千葉雅也のアンチ・エビデンス論について(最終版)

(この論考はいわゆる投げ銭システムになっていますので、無料で最後まで読むことができますし、それでかまいません。気前のいい方は100円払ってくださるとうれしいです)

アンチ・エビデンス論

 立命館大学准教授、千葉雅也は、最近「アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い」と題する論考を発表しました(以下、これを「アンチ・エビデンス論」と呼ぶことにします)。

http://10plus1.jp/monthly/2015/04/index03.php

 千葉はドゥルーズ論「動きすぎてはいけない」などの単著を持つ、期待の若手哲学研究者。今回の論考も、発表直後はネットで賞賛の声に包まれました。ところが、その後数日して、批判の声も高まり始めます。とくに反感を呼んだのは、その文体でした。

分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実に届きかねない過剰な共有性の、接続過剰のただなかで、エビデンスと秘密の間を揺らぐ身体=資料体を、その無数の揺らぎの可能性を、ひとつひとつ別々の閉域としてすばやく噴射する。柑橘系の匂いで。

 この難解な文体に対して、何言ってるのこれ?そもそもこの文章に何か意味あるの?あるにしても、こんな書き方する必要あるわけ?といった不信の声があがりはじめたのです。

 千葉はこうした批判の声に対し、ツイッターで次のように述べました。

すごい読解力のなさ。もっと現代文勉強してください

https://mobile.twitter.com/masayachiba/status/589012977715523585

よほど分かりやすく家電の説明書みたいに書いてないものはすべて「朦朧文体」みたいなタイプがときどきいて困ります。文明の劣化ですね。

https://mobile.twitter.com/masayachiba/status/589016819517693952

読者への要求が厳しい書き手、という観念が許されなくなっていった。誤解なく書けていないから「書き手の敗北」だとか、潜在的な文脈など「見えてないのだから読まなくていいしそれを読めとか意味不明」だとか。しかも若いのがそういう態度で「消費者読者様」で偉そうにしている。どうしようもない。

https://mobile.twitter.com/masayachiba/status/589018655058309120

 ようするに、わからないお前がバカなんだよ!と言うわけですね。その後千葉は、直接リプライしていない者も含めて、ツイッター上の批判者を次々ブロックしました。これ以上対話する意志はない、ということでしょう。

 では、千葉の主張と批判者たちの声、どちらが妥当なのか?それを突き止めるために、今から千葉の論考を読んでみたいと思います。

エビデンシャリズムという粘土細工

 千葉は論考の冒頭で、些末なことや自明なことにも過剰なまでに論拠や説明責任を求める態度をエビデンシャリズムと呼び、こうした態度が現代には蔓延している、と述べました。さらに、インターネットの普及した現代では、人はさまざまな行動の痕跡をネット上に残してしまいます。そのため、人はエビデンシャリズムによる際限のないあら捜しにさらされてしまう。千葉によると、このエビデンシャリズムは、現代社会を窒息させるものなのです。だからこそ、この論考は「アンチ・エビデンス」と名づけられているわけでしょう。

 まずこの主張、みなさんはどう思われますか。率直に言って、最近になってそんな過剰にエビデンスを求められる息苦しい社会に移行した、という気もしないのですが。

 たしかに、インターネット上の失言が多くの人に拡散され批判される、ウェブ炎上という現象は近年目立つようになって来ました。エビデンシャリズムという概念は、そうした事柄をさしてもいるらしい。

さらに、(2)この用語は、日々インターネットのサービスを使用するなかで、そこかしこのサーバーにエビデンスとなりうる痕跡を残してしまう状況、(中略)を指すものでもある。(2)という技術史的に新しい状況が(1)の時代精神に交差することで、際限なく機械的な「あら探し」のゲームが、暇つぶしのマインスイーパーのように可能となっている。

 しかしそのいっぽうで、千葉はまったく別の事柄についてもエビデンシャリズムという概念を適用しています。

企業で、行政で、大学で。社会のいたるところで「責任の明確化」という一見したところ批判しにくい名目の下、根源的に不確かであるしかない判断「に耐える」という苦痛を、厄介払いしようとしている。

