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錯綜〜GreenCrack〜 盲目の大麻栽培人の物語


あらすじ

暗い過去に錯綜している盲目の青年健人と、服役から帰ってきたばかりの藤田。彼らは偶然の出会いから、大胆かつ危険な計画を巡らせる。共通の目標を見つけ、二人は大麻栽培に手を染め人生を逆転させることを決意する。

健人の感受性豊かな感覚と、藤田の犯罪者としての経験が交じり合い、二人は秘密の農園を築く。栽培技術の向上と危険な仕事に身を投じながら、やがて大麻ビジネスで成功を収める。

しかし、彼らの逆転劇は困難な選択や、過去に乗り越えられなかった壁にぶつかり、複雑な人間模様が浮き彫りになる。彼らは愛、友情に支えられ、一歩ずつ歩みを進めていく。

旅立ち

 勢いよく玄関のドアが開く。ドンドンと床を鳴らし、荒い呼吸が徐々に近づいてきた。

「電気ぐらいつけとけって」

 真っ暗な部屋に男が入ってきた。

 その男の両手には大きな黒いボストンバッグがぶら下がっている。バッグを畳に落とすと床の埃が宙に舞った。天井から垂れている細い紐を引くと部屋全体が明かりに照らされる。

 男は続けざまに勢いよくカーテンを開けた。

 強烈な外の光が闇を跳ねのける。

「ごめんごめん。だから俺には必要ないって言ってるじゃん」

 既に部屋にいた男が言う。

 男は散らかった低いテーブルに胡座をかき、なにやら手元を精密に働かせていた。

「準備できてんのか、健人」

 カーテンを開け放った後、便所座りで健人と呼ばれるその男の顔を覗く。

「そんなに顔を近づけないでよ、藤田さん。はい、これ」

 健人は藤田になにかを手渡した。

「やっぱりおまえ、俺よりもずっと上手に巻くよな」

 藤田は、健人から受け取った煙草のような物を宙に透かして見せた。

「昔から器用だからね」

 得意げに言う健人は気合を入れ直すように膝を叩くと、藤田が持ってきたボストンバッグのジッパーを開ける。

 中に入っている大量の札束の一つを手に取り、顔を宙に向け一枚一枚繊細な手つきで数え始めた。その様子を満足げに見ていた藤田は、口に咥えた煙草のような物に火をつける。

第一章 早朝の笛の音

 木枯らしが吹く早朝の街路を、白い息を吐く少年が走り抜けた。少年は大きな鞄を大切に抱えている。

「止まれっ」

 野太い警官の声とともに、甲高い笛の音が街に木霊する。

 少年は一切の反応もせず、全力で足を動かした。

「こんなところで捕まってたまるか」

 少年はビルとビルの隙間に飛び込んだ。

 そこはゴミの山と、高くそびえ立つ金網。

「クソ、行き止まりだ」

 少年は一度登ろうと思ったが、金網が高過ぎ断念した。

 金網から飛び降り、引き返そうと体の向きを変えたがもう遅い。目の前には三人の警官が待ち受けていた。少年は肩を上下に揺らしながら警察官を睨む。

「行くぞ」

 息を切らした警官が、同じように息を切らした少年の腕を掴んだ。

 パトカーに乗せられた少年は、ばつの悪い顔をした。

「この鞄の中身見るぞ、いいな」

 少年を挟むように座る警察官の片方が言った。40代くらいの運転席側の警官だ。

「はい」

 少年は、窓から覗く空を見つめ小さく返事をする。

 勢いよく鞄のジッパーを開けた警官は驚いた。なぜならその鞄には大量のお札が入っていたからだ。

「とりあえず署で詳しく話を聞こう」

 警官たちは少しの沈黙の後、ゆっくりとジッパーを閉じたのだった。

 連行された少年は、署にて事情聴取を受けていた。

「だからこれは俺の金じゃないっての」

 少年は声を荒げ机を叩く。

「桜庭君、じゃあいったいこのお金は誰のものなんだ」

 警官は桜庭少年を冷静に睨む。

「藤田って奴のだよ」

 桜庭少年は咄嗟に親友の名を出した。

「なんで藤田さんの金を君が持っているんだ」

 警官は鋭い目を桜庭少年に向ける。

「藤田に頼まれたんだよ、この金を預かってくれって。最初は断ったんだ、どうせ汚い金だろうし」

 桜庭少年は俯き加減に答える。

「汚い金とはどういう意味だ」

「あいつ大麻の密売をしてるんだ、だから一旦この金を俺の家にでも隠したかったんだと思う。今年一番の売上だって言ってたし、言うことを聞かないと痛い目にあわせると脅されたんだ、俺怖くて」

 桜庭少年は拳を握り、歯を食いしばると泣き出した。

 警官は泣いている桜庭少年の話を聞き、入口付近にいる警官に目配せした。するとその警官はなにかを感じ取ったのか部屋から出ていく。

「桜庭君、藤田さんの家に案内してくれるかな」

 警官は立ち上がった。

「はい」

 涙を服の袖で拭う桜庭少年は、反論する様子もなく素直に返事をした。

 警察署を出た桜庭少年は、覆面パトカーと呼ばれる捜査車両に乗せられ藤田の家へと向かう。警察署から五キロほど離れた場所に、藤田の住むアパートがあった。

「桜庭君、先に行ってインターホンを押してくれるかな」

 運転席からこちらに振り向いた警官は、桜庭少年に言う。

 桜庭少年は、無言のまま捜査車両から降りアパートの階段を上がった。そして、一番奥の部屋のインターホンを押すとドアが開いた。

「よお桜庭、金の入った鞄知らないか。今朝から全然見当たらなくて」

 寝ぐせで寝巻の藤田少年は、眠い目をこすりながら桜庭少年に聞いた。

「鞄はおまえが俺に渡したろ」

 桜庭少年は、何かを隠すように下を向きながら言う。

「は、渡してねえよ」

 藤田少年は、桜庭少年の突然の発言に目を皿のように丸くした。

「覚えてないのかよ、昨日の夜俺のことを脅して、鞄を隠すように言ったろ」

 桜庭少年は、はっきりと目を見てそう言った。

「なんのことだよ、おまえ一体どうしたんだ。とりあえず入れよ」

 藤田少年は、からかうように笑う。

「いや、入らない」

 桜庭少年は藤田少年に背を向けた。

 何処かに合図を送るような仕草を見せると、アパートの鉄骨階段を男達が上がってきた。

「藤田君だね、私達は警察のものです。家の中を調べさせてもらってもいいかな」

 警官達は我先にと、体を揺らしていた。

 藤田少年は、突然の出来事に言葉を失う。

 桜庭少年とは、中学一年の入学式の日に、席が隣だということだけで仲良くなった。授業中はノートを見せ合っていたし、授業を抜け出し学校の屋上で夢についても語り合った。二人で悪いことも沢山したし、高校受験の時だってお互いを鼓舞しあった。好きな女の取り合いはしたが、喧嘩が喧嘩のまま終わることはなかったし、桜庭少年は藤田少年にとって唯一の親友だったのだ。

 この時、藤田は桜庭に裏切られたのだ。

 藤田少年の家からは大麻栽培の道具、喫煙具、顧客名簿などが発見された。大量の証拠品が押収されたのだ。

「行くぞ」

 警官が藤田少年の腕に手錠をはめた。

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 アパートから警察署に到着した藤田少年は、取り調べを受けていた。

「藤田君、桜庭君はこう言っているけれど本当かな」

 警官は落ち着いた口調で質問する。

「はい、本当です」

 藤田少年は、警官の目を真っ直ぐに見つめる。

「桜庭君と一緒に栽培していたわけではないのね」

 警官も藤田少年の目を見つめる。

「はい、全部俺がやりました」

 藤田少年は淡々と答えるが、警官には見えないところで血が通わなくなるほど拳を強く握りしめていた。

「分かった。この後色々な手続きをするから少しだけ待っていてね」

 警官は席を立ち、取調室を後にした。

 取調室のドアが閉まり、一人になった藤田少年は静かに憤怒していた。

サフランの花束

「お母さん、この花良い香り」

 健人は母に笑顔で話しかける。

「そうでしょう、サフランはお母さんが一番大好きな花なのよ」

 女手一つで健人を育てる母は、ガーデニングが趣味だ。

 健人が幼い頃から、この家には綺麗な花が咲いている。花の香りに包まれ育った健人は自然に花への関心が高まっていた。

「お母さん、僕の育てているサフランはどこにあるの」

 健人は手探りで自分のサフランを探す。

「ここよ」

 母は健人の手を優しく握り、健人の育てているサフランへと誘導する。

「僕のサフランも良い香りだね、みずみずしくて元気そう」

 健人は笑顔だ。

「そうね、これからも大切に育ててあげようね。さあ、ご飯にしようか」

 母は立ち上がり、キッチンへ向かうとエプロンを締め直した。

「カレーでしょ」

 母についてきた健人が、スンスンと匂いを嗅ぐ素振りをしながら言う。

「さすが健人ね、でもカレーは夜ご飯。お昼はうどんでも食べようか」

 母は健人の頭を撫でる。

「うどん」

 健人は軽快に跳ね、喜んだ。

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 それから十二年が経ち、健人も二十歳になった。

「それじゃあ行こうか」

 母はフォーマルな服に身を包み、スーツ姿の健人の手を引く。

「待ってお母さん」

 健人は、玄関のドアノブを握る母を静止すると、自分の部屋へと行き、片手でなにかを隠しながら戻ってきた。

 母の前に立ち、一呼吸置くと「僕を生んでくれて、今日まで大切にしてくれてありがとう」と感謝の気持ちを伝えたのだ。

 照れ笑いする健人の手には、大きなサフランの花束があった。

 一瞬顔をくしゃくしゃにした母は、ハンカチを目元に当てたが溢れる涙を抑えることは出来なかった。

「お母さん泣いているでしょ」

 健人は母を笑顔で抱きしめる。

「生まれてきてくれてありがとう。愛してる」

 声にならない声で発せられたその言葉には、二十年間の苦労と喜び、そして安堵を感じさせられた。

  桜舞う成人式の会場には、既に沢山の人が集まっていた。香水のかおりや喜びの音で満ちている。肌で感じる温かさは、今日という特別な日を祝っているようだ。

 スーツに身を包んだ健人との写真に写る母は涙ながらに微笑み、撮影したスタッフも感慨深く泣いてしまったのだった。

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 そして三年後、事件が起きた。

 やっとの思いで就職した二十三歳、就職祝いも兼ねて母と健人は、レストランで食事をしていた。

「健人、頑張ったね」

 母は健人の髪をぐしゃぐしゃにする。

「うわ、お母さんやめてよ」

 髪を直しながらも健人は嬉しそうだった。

「健人は本当に立派に育ってくれた。お母さん嬉しいよ」

 感心感心と腕を組み、首を上下に揺らす。

「お母さんもありがとう」

 健人は照れ隠しをするように、飲み物に口をつける。

 母はそんな健人を見つめ、幸せそうな顔をするのだった。

 母と健人が、幼少期から今日までの二人だけの思い出を賑やかに語り合っている。夢中に話しているとあっとゆう間に時間が過ぎ、気が付くとレストランの時計は午後十時を指していた。

「そろそろ行こうか」

 立ち上がった母が言う。

「そうだね」

 健人も立ち上がり会計をしにいく。

「次は、僕の初めての給料でここに来ようね」

 健人は母の後ろでレジの音に耳を澄ませる。

「それは楽しみ、お母さん泣いてしまうかも」

 母は会計をしながら笑顔になっていた。

 マフラーを巻き、レストランを後にした二人は、道路の向こう側へ渡るため歩道橋の階段を上がっていた。

「健人、ちょっと端に寄ろうか」

 母が言った。

 健人は母に両肩をそっと掴まれ、歩道橋の階段の端へとずれる。

「次こそは苺のパフェ…」

 母の声が突然途切れ、漂う酒の臭いとともに、なにかが階段を転げ落ちるような音がした。

「お母さん、どうしたの」

 健人は必死に声を出す。

 健人の悪い予感は確実に当たっているだろう。


 お母さんが階段から転げ落ちた。


 健人は手摺に掴まり、急いで階段を下りる。

「お母さん」

 両膝を付き手探りで母を探したが、やっと触れられたものはブニブニとしていて酒臭いものだった。

「痛っ」

 中年くらいの男の声だろう、起き上がったようだ。

 健人の心拍数が上がる。

「なんだよこれ、血だらけじゃねえか」

 中年の男は驚いているようだった。

「僕のお母さんはどこにいますか」

 健人は酒の臭いをさせる中年男に聞く。

「どこにって...」

 中年男は健人の顔を見るなり沈黙し、腰元の違和感に気付いた。

 なんと健人の母は中年男の下敷きになり、頭から大量の血を流していたのだ。

 酒気を帯びた中年男は絶叫し、その場から全速力で走り去った。

「お母さんどうしたの。なにがあったの」

 健人は地面に這いつくばり手探りで母を探すと、母の髪であろうものに指先が触れる。

 手に感じる生暖かい感触、血だ。

 鼻を刺す鉄の臭いに、健人の脳は揺れてしまった。意識が朦朧とする健人と、血の臭いのする母。そこに偶然通りかかった通行人は、慌てて救急に電話をしている。

「もしもし、人が血だらけで倒れていて。はい、え、救急です。住所ですか、どうしよう分からないな。八潮駅を少し行った外環道の下、宗教団体の件で騒がれてた辺りです。ちょっと俺、急いでるので...すいません」

