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サトウのご飯の話。

数週間前、私は悩みに悩んでいた。悩むんだったらやればいいじゃん、と幾度となく人に吐き捨ててきたこの私がだ。そこまで何に悩んでいたかというと、「米を炊くか否か」である。

炊飯器がない訳ではない。電気も通じている。米だって、買えるくらいの金はある。むしろ農家の苦労を考えればふざけた値段だとすら思う。自分で育てようと思ってる訳でもない。

容易いことだ。人類の歴史上、今が最も米を炊くのに労力を要さない時代なのは明らかだ。私は精米する必要もなく、火をおこす必要もなく、米によっては研ぐ必要すらない。遠い遠い過去、誰かが夢見た「もっと楽になんねーもんかね」という想い。私はそれが叶った時代を生きている。

では何故とっとと炊かぬのか、というと「米を炊くと全部食ってしまうのではないか」という不安の為である。

過去の記事にも書いたことがあるが、私は元摂食障害で、過食症を長いこと患っていた。ふとしたきっかけで過食の衝動は治まり、ここ1年はわりと大人しく過ごせているのであるが、「また再発するのではないか」という不安を日常の様々な場面で感じることはまだ多い。

その不安は特に「家に余分な食べ物がある」により強く感じる。その為、私はずっと長いこと自炊らしい自炊をしていない。自炊をすると、大抵余って「余分な食べ物」が出来上がるからだ。どうにか食べ切る分だけを調理したとしても、材料は余る。それが私を不安にさせる。

「余分な食べ物」は「また必要な時に食べれるもの」と思えば有意義なものであるが、私にとっては「必要じゃない時に食べてしまうのではないか、という不安を呼び起こすもの」である。
要は家に「余分な食べ物」があると落ち着かないのだ。

私に「意識しない」ということは難しい。「空腹になったら思い出す」ということも、「空腹じゃない時に食べても罪悪感を感じない」ということも、私には難易度が高い。

そういう訳で、実際過食に及ばなかったとしても、私にとって自炊とは、精神を消耗させるものだ。だから、食事は必ず食べ切ることができる外食やデリバリーがほとんどだ。高くついてしまうのでは?と思われそうだが、それでも過食してた頃に比べれば食費は抑えられてるし、何より無駄な食べ物を買ってない自分に安心できる。

だが、それにも問題は生まれる。納豆ご飯が食べれないのだ。

外食やデリバリーでは、色んな店が営業努力から様々なメニューを提供してくれている。そのどれもが魅力的なものだ。だが、それを求めてない時が私の胃袋にはある。ハンバーグも唐揚げも餃子もチャーハンも、今の私には寄り添えない。そんな華々しいものは要らない。私は今、納豆ご飯だけがあればいいのだ。そんな時、それを叶えてくれる店はほぼないのである。

納豆ご飯を作ること自体は簡単だ。米と納豆を買い、米を炊けばいい。難しいことと言えば、納豆のフィルムが糸を引いてしまい、やあん、となってしまうことくらいだろう。

だがしかし、私はここでも考えてしまう。「米を炊くと全部食ってしまうのではないか」と。食べる分だけ炊けばいい、と思うかもしれない。確かに、使ってる炊飯器は業務用などではなく、0.5合から炊ける「Theひとり暮らし向け」といった規格のものである。だが、私は考えるのだ。「その量だけ炊けるだろうか」と。

0.5合だけ炊こうとすると、こういう私が出てくる。
「効率厨のお前が何を面倒なことを。上限の3.5合を炊いてしまい、小分けにして冷凍するのが良いに決まっている。そこから必要な時に温めて食べればいい。洗い物も楽というものだ」
それに反応する私も出てくる。
「そんな高等なこと10年出来てねえだろ」
それにまた反応する私。
「でも0.5合だけ炊くの確かに馬鹿らしいよね」
反応する私は際限なく湧く。
「冷凍するの、できた時もあった気がするよ」
「余程機嫌良かった時じゃない?」
「機嫌が良い時w」
「機嫌が良くない時もそのご飯が冷凍庫にあるってのが問題じゃね?」
「むしろ家にご飯があること自体に機嫌悪くなりそう」
「自分の機嫌は自分で取るもんだって」
「はい出た自己責任論」
「何もかも自分のせいにしたから過食症になったんじゃん」
「やめよーもうやめよー」
わらわらと湧く私の声。それを聞くと、私はスーパーの米売り場で動けなくなる。

そんな訳で、私はずっと米を買えずにいて、同時に納豆ご飯も食べれていなかった。だがしかし、限界がきた。そんな時、私の中の1人がこう言った。

「…サトウのご飯」

ビリーミリガン並みに増えていた私達がシン、となった。全員、どう反応すればいいか分からなかった。「その手があったか」と「何故気づかなかったのか」が混ざり合い、そこに「同じ名字だというのに」が加わり、現場はまさにパニックだった。

どうにか気持ちを落ち着かせ、スーパーに向かった。「1個だけ買う?」「5個パックの方が割安だよ」「5個も買ったら不安になるよ」というディスカッションはあったが、とりあえず3個パックで様子を見ることになった。納豆も3個パックしか売ってないことには舌打ちしそうになったが「さすがに納豆ご飯3杯を一気には食べないだろう」「そこくらいは自分を信じられる可能性に賭けたい」という見通しの元、私は無事ご飯と納豆を手に入れたのだった。

すごく久しぶりに茶碗を出した。180gのサトウのご飯は、レンジで数周回っただけで、あっという間に温かくなった。

嘘くさいくらいに艶々で、白いご飯を茶碗によそいながら、「茶碗にご飯をよそってんな…」と思った。「茶碗にご飯よそってるわ…」と思ったし、「茶碗にご飯よそってんだけど…」と思った。語彙力が本当になくなった。だって、茶碗にご飯をよそってるのだ。この私がだ。

その後、納豆を開けて、他のおかずもつけず、味噌汁もつけず、ただ粛々と納豆ご飯を食べた。納豆のパックから茶碗から箸から糸が引いて、やあん、となって、私はとても、とてもとても幸せだった。

この前欲張ってチーズ入れた。

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