女児向けアニメで描かれる「他者の理解できなさ」について。あるいは、女児向けアニメは家族の問題とどのように向き合ってきたか。-『プリティーリズム』『プリパラ』を一例にして


 いつか書こうと思い続けて、もうだいぶ経ってしまった。網羅的なものをちゃんと書こうとすればするほど書けなくなってしまうので、あまり気負わずに思いついたエピソードだけを取り上げて書いていくことにしたい。

 なお、プリティーリズムシリーズとプリパラシリーズの一般向け紹介記事は別に書いた。

 https://note.mu/siteki_meigen/n/na0091c954211?magazine_key=mc6e522566bda

 だから、この記事では少し踏み込んだことを書いていくことにする。当然ネタバレを含むことになるが、しかし私はこの記事を『プリティーリズム』を見たことのない人にこそ読んでほしいと思っている。この記事で『プリティーリズム』に興味をもってくれたら嬉しいし、そうでなくてもこの記事は例えば「女児アニメが『毒親』といったものとどのように向き合ってきたか」についての一つの分析になっているからだ。だから、『プリティーリズム』を見たことのない人にも通じるように、なるべくエピソードの流れをちゃんと書いていくことにしたい。


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「私」と「私」は 世界と関わる
「君」は「君」を 連れて生きていく
      −プリティーリズム・レインボーライブ挿入歌『Alive』より


 『プリティーリズム』『プリパラ』シリーズは、ある一つの厳しいイメージによって貫かれている。「私はあなたとは一つになれない」というイメージ、もう少し現実的な表現をするならば「あなたは私のことをそう簡単に理解できない」というイメージだ。ここから話を始めることにしよう。



◯「理解すること」を許さない、という厳しさ。


 シリーズ一作目である『プリティーリズム・オーロラドリーム』から例を引こう。主人公の春音あいらは、優しい父母の元で育てられ、基本的に何不自由なく育ってきた。それにたいして、親友である天宮りずむは、幼いころに母に捨てられ、以降自分が伝説のジャンプ「オーロラライジング」を公式の大会で飛べば、きっと自分の姿を見た母が帰ってくるだろうという希望に執着している (プリティーリズムは、プリズムショーと呼ばれるアイスショーのようなものをめぐるストーリーであり、そこではブレードのついた靴を用いたジャンプが大会の勝敗を左右している)。

 しかし、母を想い焦るりずむを尻目に、何一つ不自由のないあいらは次々とジャンプを成功させ大会で優勝していく (あいらはある種の天才なのだろう)。次第にりずむは「どうして私だけが…」「私が今までやってきたことは何だったのか…」という不満を心の奥底に溜めていくのだった。

 そんなある日、自分を捨てたはずの母が「新しい娘」を連れて、プリズムショー大会に現れる。自分よりも上手くジャンプのできる天才少女かなめが、自分を捨てた自分の母親を「マーマ」と呼ぶ姿を見て、りずむの心は限界に達する。



 「自分は捨てられたのではないか」という気持ちが、「なんとしてでもオーロラライジングを飛んでお母さんに認めてもらわないと」という気持ちへとすり替わるなか、「自分よりもオーロラライジングに近いかなめ」への憎悪が、「何も苦労せずに自分の先をいく親友あいら」への憎悪へとすり替わっていく。このどうしようもなさのなかで、あいらとりずむは直接戦うことになる。



 結局、憎しみに身を任せてジャンプを飛んだリズムの心は、そのまま闇へと取り込まれそうになってしまう。そこで「本当のりずむを探すんだ」と言われたあいらは、りずむの心の闇のなかを突き進んでいくことになるのであった…。(*注:なんか突然エヴァっぽくなっているけれど、スケートの話よ。)

 ここからが大切だ。あいらに対する憎しみをぶつけてくるりずむを、「これは本当のりずむちゃんじゃない」と切り捨てていくあいら。やがて彼女は、闇を抜け暖かな光に満ちた空間へとたどり着く。そこにはあいらに対して柔らかに笑いかける「親友としてのりずむ」がいた。あいらはその「本当のりずむ」の手をつかんで、救い出そうとする。

 ここであいらが手をつかみ、そのままハッピーエンドになったとしたら? かなめの登場によって一時的に闇に覆われたりずむの心が、親友あいらによって救われる。いつもの「明るくて前向きな」りずむが帰ってくる。よくあるお友達ストーリーの一つになるだろう。しかし、プリティーリズムはそれを良しとしない。