 その声を最後に通行人はその場から姿を消したようだ。健人の意識が深い暗闇に沈んでいく中、手を差し伸べるものは誰もいなくなった。

 その後、病院で目を覚ました健人。医師から母が階段を転げ落ちた際に、頭を強く打ち死んでしまったということを知らされた。

 即死だった。

Bar Spray

 藤田は八年間の服役を終え、刑務所を後にする。

「なんとか外でも仕事には困らなそうだ」

 出所間際の藤田は中で友人になった『鈴木』という男から、あるバーを紹介された。

 鈴木曰く、そのバーはヤクザとの関わりがあるらしく、はぐれ者でも歓迎してくれるようだ。痛い目に合わせられるかもしれないが、余程の事がない限りは大丈夫だろう。藤田は昼頃にでも行ってみようと思った。とにかく、まずは実家へと向かうことにする。

 電車とバスを使い、やっとの思いで懐かしい場所へとやってきた。最寄り駅に着くと、八年前とは見るからに景色が変わっている。藤田は時間を置き去りにしてしまった事実に、少しだけだが胸を痛めるのだった。

「お帰り」

 実家につくと白髪交じりの母が出迎えてくれた。

「ただいま、少し痩せたね」

 藤田は母に言う。

 八年ぶりの実家は落ち着くものがあり、台所からする煮物の香りに藤田は腹を鳴らした。

「そうかしら。お腹が鳴ってるわ、まずは食べてからね」

 母は台所に向かい、温かい手料理を藤田の前に並べる。

「いただきます」

 藤田は手を合わせ、母の作る料理の味を噛み締めた。

「やっぱうまいなあ、母さんの作る煮物は」

 昔と変わらない味に子どものような笑顔を見せる。

 煮物を味わっていると、藤田の心には様々な感情が沸き上がり、自然と涙が溢れた。

「ありがとね。俺、母さんに迷惑かけてばっかりなのに...」

 藤田は顔を伏せた。

「何言ってんの、別に迷惑だなんて思ってないわよ。あんたが何したって私の子どもなんだから。間違ってないって信じてるよ」

 母は悟ったような微笑みを見せる。

 藤田は母親という存在の、決して敵わない器の大きさに驚きを隠せなかったが、その器が自分に向けられているのだと知ると、安心し暖かい気持ちになった。

「ありがとう、母さん」

 母に感謝を告げると、藤田はまた食事に手を伸ばした。

 他愛の無い会話を母とした後、食事を終え「ご馳走様」と告げると、食器を台所で洗いだした。

「いいのよ、置いておいて。私が洗っておくから」

 母は居間に座りテレビを見ながらそう言ったが、藤田はその声を聞き流し食器を洗い続ける。

 台所の向こう側で座る、小さくなった母の背中を見ていると『ハッ』と思い出した。

「そういえば、お婆ちゃんは元気なの」

 幼い頃に父が他界した藤田は、かなり祖父母にお世話になった。

 服役中だった三年前。祖母の体調不良を母からの手紙で知ってから、心配していたのだ。

「お婆ちゃんね、先月から介護施設にいるの」

 母は少し悲しい表情をした。

「介護施設って、どうして」

 藤田は驚く。

「お婆ちゃんが体調を崩してからね、最初は一緒に住んでたんだけど、一年ぐらい経った頃にアルツハイマーになっちゃって、介護が必要になったの。それで、初めのうちは私が介護してたんだけど、仕事をしながらだと大変でね、今は私の仕事を増やす代わりに、お婆ちゃんは施設に入ってもらうことにしたのよ」

 母はすらすらと話す。

「そうだったんだ、大変だったよね」

 その話を聞き、後悔、悲しみ、怒りにも似た感情に飲み込まれそうになるが、藤田の目つきは鋭く目の前の現実にまっすぐ焦点を合わせた。

「でも、もう大丈夫だよ。お金の事なら俺がなんとかするから、母さんは仕事減らしてゆっくり休んでね、もういい歳なんだから」

「たくましいわね、楽しみにしてるわよ。でももう捕まるんじゃないよ」

 母は笑顔になり、冗談交じりに言った。

「わ、わかってるよ。お婆ちゃんにも近々会いに行こうかな」

 藤田は皿洗いを再開する。

 皿を洗いながら母との会話を思い出していると、『お金を稼がなければ』とゆう使命感に囚われてしまった。

 同時に、自分を裏切った桜庭への憎しみも込み上げ、居ても立っても居られなくなったのだ。あの時の桜庭はなぜ藤田を売ったのか。藤田本人には全く見当もつかなかった。

「ご飯、ご馳走様。まだ帰ってきたばかりだけど、俺行かなきゃならないところがあるから行くね」

 皿洗いを終え、濡れた手をタオルで拭く。

「わかったわ」

 母は笑顔で言い、藤田と玄関までやってきた。

「じゃあ行ってきます」

「いってらっしゃい」

 母は息子の肩にそっと触れた。

 藤田は玄関の戸を開くと、強い決意と共に実家を後にしたのだった。バスと電車で三十分ほどの場所に、紹介された古い雑居ビルがあった。時間は昼過ぎ。藤田は鈴木に紹介されたバーに出向く。

「ボロいなあ、ここに客なんて来るのかな」

 藤田は疑問に思いながらも、バーへと続く階段を上がる。

 「Bar Spray」と入口に書かれたそのバーは、雑居ビルの三階にあった。【closed】の看板が出ていたが、店の中に人影が見えた藤田は、緊張気味にドアを開ける。

「いらっしゃいませ、申し訳ございませんが開店前でして」

 ダブルスーツを着た、髭面の男がカウンターの中にいた。

「あの、鈴木って奴からの紹介で来ました」

 藤田は言う。

「あ、なんだ鈴木の紹介か、こっちに来いよ」

 髭面は店の入口まで歩いてくると鍵を閉め、藤田をカウンターの奥へと案内する。

「じゃあ、さっそくこれ」

 髭面は窓際に置いてある植木鉢の下から種を取り出し、藤田に渡す。

 この種がなんの種なのか、藤田には目を閉じたままでも分かる。ランドセル姿の時から、日の当たらない生活をしていた藤田にとって、この種が世界を変えてくれたことに間違いはないからだ。

 母親がペットボトルの底で作った容器で育てていたアボカド。ほんの少しの好奇心から、アボカドの種と一緒に見知らぬ種を放り込んだ。それが全ての始まりだった。翌日には芽を出し、得体の知れない"それ"は成長を始めたのだ。

 そう、これはあの時と同じ、大麻の種だ。毎度の如く、藤田の人生の分岐点に現れる。なんの説明もなしに渡されたということは、これを育てろということだろう。

「あとこれ、アパートの鍵。このビルの裏ね」

 髭面は気だるそうに言う。

「住まわしてくれるんですか(これならいける、最高の環境だ)」

 藤田は心の中でガッツポーズをした。

 藤田は思いがけないタイミングで、得意な仕事と住む場所まで手に入れた。

「上がりは三か月後に100万、ここに持ってこい」

 髭面が言う。

「100万って、嘘だろ。種から三か月で百万ってどう考えても...」

 藤田は髭面を睨み声を荒らげるが、髭面は藤田の言葉に被せるように続けた。

「栽培キットは押入れにある。後は自分で考えろ」

 髭面は煙草を咥えたままカウンターへと戻った。

 100万、それが出所後最初に課せられた試練だ。これを断ったら仕事も住む場所もなくなるため、藤田はこれ以上の発言を控えた。

 藤田はアパートの鍵を持ち雑居ビルを後にする。雑居ビルの裏側に回るのは容易だった。まずは雑居ビルの入口を左、するとすぐ隣に細い裏道がある。道中には、ゴミ捨て場らしきものがあるが、綺麗に掃除されていた。この細道を通り抜ければそこがアパートだ。ものの2分で到着したそのアパートは、もちろんボロボロだった。藤田の予想していた通りだ。

 ボロアパートの目の前は雑居ビルに囲まれていて、見上げるとものすごく狭い空が見える。車も入れなければ人が入ってくる理由もないだろう。もし入ってくる人がいるとすれば、ここの住人、つまり藤田と同じような人間のはずだ。

 錆び付いた階段を上り、一番端の201号室の鍵を回すと木のきしむ音とともにドアが開く。

 間取りは、『1DK』玄関の右横にはキッチンがあり、左側にはトイレと風呂、奥側左手の襖を開くと、部屋の隅に敷布団が置かれていた。ベランダに続く窓は二箇所あり、風通し、光の入り具合が絶妙だった。藤田はベランダの窓を開け、外の様子を見に行くことにした。

「不思議だな。まるで別の場所にいるみたいだ」

 目の前に広がるのは雑居ビルの集団ではなく、辺り一面に広がった緑だったのだ。

 この一帯は、ここのヤクザが仕切っているらしく、隣の土地も買収済み。広大な更地に背の高い雑草が生え放題の状況だった。出所したての藤田には、この光景が心の底から美しく見えたのだった。

 藤田は部屋に戻ると、髭面が言っていた通り押入れを開ける。

「うわ」

 思わず声が出た。

 押入れの中には上質な栽培キットが入っていたのだ。今までも大麻を栽培してきた藤田だったが、見たことのない道具が沢山あった。さっそく、慣れた手付きで栽培キットを組み立てた藤田は、種子を水のたっぷりと入ったコップに入れる。これだけの道具があれば時間の短縮は出来るかもしれない、だが三か月で100万の売上はやはり無理だ。

「あの髭面なにか別の考えがあるのか」 

 藤田は畳の上で胡座をかき瞳を閉じる、頭の中をぐるぐると回る一つ一つの問題を擦り合わせていると、脳内で最後のパズルのピースがハマる音がした。

「このアパートだ」

 藤田は目を開ける。

「このアパートは二階建てで、各階に三部屋ずつ。この中で俺より先に住んでいる奴は、みんななにかしらの問題があるはず。もしかしたら、そいつらも大麻を栽培しているかもしれない。協力して稼ぐことができないかな」

 考えがまとまった藤田は立ち上がり部屋から出る。

 まずは隣の部屋の前に立ったが、呼び鈴がない。藤田は仕方なくドアを叩く。

「...」

 反応がない。

 そして次の部屋。

 ここも同じく反応がない。

 藤田は鉄骨階段を下り、101号室のドアを叩いた。すると、中から四十代くらいの強面の男が出てきた。

「なんだ」

 男は藤田に睨みを利かす。

「上の部屋を使っているものです。突然なんですが、栽培の件で...」

 藤田はロボットのような話し方になる。

「栽培だと。おまえなんの話をしてるんだ。そんなことどうでもいいが、もし上で騒いだら殺すからな」

 男は威嚇した。

「は、はい。すいません」

 藤田はなぜか謝り、鉄骨階段を駆け上がった。

 急いで自宅のドアを開け、部屋に戻った藤田はこの考えを取り止める事に決める。

「やっぱり駄目だ、他の奴らが大麻栽培をしているかなんて、とてもじゃないが聞けない。このアパートには、俺が思うよりヤバい奴らが住んでいる」

 頭を抱えてしまった。

 この日は「一旦刑務所での疲れを取る一日にしよう」と思う藤田だったのだ。

 そして二日目の朝。

 早朝に目を覚ました藤田は、早々に大麻の種子をコップから出し、湿らせたガーゼに優しく包んだ。

「これで発芽するはず」

 藤田はベランダの窓を開け、全身を伸ばした。

 自由な目覚めは八年ぶりだ。

 逮捕時の藤田は、大麻栽培に加え、海外への輸出や輸入をしていた。そして一番悪質だと判断されたのは、未成年を含む大量の売買記録の載った顧客名簿の存在。これのせいで重い刑罰に科せられたのだ。

 しばらくして朝一番の腹の虫が鳴った藤田は、朝食を取ることにした。食料が入っていることを願い冷蔵庫を開けると、髭面が準備していてくれたであろう、食事が入っている。食事と言っても菓子パンと水以外はなにもなかったが、出所まもなくの舌は、大量のヨダレを垂らす。そして、その中からメロンパンの袋を開けると、焦るように口に放り込んだ。

「うまい」

 藤田の脳は、八年振りのメロンパンの甘さにとろけてしまいそうだった。

 メロンパンの中にクリームを確認すると、止まらない食欲に制御が効かなくなる。このままでは冷蔵庫の菓子パンを全て平らげてしまう。

ドンッ。

 感動していたのも束の間、大きな物音が部屋に響く。

ドンッ。

 誰かが壁を叩いているようだ。

ドンッドンッドンッ。

ドンッドンッドンッドンッドンッドンッ。

 どうやら隣の部屋の住人らしい。藤田はメロンパンの袋をゴミ箱に投げ入れると、注意をしに部屋を出た。

出逢い

 自分の部屋で膝を抱える健人。事故からひと月が経った今でも、健人の手には母の血の感触が残っていた。あの時の酔っぱらいは未だに見つかっていない。

 怒りの矛先をどこに向けたら良いのかわからない。悲しみなのか、怒りなのかの判断も出来ない。健人は立ち上がり部屋中を徘徊し、たくさんの物を押し倒し歩く。そこら中の壁を殴り倒し、拳は血まみれになった。

 すると、背後から妙な音が聴こえ振り向く。テーブルの上のサフランが床に散らばり、花瓶の割れる音が部屋に響いた。母にプレゼントしたサフランだ。健人は届くはずのない右手を、二人が最後に日常を過ごした"あの時"に伸ばしていた。

