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苦手な写真を撮った話

昔から、性的なものが苦手だった。

個人的に苦手な分にはそういったものから距離を置いておけば良いのであるが、写真に関わっているとそうもいかないことがたまにある。専門学校の授業で延々と性的な写真を見せられたり、先輩から「俺の作品見る?」と言われて性的な写真を見せられたり、写真の雑誌を開けば性的な写真だったり、写真展に誘われて行けば性的な写真だったり。

写真に携わる以上、写真と名のつくものは見んければならぬ、と思ってはいるので、「セクハラすよ」と言う訳にもいかず、一応見るのであるが、正直なところ、ずっと思っていたのは「この撮り方である必要があるのか」であった。

「この撮り方である必要があるのか」とは思うのだけども、「お前に理解できないだけだろ」と言われればあながち間違いではないのであって、個人的な苦手とその写真の芸術的な価値をごっちゃにするような行為は良くないことであろうから、「この撮り方である必要があるのか」という言葉をグッと堪えて「拝見しました」と言うのがやっと、ということを繰り返してきたのであるが、その繰り返しも疲れてしまうので、その写真にどういった意味があるのか頑張って考えてみたり、撮影者のインタビューなど読んでみたりなどしたのだけども、なかなか「この撮り方である必要があるのか」は消えてくれず、ぶちまけた言い方をしてしまえば、「性的なものを堂々と撮ったり見たりするため、もっともらしい言葉がこねくり回されている」としか思えてならなかった。

はいはい私がおかしいんすよ、性行為が愛情表現に思えない、愛や芸術を語る人間の背景に風俗街が常に見えてしまうような私が悪うございました、と半ば理解を諦めていたのであるが、そうも言ってられんねえな、と思うようなことが出てきたのだった。常連さんの中に水着や下着姿を撮られている方がちらほら現れたのだ。

最初に感じたのは不安であった。「撮って」と言われたらどうしよう、という不安である。断るのは容易い、だが、なんだか、どうしてか、ひどく悔しかった。まだ頼まれてもいないのに。

そもそも「露出が増えたら撮らねえ」という基準も曖昧なのだし、断るにしろ何にしろ、もう少し自分の「何が嫌なのか」を整理しないことには写真にもお客さんにも不誠実なのだから、遅かれ早かれこの作業は必要だったのだ、と自分に言い聞かせながら、日々考えることをしてみた。その途中にバーレスクに行ってみるなどしたし、人に「苦手なんすわ…」と打ち明けてみるなどして、グズグズと、のろのろと頭の中で分解、排除、再構築を繰り返した。すると、思ったよりシンプルな形が見え始めた。それは、向き合ってみれば「なんだこんなことか」と笑えてしまうくらいのことだった。

どうやら私は「その写真に写っている被写体本人の声が聞けてないこと」が嫌だったらしい。私に性的な写真を見せ、その説明をする人は、撮った本人も含めて色んな人がいたけれど、誰一人として「被写体本人」ではなかった。分かっている。きっと、ちゃんと契約をしている。写ってる本人がプロであれ一般人であれ、撮った人間はきっと何を撮るか説明をしているし、了承の上撮られているはずであった。だが、それは私の願いであって、実態とは言えない。実態とは言えない以上、私のような人間は、そこから「搾取」を想像してしまう。「消費」を感じてしまう。人間であることを必要とされず、持っている性別のみを利用されてしまう「搾取」と「消費」。その匂い。

ならば、その匂いがない写真を撮らなければならない気がした。脱がれてしまうことにはまだ抵抗があったが、それでも、分かった今このタイミングで撮らなきゃいけないと思った。だから、ひとつの撮影会を企画した。「脱がない」を唯一のルールとして、「性」や「色気」を撮ろうという撮影。丁度日本画に対する興味を持ち始めたこともあり、「春画」という単語を使って、「サトウ的春画撮影」と名づけることにした。

申し込んでくれたお客さん達と、連日メールで打ち合わせをした。私は聞き出し、整理し、撮影方法を提案をするだけで、コンセプトは全てお客さんの中から出してもらった。何を着るかも、何をどこまで脱ぐかも、なるべく細かく話した。「この撮り方である必要がある」と納得ができるように。

撮影中は楽しいような、不安なような、不思議な気持ちだった。でも、それ以上に晴れやかであった。ずっと私が聞きたかった「被写体の声」が聞けていたからだ。打ち合わせで聞いた「これを撮りたい」「これを表現したい」という、被写体から直接発せられた声。それが私を動かして、私にシャッターを切らせている。私は私の為に撮っていない。私は、相手の為に撮っている。その事実が私を安心させたし、私を救ってくれていた。

撮った写真を確認しながら、これはどう見られるんだろうな、と考えた。性的な写真に対して、私と同じ見方をしてしまう誰かがどこかにいたとして、この写真を見たらどう思うんだろう。性的と呼べるほど脱いではいないけど、はだけていたりもしたし、下着になってる人もいる。きっと、私と同じように「搾取」や「消費」を感じてしまうだろう。

でも、私は何も心配しなくて良いのだ。この写真に関しては、私は何も語る必要がない。「この撮り方である必要があるのか」の説明は、被写体本人がしてくれる。その言葉は、私と同じ見方をしてしまう誰かを、きっと安心させてくれるはずだ。この写真には「搾取」も「消費」もない。その代わり、被写体本人の「尊厳」が確実にある。

そういう写真が、私の手で生み出せた事実に、とても安堵している。今は少しずつでも、グラビアなんかが撮れるようになれるといいなと思ってる。

※これは個人的な弱点に対する思いや患いの記事であって、性的な表現や性産業に喧嘩を売っているつもりはありません。そんな怖いことができるか

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