 あいらがりずむの手をつかもうとした瞬間、りずむの姿は消えてしまう。あいらが「本当のりずむ」だと思った存在は、ただのニセモノ。あくまで、「あいらがホンモノであってほしいと望むりずむの姿」でしかなかったのである。

 再び闇のなかを進むあいら。闇を突き進んで行った先には「子どもの姿のりずむ」が泣いていた。彼女は、外の世界を恐れて、たった一人で孤独に泣いていたのだ。親友であるあいらにも隠し続けていた弱い姿のりずむ、「捨てられた子ども」としてのりずむがそこにはあった。



 外の世界への恐れを取り除いてあげようと、必死に話かけるあいら。しかし、彼女はここでも失敗を犯す。りずむの前で、「自分の母親を奪った」「自分よりも才能のある」かなめの名前を出してしまうのだ。ようやく見つけた心の最も奥にいる本当のりずむに、あいらができたのは追い打ちをかけることだけであった。りずむは重油のようなドロドロした闇へと飲み込まれていく。


 このエピソードで執拗に描かれるのは、あいらがりずむのことを、どこまでも徹底して「理解することができない」という現実である。主人公として才能に恵まれ、家庭にも恵まれてきたあいらは、「自分に才能がないゆえに家庭を失った」と思い込んでいるりずむの心を、最後まで理解することができない。最後まで、自分が「こうあってほしい」と望むりずむの姿を探すことしかできないのである。残酷なようだが、寂しさや孤独を感じたことのない人間は、他者の孤独を想像することができないのだ。

 まず、こうした場面を真摯に描くことに、このアニメのスゴさがある。わたしたちは、他人の孤独や寂しさをそう簡単に理解することはできないし、それを救うことなどできない。他人は他人であって、いくら心のなかへと踏み込んでみたところで、理解できない空間が広がっているだけだ。こうした厳しいイメージを女児向けアニメで貫いたこと。ここに『プリティーリズム』シリーズの意義があると、ひとまずは言うことが出来る。

 冒頭で掲げた歌詞を、改めて見てみよう。

「私」と「私」は世界と関わる 「君」は「君」を連れて生きていく
      −プリティーリズム・レインボーライブ挿入歌『Alive』より


 「私」は、他の誰でもない「私」として世界と関わっている。たとえそこに二人の人間がいたとしても、それぞれが「私」なのであって、一つになれるわけではない。理解しあえるわけでもない。「君」は、ほかの誰でもない「君」を連れて生きていかないといけない。この、どこまでも孤独な「個」としてのイメージ。これが作品を貫く人間像となっているのだ。

(ちなみに、ほぼ同じテーマは『少女革命ウテナ』などでも扱われている。「若葉繁れる」というエピソードで、結局主人公ウテナは、最後まで親友の気持ちを理解することができないまま、自己完結して終わる。)


 『プリティーリズム』シリーズが終わって『プリパラ』に切り替わってからも、こうした「他者の理解出来なさ」を描くという特徴は失われていない。主人公チームの一人であるみれぃは、同じチームのそふぃのことをおそらく最後まで理解することができない。「才能がないから努力をしてきた」と自負をするみれぃは、「全く努力をしないで才能だけで生きてきた」であろうそふぃのことを理解することができないし、信じることができないのだ。こうした透明な壁が時折二人の間に現れて、不気味な距離感を演出してきた。また、才能に恵まれたそふぃも、アイドルを辞めていった女の子の気持ちから生まれた存在である「ガァルル」のことを理解することができない。生まれながらにして上手く歌って踊れたそふぃは、どれだけ練習しても足をもつれさせ上手に歌うことのできないガァルルに対して、「私は踊れたわ」としか言うことができないのだ。



 こうした、物悲しいすれ違いを突如思い出したかのように挿入し、普段から一緒にいる「友達」が、実は理解出来なさを有した「他者」であるということを浮かび上がらせる。その油断ならない厳しさが、『プリティーリズム』『プリパラ』シリーズの見どころの一つとなっている。


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◯「親」という他者について

 

 しかし、「理解できない他者」として人を描くことに、一体どのような意味があるのだろうか? ここでは家族についてのエピソードを取り上げながら、そのことの意義について考えていきたい。

 りずむのエピソードからもわかるように、「家族」、とくに「子ども」と「親」について真摯に考えてきたこともまた『プリティーリズム』シリーズの特徴であった。そして、そうした家族についてのエピソードにこそ、他人が「理解できない他者であるということ」の優れた側面が描き出されているように思えるのだ。それには、「家族」というものが「相手のことを理解できる」という勘違いを引き起こしやすい関係性であり、それゆえに病的な関係へと発展しやすいことが関係しているのだろう。

