砕き染み渡るもの。


 続けてもう一つだけ。当時「未完」としているが、1段落目で書かれていることがそれなりに自分の感覚を表していると思ったので。

 お題:シンプルな感覚。制限時間15分。文字数652文字。



* * * * *



 あの日の、もう顔も思い出せないようなあの女の一言が、再浮上してきて、吐きそうになる。気持ちが悪い。あの女でなくてもいい。あの男、あの子供、あの本、あの番組の、あの本当に何気ない一言が、発せられたその瞬間に私を貫き、痕跡を残して消えていく。そうした線状の痕跡の複雑な絡まり合いに、ふとした瞬間、黒い液体が染み渡って、私のなかに複雑な、解読不可能な感情が呼び起こされる。簡潔にいえば、それはヒビだ。私はガラスのように砕けている。他方、それは模様だ。私であるということは、この他者の痕跡の複雑な絡まり合いによって現れるものである。私はもう、自分を解読しようとは思わない。しかし、私が私を解読しようとしまいと、私は吐き気に悩まされる。
 あらゆる声が、ふとした瞬間に、私のなかに流れ込み、連鎖的にさまざまな感情が呼び起こされていく。やがて、自分のなかから、私の模様が語りかける。矮小な自分、どうしようもない自分を責める声が、私の内から生まれ、私の模様を書き換えていく。より複雑で、よりシンプルに。
 私は、その声にしたがって、紙に自分の模様を書き写してみることにした。この感情を、そのままの形で。書き写していく。ただただ、私の声にしたがって。ただ、書いていく。
 そうして出来た〈私〉は、やはりただの矮小な黒いゴチャゴチャでしかなく、当然人に見せられるようなものでもなくて、けっきょく、それは私にしか見られず理解されないもので、
 書き写すことの無意味さを知ったとき、私は紙をくしゃくしゃに丸めて、投げ捨てた。

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