おそらく「非定型的」な判断(ケース・バイ・ケースの判断)に伴わざるをえない個人の責任を回避したいからだ。機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除していけば、根源的に不確かに判断するしかない「いい加減な」、それゆえに「不潔な」個人として生きなくて済むようになる。これは、反−判断である。全員がエビデンスの配達人として滞りなくリレーを続けさえすればよい。こうしたエビデンシャリズムの蔓延は一種の責任回避の現象にほかならない。

 このくだりを読むと、今の企業ではどんどんマニュアル化(「機械的、事務的処理を行き渡らせることで、非定型的な判断の機会を限りなく排除」)が進んでいて、ロボットのようにふるまうだけで給料がもらえる状況になってきている、といっているように思えます。えっ、世の中そんな風になってますかね。フリーターならともかく、現在でも正社員ともなればみなさんいろいろな判断を要求されていると思いますけど。むしろ、日本では長い不況のせいで、高度な「ケース・バイ・ケースの判断」の判断を要求される仕事が、しばしばアルバイト待遇になっている気さえします。

 マニュアル化が仮に進んでいるとしても、それは効率化のためであって「個人の責任を回避」するためじゃないでしょう。企業に、各社員の責任をいちいち回避させてあげるインセンティヴなんてありませんから。そもそもマニュアル作った人の責任だって存在しているわけですし。

 もしかりに、企業が慈愛の心から社員の責任を回避させてあげるためにマニュアル作りに必死になっているのだとしても、それがどうウェブ炎上と関連しているのかよくわかりません。どうもこのエビデンシャリズムというのは、ジョージ・リッツァのマクドナルド化する社会論とか、デイヴィッド・ライアンの監視社会論とかの、ちがう問題意識にもとづく議論を適当にまぜこぜにして、むりやり一つの概念に仕立て上げた、混乱した思考の産物に思えます。だから、関係ない事柄がちゃんぽんになっている。

 ぼくもひどい評論ハンターとしていろいろひどい評論を読んできたわけですが、この手の文章を書く人って粘土細工作るみたいな思考回路で評論というものを考えてるんですよね。思考を論理によってつなげようとするのではなく、とにかくぐちゃぐちゃつき混ぜてれば一体になるにちがいない、という信念に導かれている。ちがう色の粘土を混ぜ合わせるみたいな感じ。勉強してもそれをこれまで作った粘土の山に加えるだけなんで、知識あるはずなのにひどいものを書いたりするわけです。ちなみに、粘土はまぜるときにいろいろ変形されるため、内容は元ネタになった議論より必ず劣化するし、論理も崩壊するためしばしばとても読みにくいものになります。

 この手の人は、どうやら混ざっている粘土の種類が多ければ多いほど強い、と錯覚している節もあって、批判されるとすぐ、もっと勉強してくださいとか文脈を読んでくださいと言い出す。見ろ!こんなに多くの粘土を混ぜているんだぞ!このすごさがわからないのは、お前が粘土の種類にくわしくないからだ!というわけ。一般社会には通じない理屈ですが、文壇やアカデミズムには粘土細工愛好家が一定数いて、ほう見事なマーブル模様ですのうと褒め称えたりするので、彼らの自信はますます高まっていくのです。

 千葉も、どうもそういう思考回路にはまっちゃってるんじゃないの?という気がします。もう少し、先を読んで見ましょう。

不明瞭な文体について

 千葉はそもそも、なぜエビデンシャリズムなるものが現代社会ではびこっている、なんて思ったんでしょうか。次はこの点について考えて見ましょう。

 千葉はその不明瞭な文体のせいで不評を浴びたわけですが、興味深いことに、どうもこのアンチ・エビデンス論自体が、そうした文体を擁護してもいるらしい。次の箇所を見てください。

2014年の末、梅田のドン・キホーテでシャンプーか何かを買うついでに香水のコーナーに寄って、カルバン・クラインのck oneを見つけ、久しぶりに特徴を確かめていた。この「シケワン」は1990年代に一世を風靡した香水である。今手に入るそれが、発売当初とまったく同一の成分かはわからない。が、ともかくもそれは、無色半透明の平たいガラス瓶に灰色のロゴを載せているあのシケワンであり、その匂いは、僕が初めて香水というものを意識したときのあの匂いにほかならないと思われた。

