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忘れられない曲。Kenny G『The Moment』と冷たい2月の朝

音楽はすごいと思う。
何年経っても「当時」に、あの「瞬間」に引き戻す引力がある。消したい記憶を忘れさせてはくれないが、覚えておきたい瞬間を、ずっと心に残してくれる。
今日は、私の忘れられない1曲についてお話したい。

曲は、Kenny G『The Moment』。奇しくも「瞬間」というタイトルをもつ曲だ。

■「ケータイ」時代のはじめてのアラーム

『The Moment』は、私がはじめてケータイのアラームに設定した曲だった。まだまだ16和音だとか32和音だとか、そんな時代。いわゆる着メロだ。

月額315円ほどの「着メロ取り放題」サイトがあって、気に入った曲をあれこれケータイにダウンロードしては、使うわけでもないのに聴いて、楽しんでいた。

『The Moment』は、あるテレビ番組で偶然耳にした曲だった。母とともに「いい曲やなぁ」とうっとりし、タイトルを忘れてしまわないうちにすぐ、ダウンロードして聴かせた。

「ほんま、ええ曲やわ」。

そういって笑っていた、元気そのものだった母が突然倒れたのは、それから1ヶ月も経たない日のことだった。

■鳴らなかったアラーム、最後の時間

当時、私は17歳。恥ずかしながら、朝は母に起こしてもらっていた。だから、生まれてこのかたアラームなど使ったことがなかった。

それでも母が倒れ、入院するとなった以上、どうにか自力で起きて学校に行かなければならない。
どうせ、元気になるまでのほんの数週間のあいだだけのこと。そう思っていた。

やけに張り切った私は、さっそくアラームを設定した。曲を『The Moment』に決めたことに深い意味はなかったが、目覚めに聴いても不快にならなそうな、静かなメロディが良いと思った。

それからしばらくの日が経ったけれど、アラームの出番はなかなかめぐってこなかった。

起きるといえばきまって、真夜中の急変の電話。父に起こされ、飛び起き、寝ぼけまなこで病院へ行く。そのまま朝まで過ごし、病院から学校へ向かう。そんな日が続いた。

とうとう、「学校を休むように」と父。いつどうなるか分からないのだと悟った。

そうなれば、朝も夜も関係ない。最後の数日は、ずっと病院で過ごした。眠ったかどうかも分からないが、何度か病室で朝を迎えた。病院とはいえ、さすがに冬の朝は冷えるのだなとか、思ったような気がしないでもない。

かわいい娘が腹をすかしていれば、うちの母なら起きるだろうと作戦を練ったこともある。

「おなかすいた」「お弁当つくって」。
二人きりになれるタイミングで母に甘えてみた。声をかけても反応のない姿に、もうどうにもならないのだなと泣けてきた。

そうして、ある日の深夜。日付が変わるとほぼ同じくして母は息を引き取った。

2週間ぶりに、母と一緒に家へ帰った。その日は泥のように眠った。

■冷たい朝と、知らない世界

朝6時。アラームの音で目を覚ましたのは、人生で初めてのことだった。起きられるものなんだな、と自分に驚いた。

静かな2月の朝に、響き渡る『The Moment』。ケータイの機械音は、不思議とうるさく感じなかった。

カーテンを開けてみる。外はうっすら白んでいて、部屋のなかにいても吐く息は白い。
知らない世界みたいだと思った。

朝はいつも、もっと遅くまで眠っていたから。母の優しい声で起きて、すでに温まった部屋で朝食を食べる。それが私の知っている「朝」だった。

こんなに冷たいのは、こんなに寂しいのは、朝なんかじゃない。けれど、もう現実であることは分かっていた。

アラームは、何度も何度も同じフレーズを繰り返す。切ろうと思えば切れた。立ち上がろうと思えば出来た。ただ、そうしなかった。

「お母さんのいない人生が始まるんだな」と、冷静に気付いてしまっていた。

始まってほしくない1日だった。終わってほしくない朝だった。だから、アラームを切ってしまいたくなかった。

止まってほしい時間を祈りながら、泣くでもなくただ、繰り返すアラームを聴いていた。永遠なんてないということにはもう、とっくに気付いていた。

それでも、1分1秒でも「今日」を、今日のかけらを感じていたいと、あのとき無意識に思った。

曲は『The Moment』。あの日の一瞬一瞬を、あの朝を、私は永遠に忘れないと思う。

冷たい朝、白んでいく空、冬のにおい、母がいなくなった日。 

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