 りずむがそうであったように、「親から捨てられるかもしれない」ということは大抵の子どもにとって恐怖である。そして、「捨てられないために、親が望む完璧な子どもを演じよう」とすることもまた、一つの生存戦略としてよく取られるものであろう。そうして、「子」は「親」と一つの存在であるかのようにふるまい、「親」は「子」をたやすく理解できる存在であると思いこんでしまうことになる。そのような関係の危険性について、本節では『プリティーリズム・レインボーライブ』から蓮城寺べると森園わかなのエピソードを参照しつつ論じてみることにしよう。


 主人公のライバルである蓮城寺べるは、「完璧」な女の子だ。常に完璧をめざし、「100点じゃなければ意味がない」と泣く。だから未来のプリズムショー界を担うことが期待されている彼女のショーは「華やかだが、どこか淋しく息苦しい」。

 それに対して、主人公たちのチームはプリズムライブと呼ばれる新たな技によってプリズムショーに新しい自由な風を吹かせ始める (プリズムライブとは、どこからか楽器を呼び出しショーの最中に演奏してしまうという、よくわからないけれど派手でノリノリな演出のことだ)。やがて大会ルールの改変に伴い、この新技プリズムライブが大会得点に加算されることが発表される。すると当然のことながら「100点をめざす」べるにもプリズムライブを飛ぶことへの期待が高まっていくことになってしまう……。彼女は完璧なのだから、当然これもできるはずだ、と。

 べるには、突然現れた主人公チームが「なぜプリズムライブをできるのか」が理解できない。理解できないまま、彼女は自分が完璧なプリズムジャンプを飛ばなければならないというプレッシャーに押しつぶされていく。「トップになれなければ母に愛してもらえない」という脅迫観念に襲われ心を傷つけていくなか、ついにプリズムライブ発表会の日が来てしまうのだった。



 「ひとりぼっちの女王」というタイトルがつけられたこのエピソードは、何度見ても悲痛で辛くなる。本番前になってもプリズムジャンプを跳ぶことのできないべるは、控室で花瓶を叩き割りクッションを毟り始めるなど、大いに荒れる。そして、ここから先はもう実際に見てもらったほうが良いと思うので詳しく書かないが、べるは失敗し、母にステージから降ろされる。

 りずむもべるも、「親から愛される子でなければいけない」という気持ちに縛られ続けている。そして、親から求められる子どもでなければならないと思い、そのことで苦しみ続けている。結局、べるのことを救ったのは、同じチームのメンバーであるおとはとわかなであった。たとえ母親が愛する自分になれなかったとしても、自分は彼女たちから愛されている。そのことに気がついたとき、べるは自分の母に「私はママの操り人形じゃない」と言い放ち、自分の道を歩き出す。

 親と子の関係について論じることは難しいが、一つ言えることは、子どもにとって親は絶対のものになりえてしまうこと、だからこそ親は「自分の子」は「自分」とは別の存在なのだということを常に忘れないようにしないといけないということだ。それを忘れた途端に、親子の関係は「支配」と「依存」の関係にはまりこんでいくことになる。その「支配」は、愛がない故に生まれるものではない。愛の延長上に生まれるものだからこそ、厄介なのだ。べるは、母からの愛を求め続ける以上、母の「支配」から逃れることはできない。母の方も、「娘を愛している」からこそ「完璧でいてほしい」と思い、それを求め続けることから抜け出せない。結局べるが「私は人間である」と宣言することでしか、この関係を変えていくことはできなかったのである。

 ただ、一つ勘違いしてはいけないのが、この作品は、例えば「親=悪」とし、それに子どもを対置するような形でこうした問題を解決させていくようなものではないということである。支配者としての母の下から抜け出して、子どもが自由になり、それでハッピーエンド……というふうには描いていない。この作品はもう少し真摯に現実的な関係性を描き出しているし、その点にこそこの作品の良さがあると私は思っている。そのことを確認するために、べるの母についてのエピソードを見てみよう。