 はっと我に返り床に膝をつくと、広がった花瓶を集める。

「痛っ」

 健人は花瓶の破片で指を切ってしまった。

 指先に感じる血の感触、歩道橋での感覚が蘇る。健人の呼吸は徐々に荒くなり、破片を右手で強く握りしめた。

ドンドンドンッ

 誰かが玄関のドアを叩く。

 健人は立ち上がると左手首に押し付けた破片をテーブルの上に置き、玄関に向かう。耳を澄ませてみると、ぶつぶつとなにかを言う男の声がした。

「はい、どちらさまでしょうか」

 健人はドアを開け、俯き加減に聞く。

「隣に越してきた者なんだけど、さっきから何騒いで...ってお前、それどうしたんだよ。大丈夫か」

 勢いよく文句を言ってやろうと思っていた藤田だったが、健人の手首から流れる血を見て言葉に詰まる。

 血だらけの手を隠そうと慌てて後ろに回した健人は、その反動で玄関に置いてある白杖を倒してしまった。

「だ、大丈夫です、なんでもありません。それで、要件はなんですか」

 健人はしゃがみ込み、白状を元に戻しながら言う。

「いや、ちょっと騒音が酷かったから注意しに来ただけなんだけど...それよりお前、その怪我なんとかしないと」

 藤田は目の前の光景にうろたえたが、なんとか喉の奥から声をひねり出す事に成功する。

「あなたには関係ないでしょ。騒音の件は謝罪します、申し訳なかったです。以後気を付けますので、これで失礼します」

 迷惑そうな顔をした健人はそう言い残し、勢いよくドアを閉めた。

 藤田は不意に現れた悲惨な光景にドアの前で立ち尽くす。今起きた出来事を頭の中で整理するのに、少し時間が掛かっていた。

(何だったんだ今の、このアパートには本当にまともな人間はいないのか)

 藤田は心の中でそんなことを考えながら、目じりをつまんだ。部屋に戻ろうと振り返ると、足に植木鉢が当たり倒しそうになってしまう。

「危なかった」

 寸前のところでなんとか揺れを止めたが、凜々しく咲く紫の花に違和感があった。

 真っ暗な部屋、玄関の白杖。そしてなにより話している時に合わない目線。

「まさかあいつがこれを育てたのか」

 藤田は点と点が繋がった様な感覚になる。

 居ても立っても居られなくなり、健人の部屋のドアを強く叩いた。

「おい、開けてくれ」

 藤田は部屋の中の健人に聞こえるように叫ぶ。

 少しすると玄関のドアノブが動き、勢いよくドアが開く。

「何なんですか。さっきもう謝ったでしょ。あまりしつこいと警察呼びますよ」

 健人は怒っているようだ。

「まぁまぁ落ち着けよ。ちょっと聞きたいことがあるだけだから」

 なるべく彼の逆鱗に触れないように下手に出る藤田。

「で、なんですか」

 健人は不機嫌そうに聞く。

「いやいや、この紫の花綺麗だなって思って、まさか君が育てたの」

「そうですけど」

 健人は冷たく答えるが、藤田はまさにこの回答を待っていた。

(こいつは使える)

「聞きたいことってそれだけですか。俺忙しいので失礼しますよ」

 健人はそう言いドアを閉めようとするが、すかさず藤田の足でその行動は静止された。

「ちょっと待て、おまえ金に困ってたりしないか。おまえにピッタリの仕事があるんだ。少し話を聞いてくれないか」

 藤田は玄関前の花を見て、健人の才能に注目したのだ。

「仕事って、さっき出会ったばかりの人のそんな話、信用出来るわけないじゃないですか、帰ってください」

 健人はドアを無理やり閉めようとする。

「うまくいけば、月に五十万以上は稼げる仕事だ。家の中で出来る仕事だし、悪くない話だと思うんだが」

 藤田はドアが完全に閉じられるのを食い止めながら、粘り強く説得を続ける。

 月に五十万円以上とゆう金額は、独りになってしまった健人にとって必要なお金だった。

「五十万って、いったいどんな仕事ですか」

 次第にドアを閉めようとする力が弱まり、健人は思わず聞き返してしまう。

「やっぱお前も金が必要なんだな。ちょっと中でゆっくり話そう」

 そう言うと藤田は、ズカズカと健人の部屋に入ってゆく。

「ちょっと、勝手に入るなよ...」

 健人は藤田を止められず、言われるがままに部屋に入ることを許してしまった。

「まずは手の怪我を何とかしよう。タオルあるか」

 藤田はタオルを探すため、洗面所辺りをうろちょろする。

 洗濯機の上の棚からタオルを探し出すと、水で濡らし健人のところまで戻ってきた。

「人の家で、あまりうろちょろするなよ」

 健人は言う。

「悪い悪い、ほら、これで腕に着いた血拭けよ」

 健人にタオルを渡した藤田は、救急箱を探す。

「なんだよ、馴れ馴れしいな。名前も知らないってのに」

 健人は、突如現れた無礼な来客に対して不信感を隠せずにいた。

「あ、そうか。俺は藤田だ。藤田圭よろしくな。お前の名前は」

「俺は、健人。山崎健人だよ」

 藤田の勢いに呑まれ、なぜか自身も自己紹介をしてしまった健人だったが、この時から少しづつ肩の力が抜けてきていた。

「じゃあこれからは、健人って呼ぶな。俺の事は好きに呼んでもらっていいぞ。俺と健人はビジネスパートナーだからな」

 救急箱から包帯を取り出した藤田は、嬉しそうな顔をしている。

「まだやるって決めたわけじゃないだろ。そもそも、この部屋で五十万稼げる仕事ってなんだよ」

 健人は藤田から包帯を受け取ると、器用に手首に巻きながら不満そうに聞く。

「なんだ、やっぱお前も金がほしいんだな。心配するなよ、俺と健人なら絶対に大金持ちになれる」

 ニヤニヤしながら藤田が話す。

「いいから早く教えてよ」

 健人は、もったいぶる藤田にイラついていた。

「大麻の栽培だ」

 藤田は得意げに言う。

「断る、それって犯罪だろ」

 健人はあっさりと断った。

「まてまて、おまえ大麻がどれだけの人を救っているか知ってるのか。偏見で物事を語るなよな。おまえは大麻の事知ろうとしたことあるのか」

 藤田はなんとか否定派を説得しようと試みる。

「普通偏見しかないだろ、子どもの頃から悪いものだと脳に刷り込まれた悪をどうやって覆せって言うんだよ、おじさんこそゴキブリを愛でろと言われたら出来るのか。絶対に出来ないだろ」

 健人は正論を藤田にぶつけた。

「おじさんだと。俺はまだ二十八だ。それにな、絶対に出来ないなんて事はない。絶対に出来ないと思った時点で絶対に出来なくなってしまうんだ。今のこの国では悪かもしれない、だがな一歩でも外の世界を知ろうとしてみろ、大麻が悪でもなんでもないなんてことすぐに理解するはずだぞ。それにゴキブリを愛でる奴もいる、それも偏見だろ」

 藤田は正論を正論で返した。

「それなら大麻が悪でないと証明してみろよ」

 健人は挑発的だ。

「証明だと。他人の意見が証明になると思っているのか。自分で実感し、自分で考え証明するんだよ。可能性のあるものに期待せず悪だからという理由で遠ざける。悪か悪じゃないかを他人に任せている内は気楽なものだな。体を張って危険を顧みずに挑戦し、安全を主張してくれている人々に申し訳ないと思わないのか」

 藤田は健人の腕を強く掴む。

 あと少しで落ちる、藤田は心の中でそう思っていた。

「それは...」

 健人は口をつぐむ。

「健人、お前の手首の傷を見て思った。もし自分の命を自分で絶つくらいなら、一度リスクを負って俺と賭けに出てみないか。俺には分かるんだ、健人、お前には大麻を育てる才能がある」

 言い切った藤田は、健人の返答を待つ。

 困惑した様子の健人だったが、少しの間を空け口を開いた。

「面白そうだね、いいよ」

 健人はため息交じりに答える。

「よし、本当か。本当にいいんだな」

 藤田は喜ぶ。

「いいよ、もう俺には失うものはないからね。どうにでもなれって感じだよ」

 そう言いながら健人は悲しそうに笑った。

 その顔を見た藤田はなにかを感じ取ったのか、首を傾げる。

「でも、なんで俺に大麻栽培の才能があると思ったのさ」

 健人は聞く。

「お前の家のそこら中にある花だよ。こんな綺麗な花を咲かせられる奴は絶対に大麻栽培の才能がある」

 藤田はまたも言い切る。

「大麻栽培って、そうゆうものなのかよ」

 健人は呆れ声を出す。

「そうゆうもんだ」

 藤田は腕を組み、首を一度だけ下げた。

 言い合いをしている中で、健人はいつのまにか"あの時の思い出が消えていく"感覚になった。暗いままの思い出が消え、新たな思い出になる感覚。どんな形であれ前を向くための希望を、藤田からもらったのだ。

交渉

「それじゃあ俺は、ちょっと出てくる」

 藤田は今回のことを髭面に提案しにいくことにする。

「出るってどこに」

 健人が聞いた。

「このアパートの裏にあるバーだよ」

 藤田は靴を履きながら答えた。

「バーって髭さんのところだよね」

 健人が言う。

「髭さんって髭面のおっさんのことだよな。健人はあいつと仲良いのか」

 藤田は聞く。

「俺の母さんとね、なんだか仲良かったみたいでさ、小さい頃からよく遊びに行ってたんだ」

 健人は思い出すように話す。

「そうだったのか、それでここに住んでいるんだな。まあ、とにかく行ってくる」

 藤田はこのアパートには悪い人ばかりが住んでいるものだと思っていたが、訳ありの住人もいることを知った。

 玄関が閉まると落ち着いた健人をそのままに、藤田は髭面のもとへ向かった。

____________________________________________________________________________

 藤田は雑居ビルの階段を上がり「Bar Spray」にやってきた。

【closed】の看板が出ているが、藤田は構わずドアを開ける。

「いらっしゃいま、なんだおまえか、どうした」

 髭面は藤田を見てため息を吐く。

「あの、髭さんに提案があります」

 藤田は姿勢を正した。

「提案だと、言ってみろ」

 髭面は髭さんと呼ばれることに違和感がないらしく、とくに反応は見せてはくれなかった。

「アパートの隣の住人を使い、仕事をしたいのですが」

 藤田は言う。

「隣ってことは健人か。あいつと仕事って、いったいどんなことをするんだ」

 髭面は顎に手を当てた。

 少しの沈黙の後、藤田は答えた。

「二人で大麻栽培を」

 藤田は髭面の目をまっすぐ見つめる。

 その目を見た髭面は、なにかを感じ取ったような表情で口を開く。

「ほお、藤田おまえ頭が切れるな。大麻栽培なんて一ヶ月そこらで出来るものじゃない、だから別の方法を考えるだろうとは思っていたが...なるほど。詳しく説明してみろ」

 髭面は感心したような顔をした。

「まずは俺があいつに栽培方法を教える。栽培する場所はあいつの部屋。警察のガサや、チンピラのタタキでさえあいつなら簡単に解決出来るはず」

 藤田は自信満々で言う。

 髭面は俯《うつむ》き、肩を上下に揺らす。藤田は不気味に感じ顔を覗き込むが、すっと顔をあげた髭面の顔は笑顔だった。

「よし、やっぱりおまえなら大丈夫そうだな。健人とおまえ二人が協力して仕事をすれば、『一生好きなことをして暮らせるだけの金』を手に入れることだってできるぞ」

 髭面の不愛想はどこかへ消え去っていた。

「一生好きな事をして暮らせるって、そんな大袈裟な...」

「なんだ、大袈裟じゃいけないのか。リスクを負うのに小さな見返りだけで満足するのか」

 髭面の冷めた表情を見た藤田は、髭面の感情に振り回されていた。

 今の今まで笑顔だった髭面の表情は、瞬時に冷めた顔へと変わっている。この男の感情がいまいち読めない藤田だったが、拳を強く握ると覚悟を決めた。

「いや、せっかくリスクを負うならデカく儲けたい。もう一度初めからやり直したいんだ」

 ふつふつと湧き上がる情熱と同時に、頭の中では今後の流れを大体の形でイメージしていた。

 本来なら個人的に金儲けをしたかったが、ここで髭面に歯向かっても物事がマイナスに進むだけだ。舞い降りてきたこのチャンスを確実に掴むと、藤田は一歩前へと進んだ。

「今回の話は他言無用だ。人間はな、すぐに人を裏切る。自分が危うい状況になった時は一目散に逃げてしまうんだ。全ての罪を擦り付け、裏切られるんだ」

 髭面の表情にほんの少しだが悲しみを感じた。

 藤田も八年前の出来事を思い出してしまった。

(あの野郎...)

