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分からない話

「宇宙」と「恐竜」が好きなのであるが、詳しいかと言われると全くそうではない。ほぼ分からないと言って良いと思う。では何故好きなのかと言うと、「分からない」故であると思う。

かねてから、私は「分からない」という言葉が苦手であった。

子供の頃、よく周りの大人に「何を考えてるのか分からない」と言われた。表情に乏しい子供であったからだろうと思われる。それはもう家庭訪問、三者面談、親戚の集まりの度に同じことを散々と言われた。私の考えが分からないことが何の悪になるのだろう。親でもない大人が。たかが数時間一緒にいるだけの他人の大人が。分からなくて私はいつも困っていた。

大人になり、社会で働くようになった。そこでもよく「分からない」と言われた。私は写真が好きで、だから写真を勉強し、写真の仕事に就いたのだが、写真の仕事をしている人間が全て私と同じではないようだった。私はよく後輩に「写真、本当に好きなの」と聞いた。すると「分からない」という答えが返ってきた。写真が好きか「分からない」後輩だから、全然写真を上手くなろうとしておらず、なんでそうなったのか「分からない」ミスを多発していた。私には分からなかった。どうして子供の頃の私の「分からない」が許されなくて、この後輩の「分からない」が許されてるのだろう。

仕事の後では、上司から恋愛の話を聞かれた。私の恋愛事情がどうして上司に必要なのか分からなかったが、「付き合うという意味が分からないんで」と正直に言ったら「どうしてそんなことが言えるか分からない」と言われた。全く同じ気持ちであった。その台詞をどうして後輩に言ってくれないのかも分からなかった。

他にも腐るほどの「分からない」があった。その沢山の「分からない」は、とても私を混乱させた。私から見れば「別に無理に分からなくていいだろ」と思う「分からない」があれば、「それは考えれば分かるだろ」と思う「分からない」もあり、「分かったふりをされてるだけ」という「分からない」もあった。

色んな「分からない」を見て、私は思った。「分からない」は、おそらく何も悪くないのだろう。私を混乱させるのは、「分からない」に対する向き合い方だ。私の内面なんて全く分からなくても困りはしないのに「何を考えてるか分からない」と批判してくる人達が、ちょっと考えれば分かりそうな「お前に関係ないだろ」という私の感情は全く分かろうとせず、私が不満を口にすれば何ひとつ分かってもないくせに「分かるよ」と言い、それを更に責めると「人の親切を拒む理由が分からない」などと言う。

あーもーなんも分かんねえ、分からねえお前らが分からねえし何も分かってもらいたくねえよこんちくしょー、という精神がピークの時、私は何故か呼ばれたような気がして本屋へ向かった。そして新書のコーナーで1冊の本を見つけた。

宇宙とは結局なんであるのか、みたいなタイトルを掲げたその本を選んだのは、どうせ分からないことだらけの世の中なら、思い切り分からないものを読もう、という帳尻合わせなのかヤケクソなのか分からない心理であったと思う。さーて宇宙とは何でできてるんですかねぇ、どうせ私には分かりゃしませんけどねぇ、とやさぐれ半分で本をめくった。すると、最初のページにいきなりこう書いてあった。

「宇宙の謎のほとんどはまだ分かっていません」

衝撃であった。私が分かる分からない云々の前に、書いた人が「分からない」と宣言している。いやいやいやいや君が分からないなら私も分からないじゃないか、とあたふたしたし、ではこの「宇宙とは結局なんであるのか」的なタイトルはなんでつけたのよ、とも思った。でも、不思議と笑えてしまう自分がいた。こんなに清々とした「分からない」がこの世にあるのか。

その本は分かっていることに関してはしっかりと説明をしていたが、要所要所で「分からない」を連発し、あろうことか「今分かっていることすら覆されるかも分からない」みたいなことを言っていた。宇宙という実際目の前にない膨大な空間を言葉のみで説明され、ただでさえ理解に苦労しているのに、ようやく頭が追いついたかと思えば「ここから先は分からない」と突き放され、私の頭はもう疲労困憊であったが、それでも晴れやかであった。この本の中では「分かる」ことは「分かる」であって、「分からない」ことは「分からない」だったし、「分かっている」ことが「誤解である」かもしれない可能性まで認識していた。

「分からない」ということに対して、その本はとても謙虚であった。「何が分からないのか」を明確にした上で、何度も実験と反証を繰り返し、丁寧に、ゆっくりと「分かる」に近づく。そして、「分かってなかった」ことがあれば素直に認め、最初に戻る。何より、「分からない」が「悪」とされてないことが私にとってとても重要だった。むしろ「分かってないことが沢山ある!わくわく!」くらいのテンションであった。「分からない」ままでいることにも、新たな「分からない」が出てくることにも、その本は善悪をつけていなかった。ただ、「分かったふり」だけは悪と断じていた。それは、私が理想とする「分からない」に対する正しい向き合い方だった。

その本を読み終えても、私には何も残らなかった。全く分からなかったからだ。でも、私は良い気持ちであった。「分からない」が許されているからだ。私はそこからやたらと宇宙の本を読むようになり、「分からない」という単語を見つける度にニヤニヤする気持ち悪い人間になった。

というだけの話。

※恐竜も同じ理由で好き。こいつらはどんなに研究してもタイムスリップできない限り100%分からないってのがすごくすごく良い。

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