 べるの母は、なぜべるに対してそこまで執拗に完璧さを求めていたのか。それには、海外に単身赴任している父の存在が絡んでいた。べる母は、娘を完璧に育てなければ「自分の教育が失敗だった」「自分が母親として失敗だった」と思われてしまうようで、それが怖かったのだ。夫がなかなか家庭にいないからこそ、自分一人で完璧に子どもを育てないといけない。そして、だからこそ娘に多くのものを求めてしまう。このべる母の気持ちも、容易に共感できるものであろう。べるが母から愛されたくて完璧であろうとしたように、べる母もまた夫から失望されたくなくて、完璧でなくてはいけないと思い、次第に追い詰められていったのだ。



 ただし、ここにはやはり次のような歪みがある。母にとっては、「べるが他人から褒められる」ことが「自分の教育の正しさ」を保障することになり、「自分が褒められる」ことへとつながってしまっている。それゆえに、「べる」と「自分」がまるで同一の存在であるかのように感じられてしまうことになる。そして、だからこそ母の期待は、べるを「操り人形」のような存在にしてしまうのだ (R.D.レインなども想起しておこう)。

 くり返しになるが、この母に必要なのは、「自分」と「自分の子」は別の存在なのだということを認識することである。結局、そのためには、自分は「聖なる母」なのではなく、「誰かからの愛を求めている、一人の不完全な人間である」ということに気がつく (作品のなかでそう描き、視聴者にそれを気づかせる) 必要があったのだろう。「母であること」から少しでも逃れる必要があった、ともいえる。

 娘が母に対して「私は人間だ」と宣言し、母もまた自分が娘と同様に愛を求めてきた「一人の不完全な人間だ」ということに気がつく。こうしてみて初めて、この親子はそれぞれが自分にとって「他者」であるということ、そして自分は「(母や娘ではなく) 自分」であるということに気がつき、適切な距離を取り戻すことができる。そうすることで、自分たちの間に「支配」ではない形での「愛」を取り戻すことができる……。ここで描かれているのは、「親」も「子」も一人の他者であり、他者であるからこそ上手く共に過ごすことが出来るということであった。これが親子の関係の現実的なあり方の一つなのであろう。

 

 さて、もう一つの例として、森園わかなの家庭を見ていこう。彼女の家は転勤族である父親に振り回されている。父と共に引っ越しを繰り返すわかなは、他人の記憶に残ることすら諦め、写真すら残さないようになってしまった (それゆえに、自分のことを忘れていながら、友達は大事だと屈託なく行ってのける主人公チームの福原あんを憎んでいる)。そして、だからこそ彼女にとって、これまでの数年間で育んできたべるたちチームメンバーとの絆はかけがえのないものであった。

 しかし、父のシンガポールへの転勤が決まったことで、その絆もまた危機にさらされることになる。

 一人の子どもに、「父親についていかない」という選択をすることができるのだろうか。父親はわかなや妻に対して「家族はいつも一緒じゃないといけない」と繰り返す。そう言い聞かせられてきたわかなにとって、父親についていかないという選択は、おそらく「家族を捨てる」ということを意味するものになってしまっていたはずだ。だから、彼女は家族のことを思えば思うほどに、他人の記憶に残ることを諦め、自分の存在を捨てなければならなくなってしまう。



 また、わかなはダメな父親を見ながら、「お父さん、一人じゃなにもできない人なんだ」とつぶやく。自分がいなければ何もできないからこそ、私はお父さんについていかなければならないと。この家族の場合は、「ダメな父」を筆頭にしながら、その「ダメな父」を支えるために「家族は一つにならないといけない」と思い込んでいる。収入をもたらす父を補助することで、妻と娘が父の一部分であるかのようになってしまう。だから、父の意志に反して何かをするときは、たとえそれが「娘の最後のプリズムショーを見てください」とお願いする程度のことであったとしても、母は土下座をしてまで頼み込むことになってしまう。そんな些細な願いすら大事になってしまうほどに、これまでこの家族は「一つ」だったのだ。

 そして、だからこそこの家族に与えられたラストは痛快だ。娘に全く関心を持たない父にキレた母は、父にビンタをかまし、「もうあなたの稼ぎなんかあてにしません!私も明日から働きます!これからは自分のことは自分でやる!」と言ってみせる。



 こうして、父の収入に依存させられていたこの家族は「自分のことは自分でやる」という言葉の元でバラバラになり、バラバラになって初めて適切な距離をとることができた。「家族は一つ」ではなくても良いし、むしろ一つではないほうが良いのかもしれない。


