『レナードの朝』について、私はきっと一生考え続ける
『レナードの朝』を観た。人生で何度も観てきた映画だ。観るたびに、胸に残る想いは異なる。
今回は、レナード・ロウをはじめとした患者たちの「失われた30年」について深く深く考えた。切なくてたまらなくなった。
感想はまたいつか書くとして、このとりとめのない思いを吐き出したい。ぐちゃぐちゃな文章だ。
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職場に、認知症の女性がいる。御年99歳。見当識を確かめるため、スタッフは毎日彼女に問いかける。
「〇〇さん、お年はいくつ?」
『わてか?わて、いくつになったんやろか?』
「〇〇さん、99歳ですよ」
『99歳!わてが!もうそないになったんかいな!ほぉ~』
1日に何度も繰り返されるこの会話。
彼女は、自身が認知症であることはなんとなく理解しているようで、
『わて、もうボケてしもたわぁ』が口癖だ。
しかし彼女自身が思うよりも認知症は進んでいて、5分前のことも覚えていない。だから自分が99歳であることを聞くたび、何度も驚き、何度も忘れる。
ほがらかで、あっけらかんとしていて、彼女が「99歳」という年齢におどろくそのかわいらしいリアクションに、スタッフは虜だ。
穏やかな風景で、あたたかな時間でもある。だから否定したいわけではない。
しかし、もしも彼女が私なら、と思うとこわい。こわくてたまらない。
知らない人から肩を叩かれ突然「もう99歳なんだよ」という現実を突き付けられるなんて。
だって、誰が何といおうと私はまだ30代で、家族がいて、仕事もしている。甥っ子も生まれたばかりだ。
明日は映画を観に行きたいし、楽しみにしているライブもある。
それなのに。
目が覚めたら99歳になっていて、何年分もの記憶がなくて、両親も、兄妹も、友人も、知っている者はだれもいない。
我が子だという人間も、自分よりはるかに年配の老人。
まるで知らない世界にぽーんと放り出される。
認知症って、そんな世界なんじゃないかとふと思ったりする。
それでも「忘れてしまうこと」が必ずしも不幸だとは思わない。
つらいこと、いやなこと、苦しいこと…すべてを忘れて、もうこの世にはいない母の腕に抱かれ、幸せな眠りにつく患者もいる。
忘れるということは、ちゃんと体験したからこそのことだ。たとえ記憶になくとも、その人間をつくる要素になる。空白とは似て非なるものだ。
そして、私が恐れているのは、忘却ではなく空白なのだと、映画を観て気付かされた。
レナードたち患者は、何も体験しないまま、世界がぐるりと変わってしまった。まさに空白だ。
身体が動くようになり、話ができるようになった。よろこびの次には、少しずつ現実が襲ってくる。
鏡を見れば、中年の男が立っている。母は老婆になっている。
知らぬ間に30年もの月日が流れていた。
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うまく書けないけれど、レナードたちの目覚めは、幸福ばかりの物語ではなかったかもしれない。今回、その側面に強く心を引っ張られた。
ならば不幸であったのか。「目覚めさせた」ことは罪なのか。
それは違うと思う。そう思いたい。
奇跡の目覚めがなければ、患者がみな意思をもった人間であると、心があるのだと、知ることはできなかった。
レナードが目覚めた夜。彼はセイヤー医師に名前をつづってみせる。
「僕だよ」
その笑顔はたしかに、少年のままのレナードだった。
レナードにとって、患者たちにとっては、空白の30年間は存在しない。
奇跡の目覚めは、ただ「あの日」の続きをふたたび歩き始めた。それだけのことなのだ。
一瞬の夢だったとしても、歌うこと、化粧をすること、友と呼べる人と出会うこと、好きな人とダンスをすること…
人生を取り戻し、知らなかったよろこびを知る彼らの笑顔は、たしかに幸福に満ちている。
ただ現実はちがう。時は容赦なく流れる。町は変わり人は変わる。彼らが「空白」に気付きはじめる姿が切ない。
階段をゆっくりとくだるレナードと、トントンとのぼっていく幼い少女。人生の対比に見えた。
もし神様という存在があるのだとしたら、人間を忘れゆく生きものにしたことは残酷で優しいロマンだ。
けれど忘れることさえできないまま、意思を伝えられぬ身体に戻ったレナードたち患者のことを、深く深く考えては、今夜もなんだか眠れそうにない。
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