 元の論考では「シャンプーか何かを」「今手に入るそれが、発売当初とまったく同一の成分かはわからない」「ほかならないと思われた」といった、わざと曖昧な書き方をされている部分が、太字で強調されています。こうした、曖昧な書き方こそが「アンチ・エビデンス」的なのだ、と言わんばかりですよね。

 千葉は過去に、博士論文で、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズをあつかい、好評を得ました。「アンチ・エビデンス」というタイトルも、ドゥルーズとフェリックス・ガタリの共著「アンチ・オイディプス」を意識したものです。千葉はドゥルーズから多大な影響を受けているんですね。そしてこのドゥルーズがそもそも、千葉と同じく難解で曖昧な文章を書く人でした。ドゥルーズだけでなく、彼を含む、一般に「現代フランス思想」とか「ポストモダニズム」とかいわれるグループの論者たちには、そもそも、千葉のような難解で曖昧な文体を駆使する傾向があります。

 ただし、いまや世界的に、ドゥルーズ的な文体にたいする風当たりはかつてより強くなりました。マンチェスター大学から刊行された、ピーター・バリーによる教科書「文学理論講義 新しいスタンダード」には、現在文学理論界に、次のような変化が生じている、とあります。

第一の大きな変化として、理論は壮大かつ思弁的な主張に対し、かつてよりも不信の念を一時停止するのを好まなくなり、むしろ、経験的な水準で題材に取り組むようになっている。したがって、見出される結論はただ尊大に断言されるのではなく、「具体的な説明」を受ける、あるいは少なくとも細心の注意を払って議論される傾向がある。事実、単なる経験主義に対するフランス風のお馴染みの蔑視は、フランスの料理とファッションは本質的に他に勝ると決めてかかること同様、時代遅れのものと思われる。現在では、文学理論家に対してさえ明晰さが求められている。一九七〇―八〇年代のフランス語圏の理論家に気前よく許されていた詩的に書く自由はもはや効力をもたない(少なくともフランス語圏の外では)。(『文学理論講義』、p353)

 千葉の曖昧な文体は、バリーの言う「詩的に書く自由」を思う存分満喫していますが、そうした書き方は「もはや効力をもたない」とみなされることが多くなってきているわけです。またバリーによれば、現在の文学理論界では「尊大に断言」することも忌避され、「経験的な水準で」「具体的な説明」を要求されるようになった。つまり、明晰さとエビデンスが求められるようになりつつもあります。

 そうすると、千葉のような、ドゥルーズ直系の研究者は、思うように文章が書きにくくなりますよね。ひょっとすると、エビデンスばかり求められて窒息しそうだ!なんて感じたかもしれない。

 千葉はもしかして、思想や文学理論業界の変化を、社会全体の変化だと錯覚しているのではないでしょうか。

ソーカル爆弾の炸裂

 そう考えると、一つつじつまのあうことがあります。千葉が、九〇年代をエビデンシャリズムからいまだ自由な時代だったと称えていることです。

僕の思考は、今もなお、90年代に身体をどう生きたかによって規定されている。僕は、否応なく90年代の亡霊であり続けている。

『動きすぎてはいけない』も『別のしかたで』も、断片と仮固定をめぐる考察である。それは、90年代的ストリートの亡霊を分析的な言葉で鎮めようとする、そうしてかえって古傷を騒めかせる挙措なのだろうか。

 バリーが述べていたように、いまや世界的に「詩的に書く自由」は認められなくなってきたわけですが、じつは、そうした変化を引き起こしたのは、一冊の本でした。二人の物理学者、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンの共著『知の欺瞞』。そしてこの本が刊行されたのは、九七年のことなのです。

 ポストモダニズム流の曖昧文体は、批判から自説を防衛するのにきわめて都合がいいものでした。先述の『文学理論講義』で、バリーは、やはり現代フランス思想に属する哲学者、ジャック・デリダについて、次のように述べています。

当時(山川注:八〇年代半ば)理論の世界では、デリダの言うことが誤解されているとか、文字通りに受けとめられてしまっているとか、ナイーヴなあるいは単純すぎるかたちで理解されている、と主張する傾向が強まっており、こうした文句は彼の支持者たちによって絶えず繰り返されていた。デリダが間違っているというと、それは彼が言ったことではないとか、彼が言わんとしたことではない、という答えが返ってくるのだった。(『文学理論講義』、p342)