 藤田は今でもあの男のことを許してはいない、金に目が眩み藤田を裏切った桜庭を。

 藤田が八年間入っている間、桜庭はなんとあの日に不起訴となっていたらしいのだ。理由は色々あったのだろうが、警察側も大事にしたくなかったのではないかと思われる。押収された金の行方も分からないようだし、今回の事件には怪しい点がいくつか見られたのだ。

 髭面の悲壮感漂う表情を見た藤田は、彼も似たような経験をしたのではないかと薄々感じた。親友に裏切られる衝撃、この衝撃は心臓が引き裂かれ頭の中が真っ白になる、そんな衝撃なのだ。

「わかったよ髭さん。時間をくれてありがとう。状況は逐一報告させてもらうよ」

 藤田は言う。

「よし、それなら成果が出るまで金は俺がなんとかしてやる。一種の投資ってとこだな。ヘマするんじゃねえぞ、その時は分かってるよな」

 髭面の表情は少し和らいだ。

「わかってます。さっそくこの後戻ったら始めます」

 藤田は敬語交じりの安定しない言葉で髭面に答える。

 話が終わり店を出ようとした藤田を、髭面が呼び止めた。

「待て、もしかしたらおまえらの様子をボスが見に来るかもしれない。その時はボスにもこの話はするなよ。ボスは金のためならなんでもする。こんなに旨そうな話をボスが食わない訳がない」

 髭面が言う。

「わかったよ、言わない。俺だって母も妹もいるんだ。なるべく危険なことは避けたいよ」

 どうやら髭面はボスの座を狙っているらしい。こういう男は途轍もなく頭が切れる。

(髭面に利用されている内は命の心配はないだろう)

 ボスという言葉に一瞬萎縮した藤田だったが、なんとか髭面を説得することに成功したのだ。

 藤田はバーを後にすると、アパートに戻り健人の家のドアを叩いたのだった。

心の闇を晴らす時

「電気つけるぞ」

 暗闇に健人の気配を察知した藤田は言った。

「うん」

 健人はサフランに水をあげていた。

「その花、なんて花なんだ」

 サフランをまじまじと見つめる藤田は言う。

「サフランだよ。母さんが好きだった花。子どもの頃から一緒に育ててる」

 健人はサフランの方を向きながら答える。

「すごい綺麗だな。こんなに綺麗な花は初めて見たよ」

 藤田は紫色の花びらに触れる。

「綺麗か、よかった。花には触れないでね、繊細だから」

 健人の顔に笑みがこぼれた。

 藤田はそっと花びらから手を離し、その手をポケットに入れる。

「髭さんから了承を得てきた。さっそく始めよう」

 藤田が手を叩くと、二人は椅子に座り話し始めた。

「始めるって、髭さんとどんな話をしてきたの」

 健人は問う。

「この仕事の大本《おおもと》は髭さんなんだ。あいつに『健人と一緒に仕事をする』って伝えてきた」

「髭さんにそんなこと言ったの。俺の印象がどんな風に変わるかとか、考えてくれなかったのか...」

「健人の印象ってどんなだ」

「髭さんにとって俺は、ただのいい子ちゃん。それ以上でもそれ以下でもない」

「どっちでもないなら都合いいだろ。しかも髭さんは乗り気だったぞ」

「え、髭さん乗り気だったのか」

「その辺はあまり心配するなって。それじゃあ初めに栽培方法を教えるぞ。一度覚えてしまえば簡単だと思うが、おまえの場合少し苦労するだろう。手探りで頑張ってくれ」

 藤田はそう言うと、淡々と大麻の栽培方法を健人に教えた。

 話を聞いている間の健人は、時々難しそうな顔をしたが、どちらかというと前向きな表情だった。

「警察に捕まるリスクは視野に入れてるんだよね」

 健人は聞く。

「もちろんだ。だが大麻栽培で捕まっている奴のだいたいは、友人の裏切りだったり、客がチンコロした場合が多いんだ。その辺りは、おまえは俺のことを信用するしかないが...。ただ、俺の名簿に載っている客達は、まあ大丈夫だ」

 藤田は自慢気に言う。

「なんで大丈夫なんだよ」

 健人は腕を組む。

「俺の顧客は全員精神疾患持ちで、なにかあれば二度と商売はしないと色々な脅しをしてあるからだ」

「色々って」

 健人は呆れて、質問を続けるのをやめた。

 詳しくは聞かないほうが身のためだと思ったのだ。

「一度部屋に戻って、栽培キットを取ってくる」

 藤田はそういうと健人の部屋を出た。

 一人になった健人は、久しぶりに聞く耳鳴りとともに静寂に包まれる。母が死に、孤独の中にいた健人には、藤田の声があまりにも大きかったらしい。 

 しばらくして、玄関のドアを小さく叩く音が聞こえ、健人は玄関に向かう。

「悪い、開けてくれ」

 藤田の声がし、健人がドアを開く。

「ありがとう、沢山持ってきたから少し避けててくれ」

 藤田は、健人が端に寄るのを確認すると、両手いっぱいの道具をテーブルの上に広げた。

「そんなにあるの」

 健人は、テーブルに広がる音を確認すると道具に触れる。

 一つ一つの形を確かめ、大体のものがどんな役割を持つのかを想像した。

「そして最後にこれ、今はガーゼに包んであるが明日には発芽すると思う」

 藤田はプラケースに入った種子を健人の手に直接渡す。

 健人はプラケースを受け取ると、軽く形を確認した後そっとテーブルの上に置いた。

「とりあえず植えるのは明日からだとして、この複雑そうなキットを組み立てるのを手伝ってくれないか」

 健人は藤田に言う。

「ほとんど出来てはいるから、結構簡単だぞ。よし、あの部屋に設置しようか」

 キットをいじりながら、藤田は健人の母の部屋だった方向を指さした。

「あの部屋ってどこ」

 健人は聞く。

「仏壇のある部屋だよ、日当たりも良さそうだし一番奥まってる」

 藤田は腕を組んだ。

「嫌だよ、母さんの部屋だ」

「バカ野郎。だからいいんだろうが、少しでもバレない可能性を高めるんだよ」

 藤田は健人を説得する。

 藤田の言うことも分かるが、亡き母の部屋で違法な事をするという背徳感からか、健人はなにも言えなくなってしまった。

「捕まるまで三年間栽培をしてきた。それまで一度もヘマをしたことはない。最後には親友に裏切られたけどな」

 藤田は言う。

「裏切られたってどういうことだよ」

「その親友とは、ずっと一緒にやってきたんだよ。最後に金を持ち逃げされて、挙句の果てに警察に垂れ込まれたんだ」

 藤田の悔しそうな声を聞いた健人は口を開く。

「復讐したいのか」

 健人は藤田の方に向いた。

「そうだな、復讐...。いや、どうなんだろうな。なんにせよ、そのためには健人の協力が必要なんだよ」

 藤田は、健人の気持ちが揺れ動く度に何度も説得を試みる。

「仕方ない、母さんの部屋を使おう。藤田さんがそこまで言うのなら信じるしかない、実際俺も金はほしいし」

 健人は藤田の言葉に、不思議と心を動かされてしまう。

 なぜか藤田の言葉には説得力がある、必ず成功してやるという信念が伝わる。藤田自身もやる気に満ち溢れ、十代の頃よりもさらに力を発揮出来そうだった。

 健人は藤田と話している内に、だんだんと心の靄《もや》が晴れていく感覚になる。前向きになり、過去を悲しむより未来を想像することの大切さを実感することが出来る。藤田と一緒に前を向こうと思ったのだ。

「それじゃあ健人、さっそく組み立てていくぞ。結構単純だから口でも説明しやすいと思う」

 健人の母の部屋に移動した二人は、栽培キットを組み立て始める。

「まずは土台になる部分、それとテントと呼ばれる囲いのような物を組み立てる。触ってもいいぞ」

 藤田は健人にキットを触らせ、どんな物を扱うのかを詳しく説明した。

 土の設置や、ライトの当て方、水の温度のこだわり、開花後の作業についても健人に伝えながら組み立てる。

 30分は経っただろう。途中藤田はトイレに何度も行っていたが、無事に栽培キットの設置が終わった。

「種は明日植えればいいんだよね」

 健人は言う。

「明日の朝一番に俺が来るから、一緒に植えよう。発芽しているはずだから繊細に扱わなくてはならないからな」

 藤田は健人にそう伝えると玄関のほうへと歩いて行った。

「今日はもう帰るんだよね」

健人は、なにかを言いたげだった。

「ああ、伝えたいことは伝えられたし、後は植えるだけだからな」

 藤田はそういうと健人に背を向け手を振る。

「あの、部屋の片付け手伝ってくれないかな」

 健人は勇気を出し藤田の後ろ姿に向かって俯《うつむ》き加減に言う。

「そんなもの自分でやれよ」

 藤田は健人を冷たくあしらうと部屋を出ていった。

 一つため息を吐き、玄関ドアの鍵を閉めようと健人が歩き始めると、妙な違和感がある。床に散らばっているはずの花瓶の破片がないのだ。

「トイレの回数がやけに多いと思った」

 健人の顔からは自然と笑みがこぼれたのだった。

播種

 翌朝、健人は玄関のドアを叩く音で目覚めた。

「おい、健人起きてるか」

 藤田の大きな声が聞こえる。

 健人は重たい体を起こし、玄関のほうへと歩いていく。

「はいはい、少し待ってて」

 健人は頭を掻きながら玄関のドアを開けた。

「おまえまだ寝てたのか。もう6時だぞ」

 藤田が言う。

「もう6時って、まだ6時だって」

 健人は不機嫌だった。

「種植えるぞ」

 そういって藤田は、ずかずかと健人の部屋へ上がり込んだ。

 そんな藤田の声を背中で聞きながら、健人は開かれたドアの前で欠伸をした。

「良い朝なのに騒がしいな」

 健人は鳩の鳴き声を聞きながら、腕を空に伸ばす。

 全身を伸ばしていると、部屋の中から物音が聞こえた。藤田は母の部屋で、なにやら作業をしているようだ。健人は玄関のドアを閉めると、藤田の元へと向かう。

「健人、おまえが植えてみろ」

 藤田は健人に種子の入ったプラケースを渡す。

 健人はプラケースを開けると、大麻の種子を一つつまみ、そっと手のひらに乗せた。

「芽が出てる」

 大麻の種子に優しく触れ、芽が出てることを確認した健人は栽培用のテントに入った植木鉢に種子を植えた。

「大麻自体は丈夫な方だと思うが、乾燥にはめっぽう弱い、十分注意しろよ」

 藤田はそういうとジョウロを健人に渡す。

「分かってるよ、植物を育てるのは得意なんだ。食虫植物だって育てたことあるし」

 健人は植木鉢に水をたっぷりとあげると、自分の部屋のサフランの元へと向かう。

「食虫植物ってハエトリグサとかだろ」

 藤田は母の部屋から聞く。

「そうそう、ハエトリグサ」

 健人はサフランに水をあげながら答えた。

「あれは面白いよな、刺激するとパクって閉じちゃうんだよな」

 藤田は笑顔で言う。

「実はハエトリグサは日本の気候に合っていて、結構育てやすいんだよ、藤田さんも育ててみたら」

 健人はジョウロをサフランの植木鉢の脇に置くと、藤田のいる母の部屋へと戻ってきた。

「いいかもしれない、でもどこで売ってるんだろうな」

 藤田は腕を組み考える。

「ネットで買えばいいじゃん。今はもうなんでもネットでしょ」

 いつのまにか、胡座をかき座っている健人が言う。

「そ、そうなのか。ネットで買うものなんて信用出来ないだろ」

 藤田は言う。

「古いなあ、藤田さんは」

 健人は藤田を小馬鹿にした。

「仕方ないだろ、八年入ってたんだぞ。それについこの間出てきたばかりだ」

 藤田も座って胡座をかくと、上着のポケットから菓子パンを出し、健人に差し出した。

「八年も入ってたって、いったいなにしたのさ。人でも殺したの」

 健人は少しだけ後ずさる。

「そんな訳ないだろ。ほら、菓子パン食えよ」

 藤田は、健人の手に菓子パンを近付けた。

 健人は菓子パンを受け取ると袋を触る。

「ありがとう、これメロンパンだね」

 健人はそう言い、袋を開け匂いを嗅いだ。

「良い匂い、俺メロンパン大好きなんだよね。それでいったいなにをして八年も入ってたのさ」

 健人はメロンパンを頬張りながら藤田に聞く。

「大麻栽培、所持、未成年も含めた密売、輸入輸出、色々やった」

 藤田はメロンパンを咀嚼しながら答えた。

「結構悪いことやってるね」

 苦笑いを浮かべた健人は、尚もメロンパンを頬張る。

「人は殺してないからな」

 藤田はメロンパンを飲み込むと、強調して言った。

 健人が藤田に返す言葉を選んでいると、二人の間にほんの数秒沈黙が流れる。

「おい、信じてないだろ」

 沈黙に耐え切れず、焦りから力が入り過ぎてしまった藤田は、メロンパンが入った袋を強く握った。

「はいはい、信じてるって。ところで今後の流れはどんな感じなの」

 健人は藤田に聞く。

「ちょっと待て、本当に信じてるのか。『はい』を二回続けて言う奴は、大体のことを理解していない場合が多いんだぞ」

「いや、そんなこともないでしょ」

「そんなことある。俺は社会人になって学んだんだ。会社の先輩に何度怒られたことか...」

「『はい』は一回か」

「そう、『はい』は一回。これは社会人のマナーだ。覚えておけ」

「はい」

 藤田は呆れ声で返事をする健人を見て、会社の先輩と自分を重ねていた。

「まあ...とりあえず、花が咲かない限りはなにも出来ないからな、あまりここに来るのも怪しいだろうし、説明したとおりに栽培を続けてほしい」

「分かった。なにかあれば部屋まで行くよ」

 健人はそうゆうと、メロンパンの最後の一口を口の中に放り込んだ。

第二章 GreenCrack

 健人が栽培を始めてから三ヶ月が経つ。その間藤田は、髭さんから紹介された解体屋でなんとか生計を立てていたのだが、とうとうこの日が来た。 

 健人の母の部屋で床に胡座をかき作業をしていた二人。どこか高揚感のようなものを漂わせながら、大麻の成熟を喜んでいた。

「乾燥もトリミングも終わった」

 安堵のため息を吐く藤田は、完成したその花をそっとつまみ、鼻の前に持ってきた。

 芳醇な香りを感じると、花の形や質を見極めた。それは窓から差し込む光で、まるで宝石のようにキラキラと輝いている。花をケースに戻し、ベタつく指先を擦り合わせると、藤田は健人の方を向く。

「最高だ。こいつは最上級だ」

 藤田は感動していた。

「これで次の段階に進めるね」

 健人は鼻高々に藤田に言う。

「そうだな、さっそく売りたいところだが...」

 そう言うと藤田は、ごそごそとポケットを漁る。ポケットの中からは、大麻の花を砕く『グラインダー』と呼ばれる道具が取り出された。

 凝縮された極上の大麻を指で裂き、蓋を開けたグラインダーに少しずつ乗せる。蓋を閉めると両手首を捻り、中に入っている大麻を、鉄と鉄が擦れる音とともにすり潰す。

「なにしてるの」

 健人は藤田に言う。

「まあ待ってろよ」

 藤田はそういうと、なにやら作業を始めた。

 健人は今の状況を理解することは出来なかったが、鼻の奥に感じる柑橘系の、もしくは土や森の中で感じるような、なんともいえない躍動的な香りに、一人うっとりとしていたのだった。

