他の提案をされたら絶交よ!と全知人友人から明確に言われたわけでもないのに、どこかのタイミングで誰かが嫌な顔をした(かもしれない)から、いつか誰かが礼儀に反すると言っていたから、みたいな理由で、ひとりひとりとの関係性やお互いにどういたいかのすり合わせをすることなく禁止事項として脳内に箇条書きにされていること、ないですか?

禁止は自分を縛ります。
もちろん社会生活の中で、人間関係の中で、全てが自由で許されているわけではないけど、脳内の禁止事項は、定着の過程で「禁止されてるからそれは悪いこと・間違ったことだ」とちょっとだけ形を変えていきます

「今この相手との関係でどうしたいか」の個別案件ではなく、全方位に禁止を作り、増えていくことで、身動きが取れなくなる。
でもそれは「正しい」ことだから。私には人としての責任があるから。
だから本当は言いたくないことも気を遣って言わなきゃいけないし、言いたいことを我慢しなきゃいけない。
だってダメなことはしちゃいけないんだもの。

禁止の風呂敷を広げに広げ続けることは、すなわちどんどん小さな点になっていく「正しさ」を守るために頑張っていくことです。
苦しいはずです。歩いていい場所が本当に少ないから。
でも、禁止されてることの反対が正しいことで、正しいことをしている自分はいい子のはずなのに、どうして周りは気を遣ってくれないの?ほめてくれないの?私が正しいって言ってくれないの?って感じることはありませんか?
正義は私にあるはずなのに、正義のために我慢しているのに…と。

これは過去の私を見つめた時の想像ですが、禁止に縛られたことによる苦しさを見ないために、自分の正義に酔っていたような部分があったと思います。
(否、今でもそういう私は小さくあちこちに存在しています)
きつい言い方をするならば、“正しいこと”のために我慢してる自分を美化して、その美しい自分像に甘えている、ってことだなと感じました。

だからまず、無自覚だった沢山の禁止事項ひとつひとつを検証してみたいのです。
「それってほんとに、やっちゃダメなことなの?」「他のやり方はないの?」「世の中の全員がそれを禁止してるの?」「誰がダメって決めたの?」

#note #コラム #自己肯定感 #自己否定 #息苦しさ #気遣い #責任 #禁止

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