 意味がとりずらい曖昧な文章を書き、内容を批判しても、あなたの解釈はまちがっているという答えが返ってくるばかり――こうしたふるまいは、外野からすればうさんくさいですよね。とはいえ、世の中には容易に説明しがたい事柄があるのも事実ではあります。ポストモダニズムの難解さは、必然性のあるものか、それともただのハッタリか。この膠着状況に風穴を開けたのが『知の欺瞞』でした。

 ポストモダニズム系の書物には、科学や数学についての難解な記述を含むものも多かったのですが、ソーカルとブリクモンは『知の欺瞞』で、そうした記述がいかにでたらめに満ちているかを暴露したのです。いくつか例を挙げれば……。

・ジャック・ラカンは、虚数と無理数を混同している。

(追記:この批判に関しては、ソーカルのほうにミスがあったという指摘を仲正昌樹氏からいただきました。ご指摘に感謝します)

・ジュリア・クリステヴァは「ある体系の矛盾を、その体系内で形式化した手段によっては指摘できないことを述べたゲーデルの証明」に言及しているが、ゲーデルはそんな証明はしていない。そもそも、ある公理系が矛盾をはらんでいるなら、それはその公理系内で形式化した手段によって指摘できる。

・ボードリヤールは、ジャック・バンブニストの水の記憶説に好意的に言及しているが、これはホメオパシーを正当化する理論であり、学会ではまともに相手にされていない。

・ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの書物にみられる科学に関する記述は、典型的な粘土細工。場の量子論に関する説明と、過冷却の液体に関する説明と、カオスなる用語が、いっしょくたに混ぜられたりしている。

 ソーカルらがポストモダニズムに与えた打撃は大きいものでした。たとえば先にちらりとカナダの社会学者デイヴィッド・ライアンの名に触れましたが、彼は二〇〇一年の著作『監視社会』で「ポストモダニティー」という概念を提示するさい、次のように述べています。

だが、読者が本書を投げ捨ててしまう前に言っておくと、これ(山川注:ポストモダニティー)は「ポストモダニズム」ではなく、現代における一定の文化的、社会的変動を社会学的に考察する一つの方法である。(『監視社会』、p241)

 なかば冗談ではあるでしょうけれど、二〇〇一年の時点で、英語圏では、ポストモダニズムは、「本を投げ捨て」られかねない程度には信頼を失っていたわけです。

 『知の欺瞞』は、ポストモダニズムを全面的に批判した本ではありません。科学や数学に言及した箇所は、ポストモダニストたちにとって、主張の核心というわけではないし、またデリダのように、科学にさほど言及していない論者は批判の対象外となっています。

 とはいえ、ソーカルらは、ポストモダニズムの難解きわまる論述スタイルには致命傷を与えました。そうした文章の、少なくともある部分は、知ったかぶりに満ちていて、書き手自身もろくに内容を理解できていないことを暴いたのですから。そうしたなかで、例の曖昧文体も、より批判的な視線に晒されるようになりました。

 こうした傾向は九七年から始まり、しだいに強まっていったわけです。ただし、『知の欺瞞』の影響力が日本にまで伝播するには若干のタイムラグもありました。それを踏まえると、〇〇年代以降エビデンシャリズムが強まっていったという千葉の主張と、見事に合致します。

 もちろんこの変化は、社会全体どころか、学問全体に生じたものですらなく、アカデミズムのある一業界で起きたものにすぎません。しかしその業界の一員であり、とくに攻撃の対象となったドゥルーズを研究していた千葉にとっては、巨大な暗雲が世界を覆うように感じられても不思議はないでしょう。

ジェンダーとエビデンスの連想ゲーム

 千葉のアンチ・エビデンス論は、冒頭でエビデンシャリズム批判をした後、九〇年代のストリート文化論へと移行していきます。最後にここもチェックしましょう。

 この箇所の内容は、おおむね「ぼくの青春とともにあった九〇年代ストリート文化はエビデンシャリズムに対抗するものだったけど、今は失われてしまったなあ(喪失感を漂わせつつ)」という感じです。エビデンシャリズムに対抗する九〇年代文化の代表として取り上げられているのは、主に、柑橘系のユニセックス(男女兼用)香水と、ギャル男ファッション。では、なぜその二つがエビデンシャリスムに対抗していることになるのでしょうか。

