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したい

意味があるとかないとか、実はあまり意識せずにしている行動が日常生活では大半を占める。朝起きて顔を洗って歯を磨く意味を考えたことがあるだろうか?習慣とはそういうもので疑ったり意味や意義を問わないものが日常なのだ。

そして我々は日々この考えずに行動することの幅を広げている。
17年ほど前にツイッターが始まったとき自分のプライベートなこと、しかも場所や時間が特定できるような内容をみなが投稿し始めたとき衝撃を受けたのを覚えている。

ある程度のリスクを感じつつも、もはや誰もが大きな躊躇なく投稿する。そしてどういう目的でそれをしているのかというそもそもの「理由」も考えなくなっている。SNSの場合パターンは多々あれど「承認欲求」に基づく投稿が多い。が、いちいち意味や意義や理由を考えない。この文章を書いている自分自身ですら意識して自問しなければ迷子になってしまう。

見栄えの良い華やかなカフェで可愛らしいファッション身を包んでランチの画像を投稿する目的と意味は本質的に何なんだろう?したいからしている?多いに結構なことだ。したい、やりたい、は強い原動力だ。

しかし何故そうしたいのか?もっと言えば、何故承認されたいのか?を深堀りしてみることにも一定の意味があると言いたい。
そもそも自分が何を望んでいてその行動から何を得ようとしているのか?どういう結果が最も自分の魂が喜ぶのかを考えてみるのだ。

僕の場合折に触れて行動の前にそれらを考えることがある。
可能な限りの脳をフルに使ってシミュレーション。
すると多くの場合投稿を思いとどまることになる。
そう、大した意味や意義がないのだ。

せいぜい世界の誰かにちょっとだけ何かを知ってほしい程度のものなのだ。それを理解した上で「したい」のであればするしかない。
結局結論はそれしかなかった。最近始まったINSTGRM発の新サービス「THREADS」の登場でこんなことを考えさせられた。


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