「さあ、できたぞ」

 藤田の手によって手際よく作られたそれに、ライターで火をつける。

 その一瞬、部屋中に明かりが灯った気がした。

 深く、ゆっくりと肺の奥まで吸い込む。まったりと肺を膨らませていくような感覚だ。 

 心地良く肺が膨らんだことを実感すると、さらにゆっくりと時間をかけて煙を吐き出していく。

「GreenCrackだ」

 藤田はそっと呟く。

 非常に滑らかな煙、それでいて、口蓋の上部と舌の奥にマンゴーを連想させる。

 スパイシーな味を残す『GreenCrack』に、藤田は感動し涙を一粒落とすのだった。

「健人も吸ってみろ、おまえが作った極上の大麻だぞ」

 藤田は健人に、巻紙で巻かれた『GreenCrack』を持たせる。

 健人の五感は、既に『GreenCrack』に魅せられていた。なんの躊躇もせずに『ジョイント』を口元まで持っていき、勢いよく吸い込んだ。

「ごほっごほっ、ごほっ」

 健人は顔を真っ赤にし、苦しそうに肩を上下させる。

「ごほっ、ごほっ」

 尚も咳き込む健人は、そのまま勢い良く立ち上がり冷蔵庫を開け、二リットルの水の入ったペットボトルに直接口を付け、ゴクゴクと喉を鳴らす。

「なんだ健人、素早く動けるじゃないか」

 健人のその姿を見た藤田は、目玉を真っ赤にしゲラゲラと笑っている。

「笑い事じゃない、ごほっ」

 少し咳が収まってきた健人は、手探りで空のグラスを取り、飲みかけの水を注いだ。

 健人はそのまま藤田のほうへと歩くと、グラスを藤田の前に置く。

「おまえが口を付けた水かよ、まあいいけど」

 藤田は、相変わらずニコニコとしながらグラスの水を飲み干した。

 グラスをテーブルに置くと、ジョイントを更に吸い込む。

「ごっほ、ごほ、ごっほごっほ」

 藤田もさらに目玉を真っ赤にし、咳き込む。

 藤田の盛大な咳き込みを聴いた健人は、口に含んでいた水を噴き出してしまった。

「笑わせないでくれよ藤田さん」

 健人は大きな声で笑った。

「このジョイントは最高だな」

 藤田は、一筋の煙を天上に伸ばすジョイントを指先で転がす。

「ジョイントってどんな物なの」

 健人は首を傾げた。

「ああ、ジョイントってのは砕いた大麻を巻紙で巻いた物だ。形は煙草とほとんど変わらないだろ」

 藤田は咳き込みながらもジョイントを健人に持たせると「ところで健人、好きな曲はあるのか」と聞いた。

「俺は坂本慎太郎が好き、坂本慎太郎の”思い出が消えていく”」

 健人はゆっくりと煙を吐きながら答える。

「渋いな、おまえまだ23だろ」

 健人からジョイントを受け取る。

「お母さんがよく聴いていて、耳に残ってるんだよ。彼の音楽はノスタルジックな気分になるんだよね」

 藤田は、健人の部屋の中から音楽プレーヤーを見つけると、一言「聴こう」と言った。煙をゆっくりと吐き出すと音楽が流れ始めた。

 健人はその瞬間、まるで別の世界にいるような感覚になった。

 いつも聴いている音とは違う、スロー再生をしているような、頭の後ろに残る音を全身で感じる。一粒一粒の音色を聴き、深く、深く音の波に吞まれてゆく。

 こんなに素敵な世界があったのか。こんなにも心地よく癒される空間が存在したのか。ふと母に抱かれた時のことを思い出す。泣きじゃくる僕を優しくあやしてくれた。あの日のうどんの味、カレーの香り、サフランのみずみずしさ。

 健人の目からは、自然と大粒の涙が溢れた。まるで心が浄化されるようだ。健人は大麻を吸い、少しの間だが亡くなった母と再会出来たのだ。

顧客名簿

「落ち着いたか」

 窓際で空を眺めていた藤田は、健人にそう言った。

「うん。暖かくてすごく良い気分だった」

 健人はそう言うと、両腕を天井へと伸ばす。

「よし、俺は一旦髭さんに報告してくる。おまえはゆっくりしてろ」

 プラケースに入れた大麻をポケットにしまった藤田は、部屋から出ていく。

 健人は右手を上げ無言の挨拶をした。

 玄関のドアを開けるとアパートの柵の隙間から人が見える。階段の下で男二人がなにか話していた。

 片方は、茶色の帯と深い緑の着物を身に着けた白い髭の生えた老人。少し腰が曲がり杖を突き階段の手摺に摑まっている。そしてもう片方は黒いスーツに身を包み、いかにも老人を警護しているかのような風貌だ。

「だれだろう」

 藤田は健人の部屋のドアを閉め、階段のほうへと歩いた。

 階段をゆっくりと上がってくる二人を、横目でちらちらと見ている藤田。なぜか藤田の体は妙に落ち着きがない。空気がピリついているような、重いような感覚があったのだ。一段一段と踏み締めるその老人の足に、確かな生気を感じる。そして、最後の段に差し掛かった時、黒いスーツに支えられた老人が顔を上げた。

「う...」

 老人と目が合ってしまった藤田は、一瞬蛇に睨まれたように体を硬直させてしまう。

「君が藤田君か、鈴木君の知り合いだってな。鈴木君は、中で元気にしてたかな」

 老人は、目の色一つ変えずに藤田に質問した。

「は、はい。彼は私に大変良くしてくださいました」

 藤田は使い慣れない敬語を使う。

「まあ楽にしなさい。ところで君はどんな仕事をもらったのかな」

 杖に両手をつき老人は言う。

「仕事は...」

 藤田は勘繰り、咄嗟に髭さんの言葉を思い出す。

「(彼はボスにはなにも言うなと言った。今俺の目の前にいるのは髭さんの言う『ボス』と呼ばれる男で間違いないだろう...)い、今は近くの解体屋で働いています」

 藤田は一瞬詰まったが、こう切り返した。

「解体屋だと」

 ボスの表情が変化したような気がした。

「はい。なにかあればすぐに動けるようにと髭さんが準備して下さいました」

 藤田は背筋をピンと伸ばす。

「解体、なるほど。それ以外にもなにか仕事をもらっただろ」

 ボスはさらに鋭い視線で藤田を睨む。

 眼球だけで覗き込むような半分の黒目は、上瞼によって隠れている。さらに足先は、藤田を逃がさないためか無意識にこちらに向いている。まさに絶体絶命。今まで生きてきた中での一番の恐怖に値するだろう。藤田は全身の血の気が引き、両脚の力が抜けそうになった。

 その時。

「ボス、お久しぶりです」

 突然、背後から声がし、健人が姿を現した。

「おお、健坊か。大きくなったな」

 ボスの顔が突然和らいだかと思うと、藤田のことを無視し、健人の元へと杖を突く。

「今日は健坊に用があってな、少し上がってもいいか」

 ボスはそう言うと、健人が開くドアの中へと入って行った。

 ドアの前には、黒スーツがどっしりと構え、藤田に向かって手を払う仕草をする。

 早くどこかへ行けということだろう。藤田は一目散に階段を駆け下りた。階段を下り切り、健人の部屋のほうへと目をやると黒スーツがこちらに気付き、柵を掴み威嚇してきた。

「(このアパートは、やっぱり変だ)」

 藤田はそれ以降振り返ることはなかった。

 「BarSpray」に辿り着いた藤田は、いつものように【closed】の看板を無視し、勢いよくドアを開く。

「こんにちは」

 藤田はカウンターに向け挨拶をすると、奥の赤いカーテンが揺れ、髭さんが出てきた。

「なんだ。良い知らせか」

 髭さんは煙草を咥え、頭を搔きながらこちらを見つめる。

 彼はこんな時でも、キッチリとしたダブルスーツを着ていた。

「収穫終わりました。極上品です」

 藤田はそう言うと、ポケットからプラケースを取り出す。

 ケースの蓋を開くと、バー内に芳醇な香りが広がった。

「すごいなこれは、貸してみろ」

 光が反射するほどに輝く大麻を、藤田から受け取る髭さん。

 すると彼は、収穫直後の藤田と同じように、うっとりと見入ってしまったようで、少しの間無言の状態が続いた。

「髭さんこれ」

 藤田は、ポケットに忍ばせておいたジョイントを髭さんに渡す。

 髭さんは、口に咥えた真新しい煙草をカウンターの上の灰皿に押し付けると、さっそくジョイントを咥えライターに火を灯した。

 深く吸い込み、深く息を吐く。

 カウンター内から出てきた髭さんは、呼吸をするように煙を吹かすと、背の高い椅子に腰かけた。目を瞑り天井を仰ぐと、後ろに伸ばした肩肘をカウンターに付ける。

「確かにこいつは極上だ。GreenCrackをここまでに仕上げるとは」

 髭さんは驚いていた。

「健人です、あいつには才能がある。髭さんは、もともと分かっていたんですよね」

 藤田は問いかける。

「ああ、分かってた。あいつの母親とは昔付き合いがあったからな」

 髭さんはリラックスしているようだ。

「髭さんと健人の母親が...。それで健人はボスとあんなに親しそうだったのか」

「やっぱりボスは来たか、なんて言っていた」

 髭さんは藤田に聞く。

「仕事はどうしてるんだって、今なにやっているのかを聞かれたよ」

「なんて答えた」

 髭さんは質問攻めだ。

 余程、藤田との関係を知られるのが嫌なのだろう。

「解体屋で働いているだけだと答えた」

「そうか、それなら良い」

 髭さんは、納得したのかカウンターチェアから立ち上がり、カウンターの中へと引っ込んだ。

「とにかくこの品で商売をしていく」

 藤田は髭さんにそう言うと、バー入口のほうに振り向く。

「待て、サツに押収された顧客名簿はどこだ。名簿もないのに商売なんて出来ないだろ」

 髭さんが藤田の背中に向かい言う。

「顧客名簿…ああ、あれか。サツには偽物を掴ませた。当たり前でしょ大切なお客さんなんだから」

 藤田はそう言うと、右手を上げバーを後にした。

 自分の部屋に戻ってきた藤田は、実家の屋根裏から取ってきた顧客名簿と睨めっこをしていた。

 八年前の情報だ、確実性がないかもしれない、警察にパクられている奴もいるかもしれない。今の状況で顧客に電話を入れたり、アクションをするのは危険だと考えた。なにか方法はないものか。

 藤田は10分程度だが、部屋の中心で胡座をかく。

(古いなあ、藤田さんは)

 集中していると、ふと健人の言ったことを思い出す。

(ネットで買えばいいじゃん。今はもうなんでもネットでしょ)

 健人の声が頭に木霊し、藤田はなにかを悟った。

「とにかく名簿に書かれている住所に出向き、SNSの情報を今までの顧客に教えてもらう。大変だがこの方法が一番確実だろう」

 常に慎重に動く藤田は、時間を掛けてでも今までの顧客名簿を書き直そうと考えたのだ。

 しばらくすると藤田の部屋のドアを叩く音がした。藤田は急いで顧客名簿を隠すと、玄関の覗き穴を見る。そこには健人が立っていた。健人を部屋に招き入れた藤田は、なにもない畳の上に座らせ話し始める。

「さっきは助かったよ。あいつに大麻の存在を知られたかな」

 藤田は恐る恐る聞く。

「あいつって、ボスのことでしょ。大麻はうまく隠したよ。ところで、髭さんとどんな話をしたの」

 健人は言う。

「よくやった健人。今回健人が育て上げた大麻は、髭さんにもお墨付きをもらった。このGreenCrackで勝負することに決めたぞ」

 藤田は腕を組み笑顔を作った。

「よかった、また次の段階に進めるね。次はなにをするの」

 健人は聞く。

「次は顧客名簿に載っている客に直接会いにいく。はじめは苦労するだろうが、SNSの情報を手に入れたら少しづつネット上で拡散していこう」

「会いに行くのはいいけど、顧客って言っても遠いところでどの辺りなの」

 健人は聞いた。

「二十キロ圏内だな、遠くても東京駅辺りまでだろう」

 藤田は記憶を辿りながら応える。

「案外近いね」

 健人は安堵した。

「まだ子どもだったからな、ネットもそんなに普及してないし、車もなかった」

 藤田はそう言い立ち上がると、ごそごそとなにかを始めた。

「藤田さんなにやってるの」

 健人は聞く。

「健人、遊びに行くぞ」

 藤田は意気揚々と着替えていたのだ。

「遊びに行くってどこに。仕事はどうするの」

 健人は混乱する。

「仕事がうまくいきそうだからな。こんな状況でじっとしていられるわけないだろ。もう夕方だし、前夜祭といったところだろう」

 藤田は、そそくさと健人を立ち上がらせると、健人の部屋まで連れて行った。

「さあ着替えろ、俺はGreenCrackの様子を見ておく」

 藤田は鉢の前で胡座をかく。

「遊びに行くのは分かった。でも金はどうするの」

 言われるがままに外用の服に着替える健人は、藤田に疑問を投げかけた。

「奢ってやるよ。俺が家やビルなんかを、ぶっ壊して稼いだ金だ」

 藤田は得意げに言うと、健人の手を掴みアパートを出る。

 二人は、ちょうど太陽が沈むであろう時間帯に、タクシーに乗り込むのだった。

クロノスタシス

 指先に音の振動を感じる。

 心臓が飛び出してしまいそうな空気の揺れ、鼻の奥を刺す甘ったるい香水の匂い。時折頬に当たる、長い髪の感触。耳から伝わるはずの音は、不思議と耳の穴を通り道にはせず、直接脳へと音を運んでいるようだ。健人は踊り狂う人の中に、別の世界を築いていた。