 柑橘系の香水は男女兼用だから、中性的であり、ゆえにジェンダーが曖昧である、と千葉は述べています。

柑橘系の匂い、あれは、ジェンダーの分割をうやむやにする、生殖的ではなく誘惑的な、フェロモンならざるフェロモンである。

 千葉によれば、同じくギャル男も、ギャルと通じるファッションをしているので、ジェンダーが曖昧です。

(前略)あの「ヤマンバ」の分身としての旧ギャル男の「トランス性」──それは、90年代的なジェンダーの揺らぎを受けての現象と言えるだろう2003年頃の「センターGUY」(極端に焼いた肌に文様状のメイク、ハイブリーチをしてバサバサに立てた長髪、女性ものの服をミックスし、キャラクター・グッズの類をぶらさげる、など)において極まっていた(後略)

 このように、どちらも「曖昧」なので、「明白な」根拠をもとめるエビデンシャリスムに対立する(英語では、『エビデント』は『明白な』という意味)。じつは、エビデンシャリズムとギャル男文化や柑橘系香水が対立しているとする根拠は、これしかありません。疑う人もいるでしょうから、ジェンダーとエビデンシャリズムが関連させて語られている箇所を、じっさいに検証してみましょう。

 そうした箇所は、論考全体で二つしかありません。それ以外の箇所はすべて、二つのテーマのどちらかしか論じられていないのです。ギャル男文化とジェンダーの揺らぎについて語っている箇所はエビデンシャリズムとは関係ないし、、エビデンシャリズムにいまだ侵されていない九〇年代ストリートやインターネットについて語っている箇所はジェンダーと関係ない、という具合に。

 そして注目すべきことに、この二つの箇所は、論考中でも突出して読みづらい。これも、千葉が粘土細工的な思考回路の人なのではないか、という疑惑を強めます。粘土細工で思考する人は、議論が上手くつながらなくても、もしかしてこの二つは関係ないのでは?という疑念に駆られることは決してありません。もっと混ぜ合わせるか、ぐちゃぐちゃ、とやるだけ。そのため、そうした箇所は、ときに猛烈に難解なものとなってしまうのです。

 まずは、千葉が九〇年代文化論を語り始めてからすぐに登場する、次の箇所をみてみましょう。

柑橘系の香水、ユニセックス香水としての。ジェンダー・セクシュアリティの不確実さ、身体の在りか、身体性......等々は、90年代末の人文学が好んで語ったテーマである。身体の自明性が揺らぎ、身体「性」という抽象概念の解釈で溢れかえっていた。身体のアンチ・エビデンスが時代の問いであった。そう思い出される。揺らぐ。自信なくトランスする。後ろめたく。薄暗く。

 ジェンダーの不確実さと、アンチ・エビデンスなる単語が、一つの段落であたかもかかわりがあるものであるかのように語られていますが、よく読むとどういう関係にあるのか、いまいちわかりません。じつは、段落の前半ではエビデンシャリズムの話など全くしておらず、後半で唐突に「身体のアンチ・エビデンスが時代の問いであった」という一文が出てくるだけなのです。しかし、これはどういう意味なんでしょうね。身体と証拠や論拠に何の関係が?

 この一文を考えるにあたって、興味深い事実があります。すでに触れたように、千葉のアンチ・エビデンス論は発表後数日してネットでの批判に晒されましたが、その件について、千葉はツイッターで次のように述べました。

ところで、あの文章は、メインタイトルは「アンチ・エビデンス」だけど、第1節で概念として定義して提出しているのは「エビデンシャリズム」であり、「エビデンシャリズム批判」です。メインタイトルがそのまま文字通りに概念なのではない。読めばわかることです。文献の基本的な読みです。

https://mobile.twitter.com/masayachiba/status/590134791111999488

あのテクストは、エビデンスなんて要らない!なんていう単純な意味でアンチ・エビデンスと題したのではない。実質的には「形骸的なエビデンシャリズム」批判です。しかし、アンチ・エビデンスという挑発的にすぎる言い方にもそれはそれで役割をもたせているのですね。

https://mobile.twitter.com/masayachiba/status/590135943631241219

 つまり千葉は、自分は形骸的なエビデンシャリズム批判をしただけだ、あえてアンチ・エビデンスという挑発的なタイトルをつけたけれども、エビデンスがいらないと主張しているわけではないし、アンチ・エビデンス=エビデンシャリズム批判でもない!と主張しているわけです。

