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私には「ままならないもの」が必要だった

こんにちは。連休なので猫の話をします。

今、私の家には推定年齢3〜8歳という、謎多き雌猫の「このは」がいる。茶色いから「木の葉」なのかな。ボランティアさんがつけた名前なので、由来は不明。

ややこしいのだけど、このはは私の飼い猫じゃない。

大人になってから路上で保護されて、最近までシェルターにいた猫で、私は「預りさん」と呼ばれる、保護猫に里親が見つかるまで、家猫として慣れさせる役割。

そう説明すると聞こえはいいけれど、こうなった背景にはかなり利己的な理由がある。

1、そもそも生き物がだいすき。でも、懐いてくれないと寂しい。
2、普段そんなに家にいない私でも大丈夫ないきものがいい。
3、そう考えると猫なんじゃ?でもずっと飼える自信がない。

要素はこれで、だったら我慢すればよかったのだけど、考えれば考えるほどに、私はどうしても「ままならないもの」の存在がほしくなってしまった。

20代も後半になり、好きな仕事に就けて、家族にも友だちにも恵まれ、意の赴くままに一人暮らしして、なんなら古い戸建てなんかに住んじゃって、誰かに咎められるわけでもなく、生活もたのしい。

でも、これにはひとつの裏テーマがあって。

いつかもっと大人になって、例えば誰かと結婚をして、子どもができたとき、「お母さんには実はこんな時期があってね」と懐かしむようにおちゃめに話せるひとになりたいなと思っていて。

つまり「こんな時期」が、私にとっては20代後半の「今の、この暮らしのこと」なのだ。

目の前のあれこれに満足し、これからも納得して生きていくためには、みずから望んで好き勝手生きていた経験が(私の性格では特に)必須だと思っている。

ずっと考えては怖がっていた、「幸せであることが当たり前」な日々。

別にもともと幸せだったじゃんと言われたらほんとにその通りではあるんだけど、誰かが言った「幸せとは、自分で人生をコントロールできている感覚のこと」という説が一理あるとすれば、それはまさしく今のことなんだと思っている。

そして、2020年になった今年の1月に、改めて「今ってある意味では無敵だな」と思った。

ただし注意しなきゃいけないのが、「無敵」というのは「最強」とはちょっとちがうってこと。

もともと「敵」という概念を作らないことが信条ではあるのだけど、それって多分、今の私には守るべきものがないから大手を振って言えるんだとも思う。

大切な人がいるわけじゃないし、誰かのために生きる必要もないからだ。

これは自分で作った状況だから、望ましいかたちでもある。

でも。

ときどき、このままではふわっと遠くに飛んでいってしまいそうな、まるで夢の中にいるような気持ちになることがある。
間違いなく今ここに生きているのに、自分でも自分を捕まえられなくなってしまうような感覚。

そのせいか、たまに「貴方のことは本当にわからない、不思議だ」などと言われることも。

誰もが、誰かを分かるなんて本質的にはありえないと思いつつ、そんな風に人から言われる感じは自分でもなんとなく納得できていたりする。


猫の話から随分遠のいてしまった。

つまり、そういうわけで私は「ままならないもの」の存在によって、愛すべき小さな不自由がほしかったのだ。

だって、同世代の友人たちには、今まさに子育ての真っ最中で、日々予測できない動きをする愛しい我が子と過ごしている人もいる。

先のことはわからないにせよ、もしもこの先、自分にもそんな暮らしが訪れるのなら、今の私のままじゃきっとものすごく動揺すると、ふと思った。

何より、守りたいものの存在に対して「足かせができてしまった」という感情を作り出してしまう気がして、怖くなった。だってそれは自分で選んだ幸せなのに。

だから私は、猫に教えてもらいたかった。

自分で「猫と暮らす」と決めたことに対して、毎日感じるであろう愛情の中に混じって、たまに感じるであろう不自由さを与えてもらい、その存在のありがたさに慣れたかった。それがちょっとした生きる意味につながる気もした。

友だちに話したら、案の定「変わった理由だね」と笑われた。私もそう思う。

とまあ、こんな理由から訪れた保護猫のシェルターで、わたしはこのはに出逢った。

ボランティアのおばさんは「どんな子がいいですか?」と聞いてくれたけれど、そもそも猫と暮らしたことがないから何もわからない。
それを伝えたうえで「じゃあ、預かって欲しいのはこのはちゃんかな」と、保護猫たちが何匹も暮らす小部屋で、ひときわ静かな猫を紹介された。

「この子は、ここみたいに大勢の猫がいる場所じゃないほうがいいんです」

このはのことをちょっと触りながら、ボランティアさんが続ける。

「この子、心の病なんじゃないかなって」

猫に心の病があることにも驚いたけど、それを初心者の私に託すってことにも驚いた。そして、もう一つ驚いたのが、このはが上手に声を出せなかったこと。

あまりにも、自分とリンクするタイミングだったから。

話はまた脱線するのだけど、そのときの私は理不尽さを感じると「はい」とピュアな返事ができない自分の幼稚さに嫌気がさしていた。
大人になるって、誤魔化すことなんですか?と憤っていた時期だった。そうなると、何故かお腹の底から声が出なくて、相手に聞き取ってもらえないことが多かった。(今思い返すと笑っちゃう)

だから「世の中がつまんなくなっちゃったんだよね」と語りかけながら、このはをなでるボランティアさんの言葉が異様なほど心に刺さって、なんだか運命のようなものを感じてしまったのだ。


このはには、一度決まった里親さんに捨てられてしまった過去がある。

一時的な体調不良を不快に感じた里親さんが、動物病院にこのはを置き去りにしたことで、またシェルターに戻ってきてしまったそうだ。こんなことは異例らしい。

「薄皮を剥ぐように、気長に心を開いてあげてください」

正直、シェルターに来る前までは「とりあえず見学」くらいに思っていたのだけど、このはとの出逢いによって、預かることが一気に現実的になった。

シェルターではゲージから一度も出てこなかったこのはは、今、こうしてPCを叩いている私の目の前でまるくなっている。

最近では目を見て「みゃー」と鳴くようになった。
想像よりもはるかに可愛らしい声でびっくりした。

このはのことをお世話しているのはまぁ事実だし、のびのび暮らせる空間を提供しているのも事実だけど、私はわたしで、ささやかに「守るべきままならないもの」の存在を得ることができた。だからWin-Winな関係の私たちだ。

いつか、このはに里親が見つかったら、寂しくて泣いちゃうのかな。それはちょっと本末転倒だ。

「預かりさん」が「里親」になることも可能とは言われたけど、それはどうにかして、このは自身が選べるような方法を見つけてから考えたいなと思ってる。

なにはともあれ、今日もかわいい救世主と、私は暮らしています。

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