「おまたせ」

 お酒の入ったグラスを持つ藤田が、健人の元へ戻ってきた。

「藤田さん。ここ最高だね」

 健人は笑顔で藤田からグラスを受け取る。

「だろ。ちょっと来いよ」

 藤田はそう言うと、健人の手を引き屋外へと連れてきた。

 生暖かい潮風が吹く喫煙所には人影一つない。藤田は、内ポケットから綺麗に巻かれたジョイントを取り出し、ライターに火を灯す。口に咥えたジョイントにその火を近づけると、たちまち芳醇な香りが辺り一帯を包み込んだ。

「藤田さん、いつのまに」

 健人は呆れたようだったが、鼻に優しく触れるその香りに、まったりとしてしまった。

 藤田はゆっくり、ゆっくりと煙を肺に溜めると息を止める。目を瞑り、全身で『GreenCrack』を感じた。藤田はその状態のまま、健人にジョイントを渡す。ジョイントを受け取った健人は、藤田と同じように煙を肺に溜め息を止める。

「明日から本格的に顧客を探していくに当たって、こいつの良さや重要性をより強く語れないといけない」

 藤田は真面目な顔をした。

「他との差をつけるってことだよね」

 健人は言う。

「そういうことだ。どうやって差をつけるかというところだが...」

 藤田は腕を組み考え込む。

「使用用途を明確にするのはどうかな」

 健人がひらめいたように手をたたく。

「使用用途か、例えばどんな感じだ」

「薬局で買う薬と一緒だよ。頭が痛いから頭痛薬を買う、遠出のために酔い止めを買うでしょ」

「そういうことか、確かに」

「俺たちの顧客には、事前に悩みを聞いて、それに沿った使い方や分量をレクチャーしてあげるんだよ。安心を一緒に販売するようなイメージかな」

「そういうことなら売出しの文句としては、『頭痛に効く』『鬱症状が改善します』とかになるのか」

「そういうことだね。でももちろん『音楽がより良く聴こえる』『感性が高まる』とか、そういった現状からのプラス要素も伝えてあげるといいかも」

「試してみよう」

 二人は会話を終えると、クラブの中へと戻った。屋内は相変わらず賑わっていて、天井から降り注ぐレーザーが客達の体を何度も切りつけている。ハイテーブルについた二人は、さっそく品定めを開始する。

「どんな感じの奴にするか」

 藤田が健人に聞く。

「とりあえず若い二人組と、病んでそうな人」

 健人はグラスに入ったビールを飲み干した。

「分かった」

 藤田はそうゆうと、健人をハイテーブルに残し、ホールへと向かう。

 健人の言う若い二人組はすぐに見つかった。男二人組、ちゃらちゃらした服装だ。

「君たち」

 藤田は馴れ馴れしく声をかける。

「なんだよ、おっさん」

 片方の短髪の少年が藤田を威嚇した。

「そんなに俺は老けて見えるのか、まあいいや。良い話があるんだ」

 藤田は切り出した。

 少年二人は不審な顔をしていたが、なにやらこそこそと話し始めた。

「とりあえず聞いてみようぜ」

 短髪の隣にいる髪を茶色に染めた少年が言う。

「音楽をより楽しむためのものなんだけど...」

 藤田が話そうとしていると、短髪の少年が話を遮る。

「おっさん売人かよ。タマ持ってるか」

 『タマ』とは『MDMA』の隠語であり、覚醒作用のある薬物だ。藤田は、大麻以外の幻覚成分とは相性が悪いため、見当違いだったとハイテーブルに戻ろうとする。

「おじさん待ってよ、じゃあなにを持ってるの」

 茶髪の少年が藤田を引き止める。

「大麻」

 藤田は答えると、少年二人は顔を見合わせた。

「まあ、大麻でもいいや。買うよ」

 少しの話し合いの末、短髪の少年が言う。

「分かった。少し待ってろ」

 藤田はそうゆうと歩きだした。

 若者二人は、キョトンとしている。

「待たせたな」

 戻ってきた藤田は、両手にショットグラスを持っていた。

「おっさん、大麻はどこだよ」

 短髪の少年は相変わらず食って掛かってくる。

「悪い、今日は忘れてきてしまったみたいだ。変わりにこれでいいか」

 藤田はショットグラスを差し出す。

「行くぞ」

 今にも飛びかかってきそうな短髪の少年の腕を、茶髪の少年が掴み、二人は藤田の前から立ち去った。

 藤田は二人の後ろ姿を見送ると、健人の元へと戻る。

「健人の言うとおりだった。あっちから食い付いてきたよ」

 藤田はショットグラスをテーブルに置いた。

「でしょ。どうしようか、今からここで売ってみようか」

 健人は得意げだ。

「いや、今日持ってきた大麻は、さっき吸った分で全部だ」

 藤田はショットグラスを健人に差し出した。

「そうだったの」

「大麻は所持していると犯罪だからな。不思議な事に使用は犯罪じゃないんだぜ」

「なにそれ。じゃあ警察が来た時に床に捨てたらどうなるのかな」

「所持じゃないから大丈夫だろ。まあでも、持ってるとこを一度でも見られたら詰められるだろうな」

「結局捕まりそう。これもある意味、日本の闇じゃん...」

「だよな。このヘンテコな法律も近々対策されるだろうと思うけど」

「なるほどね。ところで、このグラスすごく冷えてるね。この酒は、なんて名前なの」

 健人がグラスに触れながら聞く。

「ボンベイサファイア、ジンだよ。キンキンに冷やすとトロみが出てうまいんだ」

 藤田はそう言うと、冷えたショットグラスを口元に持っていき、一気に飲み干した。

 ショットグラスをテーブルに叩きつける音を聞いた健人は、それに続いてボンベイサファイアを飲み干す。

「キツいねこれ」

 軽く咳き込みながら、健人もグラスをテーブルに叩きつけた。

「香りがいいだろ」

 藤田は言う。

「確かにおいしいけどね」

 健人が気に入った様子を見せると、藤田は満足そうな顔をした。

 そして、しばらく仕事についての話、お互いの趣味などについての話をしていた時だった。

「君たちちょっといいか」

 藤田の背後から声がした。

「はい、なにか」

 藤田が振り返ると、そこには金のチェーンネックレスをした半グレが立っていた。

「売人なんだってな。困るなあ、ここで商売されちゃ」

 男は煙草を口に加えながら藤田の胸ぐらを掴み、ハイテーブルの椅子から引きずり下ろす。

 男はそのまま藤田を引きずり、階段を上がった先のVIPルームの扉を開ける。部屋の中には、10人以上は座れそうなローテーブルとソファがあり、黒を基調とした服を着た男達が、ほとんどの席を埋めていた。

 妙な香り漂うその空間では、女と男が入り交じり微かな笑いも起きている。それなのにも関わらず、どす黒く重い空気を感じる。こちらの気配に気付いたのか、男達は一斉に藤田のほうを見る。冷たい視線を浴びた藤田は、少しの冷汗をかき、視線を反らした。

「連れてきました」

 男が藤田を部屋の中央に投げると、奥の男が口を開く。

「おまえ、藤田か」

 男の一言で、部屋の空気が一瞬で凍りついた。

 藤田はその声をはっきりと覚えていた。あの日の記憶が、頭の中で何度も繰り返す。

「なんだおまえ出てきてたのか」

 男が薄ら笑いを浮かべると、藤田はゆっくりと顔を上げ、男めがけて突然飛びかかった。

 周りの男達をかき分け、奥の男に拳を振り下ろそうとしたその時、藤田の腹に強烈な蹴りが入る。そのまま、部下と思われる男に、床に押し倒される。

「桜庭、この野郎。見つけたぞ、見つけたぞ。おまえを許さないからな」

 藤田は、物凄い剣幕で桜庭を睨み、指をさす。

 瞳孔は開き、呼吸が荒い。上に乗る男を振り落とそうと、全力で抵抗するが、藤田にそれは叶わなかった。

「まあまあ、落ち着けよ。ところでおまえ、俺の縄張りでなにやってくれてんだ」

 桜庭は、藤田に馬乗りになっている男に指で合図を送る。

 男は藤田を立たせ、藤田の両手の親指を後ろに回し結束バンドで固定した。

「酒を飲みに来ただけだ」

 藤田は言う。

「嘘つくなよ、うちの若いのがおまえにハッパ売りつけられたって言ってたぞ」

 桜庭は、深いソファから立ち上がると藤田の目の前に来た。

「持ってねえよ、売りつけてもねえしな」

 藤田は桜庭を睨む。

 その顔を見た桜庭は藤田の首を掴み、壁に叩きつける。

「いちいち口答えするんじゃねえよ」

 桜庭は藤田の腹に、膝を入れた。

 藤田の体は少しだけ宙に浮き、次には両膝をついて床に頬を強打する。

「おまえもう俺の前に現れるなよ」

 桜庭は藤田の髪の毛を鷲掴みにする。

 それでも桜庭を睨み続ける藤田は、桜庭の顔面目掛け唾を吐いた。鷲掴みにされた頭部は、そのまま壁へと一直線に動く。

 鈍い音が部屋中に響いた。

 顔にかかった唾をおしぼりで拭きながら、床に縮こまる藤田の腹に、間髪入れずにつま先をねじ込んでゆく。藤田はまるで、赤子のように体を丸め、意識が朦朧としている。この部屋には相当な人がいるはずだが、桜庭以外の声は一切聞こえなかった。

「おい、藤田。おまえ売ってたんだよな」

 尚も藤田に質問を続ける桜庭だが、藤田に答える気がないのだと判断したのか、入口付近の男に再度合図を送る。

 すると男は、そそくさと部屋から出ていき、ものの5分もしないうちに戻ってきた。なんとその男が連れてきたのは、健人だったのだ。

「ああ、来たね。君は藤田とお友達かな」

 桜庭は、藤田の頭を踏みつけながら聞く。

「は、はい。お、お友達です」

 健人は突然の出来事により頭が混乱し、パニックになっている。

「まぁ緊張しないでさ、そこに座ってよ」

 桜庭は健人に座るように促した。

 健人はベトベトになった手のひらを強く握ると、その場にゆっくりと正座する。

「君良い子だね。ところでさ、藤田とハッパかなんか売ってたよね」

 桜庭は、健人の前まで来るとしゃがみ込み、下を向く健人の顔を覗き込んだ。

「い、いえ売ってません」

 健人は怯えている。

「売ってたよね」

 桜庭はさらに畳みかける。

「いえ」

「おい、嘘つくなよ」

 桜庭は健人の頬を軽く叩く。

「嘘じゃありません」

 叩かれたことへの恐怖から、健人の歯は震え始めた。

「おい、耳までおかしいのか。売ってたよな、な」

 桜庭は健人の耳を引っ張る。

「本当に売ってないです」

 とうとう泣き出してしまった健人に、桜庭はさらに追い打ちをかける。

「おまえな、俺がなんで怒ってるのかわからなくなっちゃうじゃん。周りに示しがつかないだろって言ってんの」

 桜庭は健人の髪を掴む。

 桜庭が握り拳を作った時だった。

「売ってねぇって言ってるだろ」

 藤田が、ボロボロになった体を壁に押し付けながら立ち上がる。

「なんだよ」

 桜庭は藤田を睨む。

「そんなことよりおまえ随分羽振りがよさそうじゃないの」

 息を切らし、血を床に吐きつけた藤田は言う。

「まあな。おまえが残した名簿のおかげだ」

 桜庭はニヤついた。

「嫌な予感がしてたんだ。やっぱりおまえ、あの顧客名簿の写しかなんかを持っていたんだな」

 藤田は壁に寄りかかる。

「そういうことだ。うまい汁は沢山吸わせてもらったよ、今頃おまえの客達は泡でも吹いて死んでるんじゃないか」

「どういうことだ」

 藤田は目を見開く。

「あいつら脱法ハーブからなにから見境なく手を出すからよ、一人ひとりパンクさせてやったよ。まあ今じゃ脱法ハーブ買う金もねぇだろうし、どっかで死んでると思うぜ。結局のところおまえの名簿はもう紙屑同然ってことだよ」

 桜庭は笑い出す。

 桜庭の耳を疑う発言に、藤田の堪忍袋の緒が切れた。両の手が塞がっていることなど気にもせず、桜庭の方へと足を踏み出す藤田だが、そのままバランスを崩し、前のめりに突っ込んでゆく。

 その光景を見ていた周りの男たちが藤田を止めようと一斉に走り出した。遠い距離から飛び込む者、ぎりぎりのところまで手を伸ばす者、驚いて目を伏せる者。その中で尚泣きじゃくる健人だが、彼の耳には『大きな鐘の音』が聴こえた気がした。

 そう、藤田の頭は桜庭の顔面の中心である鼻の骨を砕き、歯を折り、見事なまでに桜庭を突き飛ばし失神させたのだ。突き飛ばされた先には健人がいたため、桜庭が上に覆いかぶさった健人も、状況を理解できないまま失神してしまった。

 藤田はそのまま床に倒れこむと、歯を食いしばり覚悟を決める。彼がその部屋で最後に見たものは、数えきれないほどの靴底だった。

麻衣との出逢い

「桜庭さん、警察です」

 何者かがドアを開け叫ぶと、藤田を踏みつけていた男達は、桜庭を連れフナ蟲のように部屋を後にする。

 残された女たちも一目散に部屋を出てゆくと、突然静寂が訪れたその場所には、失神した藤田と健人の姿だけが残った。テーブルはひっくり返り、床には割れたグラスや皿、菓子などが散乱している。そんな中で、橙色の照明に照らされ大の字になっている二人は、どこか勝ち誇ったような表情をしていた。