 しかし、なら「身体のアンチ・エビデンスが時代の問いであった」という一文はどうなっちゃうんでしょう。千葉自身が述べているようにアンチ・エビデンスはエビデンシャリズム批判ともちがう、そもそもそんな概念は提示してない、というなら、解釈不能と考えざるを得ません。この引用部ではジェンダーの揺らぎの話をしているなかに、唐突に「身体のアンチ・エビデンス」というフレーズを挿入して、二つのテーマに関わりがあるように見せかけているだけ、ということになってしまいます。

もう一つの箇所は、論考全体の結末部です。

今、90年代的ストリートの形象を思い出すこと、それは、激烈なグローバル化に合わせエビデントに身を固める手前で揺らいでいた身体・資料体(コルプス)の、不安のマゾヒズムを喚起することにほかならない。そしてそのことは、一時代の確認というよりも、不安のマゾヒズムの再起動でなければならず、ゆえに、落ち着き払ってエビデントになされるのであれば本質を毀損されるタスクなのであり、気配として匂いとして、霧散の途上にあるものを記述するという無理に苦しむレトリックによって語るしかないのだ。分身から分身へと移ろう不安のマゾヒズムを再起動させること。すなわち、あらゆることがあらゆるところに確実に届きかねない過剰な共有性の、接続過剰のただなかで、エビデンスと秘密の間を揺らぐ身体=資料体を、その無数の揺らぎの可能性を、ひとつひとつ別々の閉域としてすばやく噴射する。柑橘系の匂いで。

 ここでは三箇所に「エビデント」「エビデンス」といった、エビデンシャリズムを思わせる単語が登場します。しかしよく読むと、最初の二つは「明白な」に近いニュアンスで使われていて、エビデンシャリズムとはほとんど関係ありません。

 たとえば「激烈なグローバル化に合わせエビデントに身を固める手前で揺らいでいた身体・資料体(コルプス)」という記述をみてみましょう。少し前にある「グローバルに共通のわかりやすい男性イメージ」という記述からして、千葉の文脈では、グローバル化はジェンダーを「明白に」固定しようとするものであるらしい。それを踏まえて解釈するに、ここでの「エビデント」は、たんに「明白な」という意味でしか使われていません。「落ち着き払ってエビデントになされるのであれば本質を毀損されるタスク」の「エビデントに」も「はっきりと」程度の意味でしょう。

ようするに、ジェンダーがらみの記述で「エビデント」という語を使うことにより、ジェンダーとエビデンシャリズムが関係あるかのような外観を作り上げているだけ。しょせんは粘土細工どまりです。

 最後の「接続過剰のただなかで、エビデンスと秘密の間を揺らぐ身体=資料体を、その無数の揺らぎの可能性を、ひとつひとつ別々の閉域としてすばやく噴射する。柑橘系の匂いで。」は、率直に言ってぼくにはほとんど意味が取れません。おそらく全人類にとってそうなのではないかという気がします。まあ、仮になにか意味があるとしても、この一文が奇跡のごとく例の二つのテーマを関連させている、ということもないでしょう。 

 千葉はなぜ、ジェンダーとエビデンシャリズムを結び付けて論じようと思ったのでしょうか。おそらく、千葉がギャル男でポストモダニストだから、という以上の理由はありません。ギャル男だからギャル男ファッションはよいなと思うし、ポストモダニストだから言論に明晰さやエビデンスを求められる風潮はうっとおしい。千葉のアンチ・エビデンス論は、すべてがそうした、彼の実感を正当化するためだけに組み立てられています。

 そしてここにこそ、論考に明晰さとエビデンスが求められる、最大の理由があるのです。エビデンスを求めようとしなければ、人の思考は個人的な実感のまわりをくるくると回るだけですし、明晰さが求められないなら、言葉をつき混ぜて一貫性があるかに錯覚させるような議論がいくらでも可能になってしまいますから。

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