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「居場所を見つける」の前提を覆す

「居場所がない」「居場所が見つからない」
みたいな言葉が市民権を得て、それに対応するように、どうやったら居場所が見つかるかの方法論のようなものも増えたと思う。

今日ふと、そういうタイトルの本を見かけて思った。
こういった本や考え、アドバイス?のようなものは、ひょっとして、私やあなたに合った「居場所」は事前にこの世に存在して、何かしらの方法で提供される、という前提に立ってるのではないかしら?と。

全部を読んだり調べたりしたわけではないけれど、「居場所はあるよ。大丈夫だよ」とうたうもの中には、そういう語り口や見せ方をしているものも一定数あるのでは、と。

私もずっと、居場所がないように感じていたというか、世界の中で安心していられる場所がとても小さくて少ないように感じていた。
だから、私を理解してくれる人を探していたし、わかってもらえる場所を探していたと思う。でも、以前から思うとずいぶん生きやすくなった今、思うのは、「居場所」はこのひろい世界のどこかに「そもそも存在する」ものでも「誰かや何かの方法で提供される」ものでもない。

誰かが教えてくれたメソッド通りに歩けば、今いる場から離れて色んな場を探せば、宝探しの財宝がどこかに埋められてるみたいに「居場所」が見つけられる。
パーソナルカラーやパーソナルコーデみたいに、自分に合った、自分だけの、居場所が用意されてる。
というのはその通りのようで、本当はちょっと違う。
前提を変える必要がある。

すでに存在するはずの私の居心地のいい居場所を見つける
のではなくて
私がこの世界とどんな向き合い方をしたら居場所と感じられるか
なんだと思う。
私が世界を嫌いなのに、世界のどこかに誰かが居場所を用意してくれても、結局はそこが嫌いになる。
だからまず、私が世界を好きになれる、世界の見方をしたい。

覚悟も勇気も必要なことだけど、私が変わるしかない。
もちろん、危険な場からはさっさと立ち去っていい。
それと同時に、まず私が世界に対して、半径2mの範囲に対して、優しく開いていたい。
そうすると、「今ここ」がいつの間にか居場所になってる。
ここにいて大丈夫と感じられる。

前提さえ変えてしまえば、あるのかないのかもわからない(多分ない)「理想の居場所」を探して右往左往しなくてよくなるし、本当にここは居場所なのか?と毎回警戒する必要もなくなる。
誰かに「ここは居場所ですか?」と確認する必要もなければ、嫌なことがあったときに、「こんなの居場所じゃない!」てザワザワすることもなくなる。
私が私の居場所だし、私の半径2mは私が優しい世界を作ってるから、世界も私に優しい。
嫌なこともあったりするけど、危険なら私の足で歩いて離れられるし、安全な世界で安全な私が付き合ってる人はみんな、私に優しい。

前提を変えてみて分かったこと。

世界を変えるスタートは、私。

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