「起きて下さい、藤田さん」

 黒い帽子を深く被った人物が、藤田の肩を揺する。

 揺すれど揺すれど目覚める様子がないため、その人物はまだ中身のあるグラスを探し出し、藤田の顔面目け勢いよく残っていた酒をかけた。

「ぶはぁ」

 藤田は地上での溺死を阻止するためか、本能的に意識を取り戻す。

「藤田さんお久しぶりです。私です、麻衣です」

 麻衣というその人物は、帽子を取り自分の胸元に片手を置くと、虚ろな目をした藤田に訴えかけた。

「うん。ああ、麻衣ね、麻衣」

 藤田は、ぼおっとしながら答える。

「本当に分かってますか」

 麻衣は腕を組み、頬を膨らませた。

「麻衣、とにかくこの結束バンドを切ってくれないか」

 藤田は寝ころびながらも体制を横向きにし、間もなく紫色になってしまいそうな親指を見せる。

 驚いた表情をした麻衣は、急いで自身のバッグから小さなハサミを取り出し、結束バンドを切り藤田を座らせた。

「大変でしたね。最近の桜庭先輩にはほとんどの人が愛想を尽かしていたんですよ、やりすぎだってね」

 麻衣は言う。

「そうだったのか、あいつがどこに行ったか知らないか」

 藤田は聞く。

「桜庭先輩達は、私が警察が来たと《《ホラ》》を吹いたら一目散に逃げていきましたよ」

 麻衣はにこにこしていた。

「そうか、麻衣が助けてくれたのか、ありがとう」

 藤田はぎこちないながらも頭を下げる。

「もう、藤田さんらしくないですよ、さぁ行きましょう」

 麻衣はそう言うと、藤田の肩を担ぎその場に立たせた。

「麻衣。俺は大丈夫だから、あそこにいる男を起こしてあげてくれないか」

 藤田は、未だに失神を続ける健人を指さす。

「藤田さんのお友達ですか。ちょっと待ってて下さい」

 麻衣はそうゆうと、中身の入ったグラスを探し出し、健人の顔面の上に持ってゆく。

「おまえもしかして、俺にも同じことを...」

 藤田が質問しようとした瞬間、麻衣の持つグラスは手から滑り落ち、まっすぐ健人の鼻目掛け落下を始める。

 藤田と麻衣は瞼を大きく見開き、顎が外れんばかりの大口を開けた。まるで時が止まったかのような感覚。グラスは無回転のまま下降し、健人の鼻のてっぺんに直撃した。

「いてっ」

 鈍い音と同時に健人は鼻血を垂らし、なぜか後頭部をさすりながら起き上がる。

「ご、ごめん」

 麻衣はすかさず、健人の鼻にハンカチをあてた。

「え、なに、誰」

 健人は驚き、後ろに仰反る。

「大丈夫だよ、健人。《《確か》》俺の高校時代の後輩だよ」

 藤田は言う。

「《《確か》》って、やっぱり藤田さん覚えてなかったんじゃ」

手を健人の鼻にあてていた麻衣は、藤田を睨んだ。

「いや、そうだよな。高校の時の後輩だよな」

 藤田は麻衣を指差すが、麻衣はムスッとした顔をする。

「すまんすまん」

 藤田は頭を掻き謝罪した。

「藤田さん、なにもわかってないじゃん」

 健人が呆れ声で言う。

「う、うるせえな。人間なんだし忘れることもあるだろう、さあ帰るぞ」

 藤田は入口のほうへと、先に歩きだす。

「足元悪いから、肩貸すよ」

 麻衣は、健人の腕を肩に回そうとした。

「大丈夫、大丈夫。一人で大丈夫」

 健人は、麻衣の善意を断り歩きだすが、さっそく一つ目の障害物の『倒れたソファ』でつまずく。

「大丈夫じゃないでしょ」

 麻衣はそうゆうと、無理矢理健人の腕を自分の肩に回した。

「あ...りがとう」

 健人は顔を赤らめる。

 そんな二人の姿を、藤田は優しい顔で見ていたのだった。外に出た三人は、長椅子にこしかけ、夜風に当たりながらタクシーを待っていた。

「なぜ俺たちが、あの部屋にいるとわかったんだ」

 藤田は麻衣に聞く。

「なぜって、私も初めからあの部屋にいましたもん、桜庭先輩が失神した隙に、部屋を飛び出したんです。一度は逃げようかと思ったんですけどね」

 麻衣が遠くを見つめながら言う。

「なんで逃げなかったの」

 健人が横から声をかける。

「藤田さんは覚えてないかもしれないですけど、私、藤田さんに助けて頂いたことがあるんですよ」

「俺に。いつの話だろう」

 腕を組み、空を眺めながら考え込む藤田。

「レストランでのアルバイトの途中でした。夜だったので店内は騒がしく、お店自体もバタバタしてました。そんな中、桜庭先輩と藤田さんがいらしたんです。桜庭先輩はよく知っていましたし、桜庭先輩といる藤田さんも何度か見たことがありました」

 藤田と健人が興味津々に話を聞いている中、麻衣は語り始めた。

「二人をお席に案内し、水をお持ちしようと二人のもとに戻る時でした。突然近くの席のお客さんが立ち上がったせいで、その水をお客さんの頭に被せてしまったんです」

 麻衣は申し訳なさそうに話す。

「麻衣は水をかけるのが好きなんだな」

 藤田は麻衣を小馬鹿にした。

「そういう訳じゃありませんよ。偶然です」

 麻衣は再度頬を膨らませる。

「そうしてどうなったの」

 続きが気になる健人は聞く。

「それで、そのお客さんは...当たり前ですけど、私に怒鳴ってきました。私が悪いので何も言い返せずにずっと黙っていたんです。するとそのお客さん、どんどん酷い言葉を言うようになって、最終的には私の髪の毛を掴んできたんです」

 麻衣は身振り手振りで藤田と健人に伝えている。

 藤田と健人は、食い入るように麻衣の話を聞いていた。

「ああ、殴られるんだなと思った時でした。藤田さんが現れて、そのお客さんの手を、私の頭からそっと離したんです。どうやってやったのかは分かりません。ただあの時の藤田さんは、そのお客さんになにか耳打ちをしていました」

 麻衣が必死に話すも、藤田はまだなにも思い出せずにいる。

「そんなことあったかな。全然覚えてないや」

 藤田はぽかんとしていた。

「麻衣さんがここまで話しているのに、まだ思い出せないなんて、藤田さんは本当に鈍感だよな」

 健人はさらに呆れる。

「たぶんなにか怖い事を言ったのでしょう。当時の藤田さんと桜庭先輩は地元じゃ有名な悪人でしたからね」

 麻衣は微笑した。

「悪人って藤田さんのことでしょ。やっぱり悪い事いっぱいしてたんじゃん」

 健人が言う。

「悪人だなんて失礼だな。少し幅を利かせてただけだろ」

 藤田はそういうと麻衣を見る。

「二人とも、人が嫌がるようなことをする人ではなかったです。ただし仕事に関しては相当な悪人で、別の先輩達も『二人には気を付けろ』と忠告をしてきたほどでした。そんなこともあり、あの時の恩返しになるかなと思い、今回活躍させていただきました」

 麻衣は照れ笑いを浮かべる。

「そんなことがあったんだ。過去に恩を売っておいてよかったね」

 健人が笑いながら藤田の肩を掴んだ。

「そうだな、ほらタクシーが来たぞ」

 藤田が指さす先には、社名表示灯を光らせた黄色いタクシーがやってきた。

 三人の目の前で止まると、タクシーの窓が開く。

「乗るかい」

 運転士が運転席から、こちらに向かって声を出している。

「乗ります、麻衣はどうする」

 健人を先にタクシーに乗せると、藤田は麻衣に聞く。

「いえ、私はお二人と逆方向なので一人で帰ります」

 麻衣はそう言うと、藤田と健人が乗ったタクシーのドアが閉じるのを見守った。

「明日の昼頃、よかったら一度うちに顔を出してくれないか。桜庭の事で聞きたいことが山ほどあるんだ」

 藤田は窓を全開にし、麻衣に福沢諭吉を一枚渡しながら言う。

「ありがとうございます、わかりました。明日のお昼ですね、では藤田さん、健人君おやすみなさい」

 藤田から、連絡先と住所を一緒に受け取った麻衣は、そのあとすぐ後ろに待機していたタクシーに乗り込み、家路へと向かうのだった。

SNS活用法

 翌朝、自宅の畳の上で目を覚ました藤田は、全身の激痛に独り悶えていた。

「痛い、痛すぎる...」

 藤田は洗面所の鏡の前で、パンパンに腫れあがった顔と、青黒い腹の痣に氷を当てている。

 桜庭と、その付き人達に派手にやられたこの傷や痣は、藤田のやる気を削ぐわけではなく、反対に藤田をさらに熱くさせた。朝食を取ろうにも口の中はズタズタで、食欲すら沸かない。

 藤田は麻衣が来るまでは畳の上で寝転んでおくことにした。両手両足を伸ばしたその時。

ドンドンドン。

 誰かがドアを叩いた。藤田は体が動かないことを理由に、立ち上がるのを辞め、居留守を使うことにする。麻衣が来るにしては早過ぎる、もしかして健人かと思った矢先。

「藤田さんおはよう」

 健人だ。

 案の定健人だった。

「鍵閉めてないぞ」

 藤田は寝ころびながら言う。

 健人がドアノブをガチャガチャと回し、部屋に入ってきた。

「藤田さん不用心過ぎるよ。怖い人でも入ってきたらどうするの」

 そういった健人は、大量になにかが入ったビニール袋を、藤田の近くに置いた。

「なんだこれ、中見てもいいか」

 藤田は重い体を起こすと、袋の中身を確認する。

「店員さんに適当に選んでもらったんだけど、どうかな」

「健人、助かるよ。ありがとう」

 藤田は、袋の中に入っていたゼリー飲料を手に取り、蓋を投げ捨てると口元にゆっくり近づけ吸った。

「どうかな。食べられそうなものあったかな」

「沢山あるよ。いやぁ本当に助かる」

 藤田はゼリー飲料を口に咥えたまま、にこにこしながら袋の中を再度漁り始める。

「よかった。それはそうと、今日は麻衣さんが来るんだろう。麻衣さんにどんなことを聞いて、どんなことを話すのか共有しておきたい」

「とりあえず桜庭が俺がいない間、どれだけ動いていたかだな。奴は顧客名簿の事を紙屑だと言った。俺が推測するに、名簿に載っている客達は全部桜庭に持っていかれているだろう」

「じゃあどうするの」

「どうもこうも作戦は変わらない。名簿に載っている客が桜庭に薬漬けにされていたとしても、俺達の『GreenClack』には、そいつを癒す効果が必ずあると思っている。まずは名簿の人から順番に救っていき、金を調達しよう」

 藤田は袋の中から温泉卵を見つけると、一つ手に取り、殻の上部のみを器用に割った。卵の殻をコップのようにし、中身を飲み込む。

「そうだね、まずはどんな状況かを知る必要があるね」

 健人は頷く。

「とりあえずは、麻衣が来るまで休ませてくれ。一度健人の部屋へ行こう」

 藤田はそう言うと立ち上がり、玄関へと歩き出す。それに続いて健人も部屋を出た。

「おい健人、なんで鍵なんてかけてるんだよ」

 藤田は、健人の部屋のドアの前で待っている。

「鍵をかけるのは普通のことだと思うけど」

 健人はそう言うと、ポケットから鍵を取り出しドアを開けた。

 部屋に入り玄関ドアの内側に鍵を掛けると、靴を脱ぎ、そのまま暗闇の中へと消えていく。

「おい、暗いだろ。暗いと悲しいだろ。電気をつける事こそ、普通ことだと思うぞ」

 暗闇に消える、健人の後ろ姿を見た藤田は思わず言った。

「ごめん、ごめん。俺には必要ないんだってば」

 暗闇から姿を見せた健人が、笑いながら謝る。

「電気つけるぞ」

 間取りは藤田の部屋と同じため、電気の場所はすぐに分かった。

 藤田は天井から垂れた紐を引くと、そのまま健人の母の部屋の前まで行き襖を開く。襖から漏れ出る光は、健人の部屋をさらに明るく照らす。この部屋だけは常にカーテンは開かれ、GreenCrackに新鮮な太陽光を浴びせているのだ。GreenCrackの葉を触り、良好な状態を確認すると、鉢の前に座る。

