『風博士』‐雑感‐

観る者の心に確実になにかを残す作品だと思った。

タイトルどおり、ほぼ走り書きの雑感。

【雑感】

登場人物、彼らが背負う背景、生きている「今」は、どれもシビアだ。
しかし目の前で繰り広げられるのは、しめっぽい悲劇ではない。
おとぼけアリの会話劇とユーモラス、そして風刺。

坂口安吾の「ファラス」というともっとバカバカしくすっとんきょうなものというイメージだが、風刺や皮肉をまじえた「笑劇」という意味では、やはり本作には坂口安吾という作家の色をしっかりと感じる。

(これ、笑っていい作品なのか?)

序盤こそ、そんな考えが頭のなかをめぐった。
しかし、クスッと吹き出さずにはいられなくなる。

段田安則はズルいだろう。なんてことない顔で、なんともおとぼけたことを言う。
渡辺えりだってそうだ。自身を「笑いどころ」にされていると冗談めいて憤慨していたが、彼女がいることにより“おもしろければおもしろい”と、思いきり笑っていい作品なのだと安心できる。

そして梅花という女性がいるからこそ、彼女が語る過去や夢があるからこそ、戦争とは本当にむごいものだったのだと胸に刺さる。


悲劇を“悲劇として”描くのは、さほど難しいことではない。「戦争」「敗戦」「死」そういったものを扱えば、たいていは悲しい物語が出来上がる。

『風博士』のエンディングは、出演者がみな笑顔だ。けれど安直なハッピーエンドではない。

そこで笑っているのは、国に置き去りにされた者や、大切な存在を亡くした者たちばかり。さらに広瀬大尉や梅花の故郷にこの先なにが起こるのかは、観客の誰もが知っている。

『風博士』は、悲しみややるせなさを抱え、残酷な現実に生きる人々の物語を、明るく笑顔で終わる作品に昇華した。

そこになんの無理も生じていない。けれどその笑顔に観客は、笑って泣く。


笑顔ほど、悲しみを引き立てるものはない。生きているから人は笑う。笑おうともする。その下に、どんな悲しみを隠していたとしても。

舞台上でリアルに生きる彼らは、笑ったり泣いたり、嘆いたり、そうして生きるためのかすかな希望を離すまいとしている。だから、観る者は彼らに「生きてほしい」と願う。

生き抜くことが正解なのかすら分からなくもなってくるのが正直なところだが、とにかく幸せになってほしいと、心から願ってしまうのだ。


「どうせ死ぬなら、死ぬまで生き抜いてやる」そう叫ぶ者もいれば、
生きるも死ぬも、望むことさえ知らぬ者もいる。

人間は、みな同じところから生まれてくるのに、なぜ殺し合うのか。
だれが戦争をはじめたのか、なぜ戦争をするのか…なにもかも知らない者同士がなぜ、死線で銃を向けあっているのだろうか。
みんな、戦争のせいでバカになってしまったのか。

演者が次々と感情のままに叫ぶ言葉は、すべて皮肉なほど芯をついていた。

国破れて山河在り…鶯ねえさん(吉田羊)が「国なんかなくったっていいじゃないか」と歌う。「ちょっとだけ幸せになりたいね」とも。

スガシマ兵卒(林遣都)は「金鵄勲章欲しくはないが」と、恋のひとつもしてみたかったとヤケクソのように歌う。今際の際にまで言いたいことも言えず、生まれた意味も生きた意味も知らず、死ぬことでもぎとられる希望さえ抱くことも知らぬまま、生まれて死ぬ。

そんなバカみたいなことが、ほんの少し前の日本には間違いなく起こっていて、これから先も起こらないとはかぎらないなんて、どうかしている。

本当に、戦争は人をバカにしてしまうおそろしいものなのだと思った。

ここまでつらつらと書いて感じたこと。

『風博士』は、悲劇を喜劇に昇華した作品なのではなく、戦争というまことにバカバカしいものを根本からコケにして笑いものにした、大風刺なのかもしれない。

観る者の心にまちがいなくなにかを残す…
悲しみだったり、怒りだったり、わけのわからないモヤモヤだったり、胸を刺すような言葉だったり。

笑って泣いて、先人を思い、生きる意味を考える。

心の栞になるような、そんな作品だった。


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