 普段女児アニメを見ない人にとって、以上のような家族の描き方はやや新鮮なものに映るだろう。「家族は一つだ」と言われてそれに反感を持つ人は少ないし、ましてや子どもに「家族は一つじゃなくても良い」ということを教える大人はそう多くはいないからだ。しかし、実際には、家族とは一人の他者であり、一つではない。一つであろうとすると、べるやわかなのエピソードのような歪みに直面することになる。他者として、共に生きること。それこそが求められる関係なのだ。「人間」というものに真摯に向かい合って、その生き方を描こうとすればするほど、我々は陳腐な「家族物語」を捨ててこうした現実と向き合わなくてはならなくなるだろう。メインの視聴者である子どもに徹底的に向き合った『プリティーリズム』シリーズは、こうした現実から目を反らさずにそれと向き合い、そして描ききった。この点でこのアニメは、とくに家族との関係において苦しむ子どもにとって、途方もない価値を持つものになっているといえよう。この点はいくら強調してもしすぎるということはない。


(*この節で取り上げたような「家族」に関するあれこれを、プリキュアもまた似たような形で主題としてくり返し扱ってきた。それについては「『家族を選ぶことができる』ということ」という記事でまとめた。)


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◯ 理解できなくても (できないからこそ) 共にいられるということ


 ここまでの話をまとめておこう。最初の節では、自分以外の人は「理解できない他者」であるということを確認した。そして、次の節では家族についてのエピソードを取り上げながら、「理解できない他者」であることを認識することでかえって適切な関係を保つことができるということを指摘した。そのうえで最後となるこの節では、「理解できなくても (できないからこそ) 共にいられるということ」について語っていきたい。

 わたしたちは、ともすれば「本当の相手」を見つけたいと願ってしまい、あるいは自分こそがそれを見つけて相手を救うことが出来ると思ってしまう。自分の子どもを自分の一部であるかのように勘違いしてしまい、また自分がいなければ親は成り立たないと勘違いしてしまう。決して「一つ」にはなれないからこそ、「一つ」であった方が良いというメッセージがあらゆるところで伝えられ、実際に「一つ」であろうとして病的な関係にはまりこんでしまったりする……。

 だからこそ、「理解できなくても (できないからこそ) 共にいられる」という至極当たり前のことを、再確認しておく必要があると思うのだ。実現できない理想を求めて病的な関係に陥るのではなく、いまここにあるどうしようもない当たり前の現実を描き、そこから答えを導き出していく。そうすることが求められているのだろうし、それゆえに、女児向けのアニメという、「理想」を「現実」として描いてしまいがちな (家族のなかで苦しむ子どもたちを傷つけてしまう道具になってしまう危険性を有した) もののなかで、そこから距離をとって「人間」を見つめた『プリティーリズム』シリーズは一層輝かしいものだと感じられるのだろう。

 こうしたことを確認するために、我々は再び天宮りずむのエピソードへと戻っていくことにしよう。あいらは結局りずむのことを最後まで理解することができず、「救ってあげる」なんてこともできなかった。では、りずむを闇から救い出したものは何だったのか。『プリティーリズム』シリーズは、この問題にどのような決着を与えたのか。


 

 結局、りずむのことを救ったのは同じチームメイトである高峰みおんであった。突然現れたみおんが、りずむとあいらの手を取り、すくい上げ、もとの世界へと戻す。この、突如訪れる救済、ご都合主義とも取れる展開を、一体どのように受け取れば良いのだろう? みおんの存在は、どのような形でりずむにとっての救済になりえたのだろうか。

 みおんがしたことは、「相手を理解しようとする」ことではなかった。むしろ、「相手を理解しよう」として心の奥底へ踏み込んでいく春音あいらに反して、みおんはその泥沼の状態から二人を引きあげようとする。ここに我々は意味を見出すことにしよう。あいらとりずむの二者関係、<理解しようとする者 / 理解できぬ他者>という関係は、他者というものが理解できぬ逃げ水のようなものである以上、必然的に行き詰まることになる。すでに確認したように、あいらは相手を理解しようとすることで逆に自分が信じる「本当のりずむ」を押し付けようとし、その結果としてりずむを壊していってしまうのであった。(やはりここでもレインを想起したくなるのだが) 他者を理解しようとすることは、ときに他者を呑み込み、他者の存在を壊すことへとつながってしまったりする。だから、このような関係のなかに救済はない。

 それに対してみおんが行ったのは、二者関係を「チームメイト」という三者の関係へと変えること。そうしたなかで、三人の関係を「理解できないけれど、それでもチームとして手を伸ばす」という関係性へと帰着させることであった。こうして距離をとってみて初めて、りずむは自分の胸のうちを吐露しはじめ、三人はまたチームとして、それぞれ別の道を歩んでいくことができるようになる。そう、「一つ」になるのではなく、チームであり同じ場所を目指しながら、しかしそれぞれに異なる感情を抱いて、三者三様でそれぞれのステージに上がっていくのである。

 これについては作品を見てもらうほかないと思うので多くは語らないが、『プリティーリズム・オーロラドリーム』の終盤では、三人がそれぞれの因縁や想いを背負ったうえで、それぞれ全く異なる存在としてステージに立ち争うことになる。チームでありながらそれぞれが相手にとって理解できない部分をもち、だからこそ一つのチームとして上手くやりしのぎを削りあうことができる。『プリティーリズム・レインボーライブ』ではさらに8人の別々な存在がそれぞれにステージで争うことになったし、『プリパラ』2期の場合でも、主人公チームは同じ一つのチームでありながら、それぞれの事情や想いを胸に別のチームとして戦うことになる。

 『プリティーリズム』・『プリパラ』シリーズが描いてきたのは、「チームで一つになること」ではない。むしろ、決して「一つにはなれない」ということであり、「一つにはなれない」ということがときに救いになるということを、これらの作品は描いてきた。それぞれバラバラの理解できない存在が、お互いにわかりあえないところを持ちながらもチームになることができるということ、そういう「理解できないからこそ共にいることができる」という関係性が重要であるということ。これを、作品を支える重要なテーマとして育て守り続けてきたのである。


 最後に、くり返しになってしまうがまとめておこう。他者はいつでも私にとっては「理解できぬ不気味な存在」でありえる。その不気味さが同じチームのなかで突然浮かび上がることがあるし、理解という手法でそれを解決することはできない。むしろ、その「理解できなさ」こそが、一種の救いなのだ。他人の心に踏み込んでいったり、他人と自分を同じ存在だと思ってしまったりすると、正常な距離は失われることになってしまう。だから、互いに「理解できない不気味な他者」として関わり、そしてそれゆえに「共にいる」こと。わたしたちはそうした関係に満足しているべきだし、そうした関係にこそ価値がある。

 「人間」について真摯に考えるなかで、そうした答えを描き出し、それをドラマにしたてあげたのが『プリティーリズム』『プリパラ』シリーズであり、この点でこのアニメは比類ないほどの価値をもち、また見る者の心を揺さぶるのだろう。このアニメを形容するために「人間讃歌」という言葉が使われることがあるが、それが過大な評価ではないということがここまでの話でわかってもらえたのではないだろうか。少なくとも私はこのアニメ以上に「人間」というものを描ききったアニメを見たことはないし、これから先もいろんな人達の心にいつまでも残り続ける一作であることは間違いないと確信している。だから、締めはいつもこの言葉で終わらせることにするのだ。初めてでも何度目でも良いから、とにかく「プリティーリズムをみてください」。


「心」と「心」は満ちていく
「人」は「人」を愛し生きていく
        −プリティーリズム・レインボーライブ挿入歌「ALIVE」









(*バラバラな「個」であるはずの人たちが、どのように関係を紡いでいけるのかという問題は、全く別のことについて書いたこの記事でも扱った。谷山浩子さんの曲という全く別のものをテーマにしているが、しかしこの記事を書いた時に私が念頭においていたのは、紛れもなく『プリティーリズム・レインボーライブ』であり、とくにこの記事では触れることのできなかったいと・おとはのことであった。だから、全く毛色の異なる記事ではあるが、補論としての機能を果たしてくれると思う。)


(*「雨宮」⇨「天宮」修正しました。それと、これまた違う記事だけれど、他者との関わりについてはアンパンマンでも書いていて (我ながら変なチョイスだけど)、この記事とアンパンマンの記事をつなぐための内容が必要だと思ってる。これをいまプリキュアを対象にしつつ補論として書いているのだけど、難航中です…。
 また、この記事はおそらく奥村隆さんの『他者といる技法』という本に大きな影響を受けています。少し古い本だけれど社会学の初学者にもオススメの本なので、ぜひ手にとってみてください。)


(2018/02/19更新:この記事を補足する内容の記事を書きました。この記事を書いた直後からずっと、これは書かないといけないと思ってきたものです。2つの記事はセットだと思っているので、どうか併せてお読みください。)


(2018/4/22更新。『アイカツ』と他者についても書いたので、三つの記事の内容をまとめました。書いたものはすぐに陳腐になってしまうので、この記事で書いたことの先を常に考えてきたのですが、その結果報告です。ぜひご一読を。)



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