「売る分は残しておいてね」

 健人はそうゆうと藤田の横に座った。

「おまえも巻いてみるか」

 ポケットから紙を取り出した藤田は、それを健人に渡す。

 普段から巻き慣れていた藤田は、簡潔にジョイントの作り方を教える。健人は5分ほど練習をしただけだったが、あっという間に形になった。

「すごいな」

 藤田は健人の作ったジョイントを持ち、まじまじと見つめると、その完成度の高さに感動していた。

「子どもの頃から手先だけは器用なんだよね」

 健人は照れ笑いをしている。

「始めはだいたい失敗して、ぐちゃぐちゃになるんだけどな。さあ吸おうぜ」

 藤田は手に持ったジョイントを健人に渡した。

 健人は慣れない手つきでライターの砥石を擦ると火が灯る。ゆっくりと口に咥えたジョイントに火を移すと、あの芳醇な香りが鼻から全身に広がる。

「やっぱり良い香りだよね。どんなものにも代えがたい」

 健人は藤田に渡すと壁に寄りかかり、GreenCrackを堪能した。

「疲れが吹っ飛ぶよ」

 藤田も煙を吸い込むと健人の横に並ぶ。

「藤田さんは、金持ちになったらなにをするの」

 健人が聞く。

「そうだな、まずはデカい家に住む。それから好きな車に乗って、毎日音楽を流して、毎日ホームシアターで映画を見る」

 藤田は嬉しそうに話した。

「藤田さんは典型的な成金になりそうだね」

 健人は笑う。

「そういうおまえはなにがしたいんだよ」

 藤田が健人の肩を叩く。

「俺は世界を旅してみたい。たくさんの国に行って、沢山の人と話してみたい」

 そう話す健人の声には力を感じる。

「おまえデカい夢もってるんだな」

「夢くらいデカくないとね」

「確かにそうだな。じゃあ俺の夢は日本一の金持ちになることだ」

「楽しみにしてるよ、そうなったら旅費は藤田さんに出してもらおうかな」

「まかせろ」

 暖かい雰囲気の中、しばらくの間夢について語り合う二人は、大麻のおかげで心まで休息した感覚になっていた。

「もうこんな時間か。健人も来いよ、麻衣が来るぞ」

 藤田は時計を確認して立ち上がる。

「うん」

 健人も立ち上がり、二人は部屋を出ようと玄関まで来た。

 健人がドアを開くと、丁度ドアの前に麻衣の姿があった。

「うわっ」

 麻衣は、健人が突然目の前に現れ驚きで後ずさる。

「驚いたぁ」

 麻衣は胸を撫でおろす。

「あ、ごめんなさい。麻衣さん...かな」

 健人は麻衣のほうに手を伸ばす。

「大丈夫、大丈夫」

 麻衣は健人の手を掴み、体制を立て直した。

「麻衣よく来たな。俺の部屋は隣なんだが健人の部屋でもいいか」

 藤田はそう言うと、麻衣を健人の部屋へと案内する。

「今お茶を出すから待ってて」

 健人は冷蔵庫を開け、自家製の麦茶を取り出した。

 それを受け取った麻衣は話し始める。

「さぁどこから聞きたいですか」

 正座をし、藤田と目を合わせた。

「さっそくだが、麻衣は桜庭とどのくらい一緒にいたんだ」

「桜庭先輩とは、私も高校を卒業して少し経ってから、偶然昨日二人がいたクラブで会いました。久しぶりに見た桜庭先輩はなんだか人が変わったような出で立ちで、高校時代の優しい雰囲気はなかったです」

「そこで桜庭に話しかけられたのか」

「はい、そうでした。先輩は私に脱法ハーブをやるかと聞いてきたんです。もちろん断りましたが、売り慣れているような感じがしました」

「売り慣れてたか。もうその時点で顧客は完全に奪われていた可能性があるな」

「あの時話してた内容ですね」

「そうだ。なぜ桜庭は大麻から脱法ハーブを売るようになったんだろう」

「大麻と脱法ハーブってなにが違うの」

 健人が水を差す。

「脱法ハーブは危険ドラッグとも言われている。簡単に説明すると乾燥した植物に化学合成物質なんかを染み込ませたものだな」

 藤田が説明する。

「私の友達なんかは脱法ハーブを大麻だと説明されて吸ってしまって、嘔吐した後救急車でした」

「大麻とは違う効果なんだね」

 健人が言う。

「大麻は自然由来だぞ。北海道にだって茨城辺りにだって自生してる。それとは真逆で、脱法ハーブはまさに《《薬物》》って感じだ」

「なるほど」

 健人は少し理解したようだった。

「脱法ハーブなんて絶対にやるなよ、下手したら死ぬからな。さあ、話を戻そう」

 藤田が脅すように言うと、健人は生唾を飲んだ。

「はい。桜庭先輩は藤田さんが捕まってから、ガラの悪い人たちと付き合うようになったみたいで...もしかしたらその辺りに脱法ハーブを売るきっかけがあったのかも」

「そうだったのか。俺を騙してからなにかあったのか、それともそいつらにそそのかされて俺を騙したのか...」

「桜庭先輩が藤田さんを騙した話、少しだけしてくれませんか」

 麻衣が真剣な顔で藤田を見る。

 藤田は健人に話したように、麻衣に当時の出来事を話す。話に夢中になった二人は、藤田が悲しそうに話していることにうっすら気付いたのだった。

____________________________________________________________________________

「そんなことがあったんですね。レストランで見たときはあんなに仲が良さそうだったのに」

 麻衣は腕を組み考え込む。

「お金だけで人はそんなにすぐに変わってしまうのかな」

 健人が悲しそうに言う。

「分からん。桜庭との関係はそんなものだったとは思えなかったんだよな」

 藤田は一瞬悲しそうな表情をした。

「もしかしたらなにか理由があるのかな」

 麻衣は言う。

「理由か、俺も実は考えたことがあるんだが、本人に聞いてみない限りなんともな」

「藤田さん。今日からその名簿のお客さんに会いに行く予定だったでしょ。問題が解決出来るきっかけがあるかも」

 健人が言う。

「会いに行くんですか。わざわざ今の時代に手押しするんですか」

 麻衣は驚く。

「手押し以外じゃ、買い手なんてつかないだろ」

 藤田は言う。

「そんなことないですよ。今じゃSNSで売買は若者の間で普通ですよ」

 麻衣はそう言うと自身のスマホを取り出し、SNSの画面を藤田に見せる。

「本当だ。すごいな」

 刑務所に入る前の世界とのギャップに、藤田は驚きを隠せなかった。

「とにかく私は、前の顧客には会いに行く必要はないと思います。桜庭さんのグループが関わっている人達にはろくなひとはいませんし」

 麻衣は、藤田と健人のことを気遣うように言う。

「確かに、桜庭の息がかかったやつがまだいるかもしれない」

 健人も麻衣に同調する。

「その可能性は確かにあるが、チャンスだと思わないか」

 藤田は腕を組み考える表情をした。

「どんな」

 健人は聞く。

「未経験の人よりはリピーターになりやすいだろ。俺等の『GreenCrack』で苦しみを緩和出来ないかな」

 藤田はひらめいたように言う。

「それより、藤田さんやっぱりまた売ってたんだ。桜庭先輩に知られたら厄介な事に...」

 麻衣は心配していた。

「大丈夫だよ。バレないようにやるさ」

 藤田は能天気に答える。

「こっちも怖い人がついてるもんね」

 健人が言う。

「怖い人って。まさか二人もやばい人と付き合ってるの」

 麻衣は二人に目を向ける。

「やばい人ってわけじゃないけど、まあ麻衣は知らなくて良いことさ。ところでどうやってSNSで販売するんだ」

 藤田はそうゆうと麻衣にスマホを借り、慣れない手つきで画面をスクロールした。

「簡単ですよ、貸してください」

 麻衣は藤田からスマホを受け取ると、淡々と手順について説明をした。

 長い間外の世界を知らなかった藤田でも、しっかりと理解できるような丁寧な口調でだ。

「プレゼント企画とゆうものがあります。ネット上で販売している人が新規顧客獲得のために無料で大麻なんかをプレゼントしてるんです。比較的当選確率は高いですし、買うきっかけになりえます」

 麻衣は言う。

「こうやって新規顧客ができるのね。藤田さん、やっぱり明日直接行く意味ないような」

 健人が聞く。

「あるさ。ただ売りつけにいくわけじゃない。俺が今まで関わりのあった顧客達がどんな状態なのか知りたいんだ」

 藤田は言った。

 藤田の真剣な目に黙り込む二人。その後、ある程度の演説を終えた麻衣は二人の方を向く。

「す、すごいね麻衣さん。俺にもすごく分かりやすいよ」

 健人が驚き自然と拍手をしていた。

「分かりやすかったな」

 藤田もつられて拍手をする。

「健人君、麻衣でいいよ。私たち多分同い年くらいだと思うんだよね」

 麻衣はそう言いながらも、少し照れたように頬を赤くしていた。

「というか、麻衣って何者なの」

 健人が聞く。

「実は私、桜庭先輩のところで売買担当をしていたことがあるの。マーケティングだったりSNS運用もしてた経験がある」

 麻衣は言う。

「だから桜庭と一緒にいたのか。でもそんなことならここにいて大丈夫なのか」

 藤田は麻衣の顔を見た。

「大丈夫かどうかは分かりませんが、私は途中で担当自体は外してもらったんです。桜庭先輩が脱法ハーブを本格的に売るようになった時に、もうこの人にはついていけないと思いました」

 麻衣は悲しそうだ。

「そうだったのか。昔のあいつなら脱法ハーブを売りつけるような真似はしなかったんだけどな。なんにせよ、よく俺のところに来てくれた。桜庭みたいな思いはさせないから、是非今後も協力してほしい」

 藤田は軽く頭を下げる。

「そんな、頭を上げて下さい。もちろん協力はします。言ってしまうと、藤田さんなら桜庭先輩の暴走を止められるかもと思ったんです」

 麻衣は言う。

「止められるかは正直分からん、このザマだしな」

 藤田は両手を広げた。

「たまに、いや、ごく稀にですが、桜庭先輩は藤田さんの話をすることがあったんです。藤田さんの話を直接するとゆうよりは、昔の話をしていると藤田さんが登場せざるを得ないと言いますか」

「あいつとは色々な事をやってきたからな」

「色々な事か。俺もちょっと聞いてみたい」

 健人が言う。

「なんで大麻を栽培しようと思ったんですか」

 麻衣が前のめりになって聞く。

「俺らが大麻栽培を始めたのは、映画の影響だった。桜庭も俺も映画が好きで、よく二人で観てたんだよ。中学の時に観た映画で、印象的だった映画があるんだよ。その映画では、大麻をまったく悪いものとして扱ってなかった。現代の日本と比べた俺たちは驚いたよ」

「まさか、映画の影響...」

 健人が驚いた表情をする。

「そうだよ、悪いかよ」

 藤田は少しふてくされた。

「健人、当時は藤田さんも桜庭先輩も中学生だから」

 麻衣はにやにやしている。

「そうゆう年頃だったんだよ。その映画がきっかけで大麻関係の映画をざっと観たんだが、どれもこれも悪いようには描かれていなかったんだ。俺は確信したよ。大麻は悪なんかじゃないって、それ自体は桜庭とは意見が一致していたんだ」

 藤田が言う。

 二人は真剣に藤田の話を聞いていた。

「二人でやっていこうってなった時に、あいつはどこからか大麻の種を仕入れてきた。俺はどこから仕入れたのか聞いたんだが、あいつは一切答えようとはしなかった。結果その種が無事に育ち、株が増えてきたことによって気にしなくなっていったんだけどな」

 藤田は話を聞く二人に目をやるが、健人も麻衣も、まだしっかりと話を聴いてくれているようだったので、そのまま続けた。

「花が咲いて、いざ販売しようとゆうところだった。初めてのビジネスで、あいつとの方向性の違いに気付いたんだ。あいつは自分の利益のことしか考えてなかった。その時にしっかりと話し合うべきだった。当時は二人の考えの間をとって、なんとかビジネスをしていたが、最後にとうとう限界がきたのだろう。と、まぁこんな感じだ。確かに昔話には、どうしても桜庭は登場してしまうな」

 藤田は笑いながらも少し悲しそうだ。

「方向性の違いに、後になって気付くのって大変なことだよね」

 麻衣は言う。

「だからお前たちに会えて本当によかったと思ってる。今回こそは失敗しないように、しっかりと話し合いをしような」

 藤田は二人を鼓舞した。

「そうだね。俺も言いたいことがあれば言うようにするよ。よし、それじゃあ三人がまとまったところでさっそく本題に入ろう」

 健人がこの場を仕切った。

 麻衣の説明を聞き、SNSで売買することへのハードルが下がった藤田は話し始める。

「SNSでの販売がこんなにも簡単だと心配になるし、もちろんリスクもあるかもしれない。ただ売上は格段に増やせるだろう」

 藤田は少しだが警戒していた。

「そうだね、それも踏まえると少しずつ顧客を増やしていくのが得策だね。とにかく今日一日は藤田さんは顧客巡り、俺は『Green Crack』の加工の続きを。麻衣はさっそくだけどSNSで宣伝をしてくれると助かる」

 健人が言う。

 健人に仕切られた藤田と麻衣は納得し、麻衣は健人の部屋に残る。藤田は健人の部屋を後にするのだった。

田中

 そんなこんなで一人行動となった藤田、まずは自分の部屋へ行き顧客名簿を手に取った。

「この名簿はほぼ紙屑同然だが、少しでもなにかを知ることが出来れば、きっと今後役に立つはず」

 藤田はリュックに名簿と、先ほど健人の部屋から持ってきた5グラムほどの大麻を入れると、部屋を出た。

 鉄骨階段を下り、道路の方までゆく。駅までの距離はおよそ徒歩15分、電車に乗り、以前の顧客に会いに行くのだ。

 まずは一人目の顧客の【田中】

 田中は当時25歳くらいで既婚、男。愛想が良く文句ひとつ言わないような良い客だった。少しだけだが信頼できそうな気がしたため、藤田は田中を一番に選んだのだ。田中の住む駅に到着した藤田は改札を出る。名簿に記した通りの道を進み、久しぶりにこの街に来た。

 直接売買をしていた頃は、よく来ていたのだが、あれから八年も経つ。ガラッと変わった風景の中に懐かしさを探すのは至難の業だ。

 しばらく歩き、田中の家の前に辿り着くと、インターホンを三回連続で鳴らし、玄関から離れ、田中が出てくるのを待つ。これが秘密の合図として、名簿に記されていた行動だ。家族にバレないように田中なりの策略なのだろう、逆に怪しいと思うが。

 遠くから玄関の様子を見ていると、ドアがゆっくりと開き、以前見た顔がひっそりと顔を出す。

(間違いない、田中だ)

 藤田は家のドアの方へと歩き出す。

「田中さん」

 藤田は会釈する。

「君は、藤田君か。懐かしいな、長い間一体どこに行ってたんだい。まさか捕まってたりして」

 田中が言う。

「そのまさかです。ご心配かけました。その後はどうでしたか」

 藤田は田中を気遣う。

「え、そうだったのか...冗談のつもりだったが。いや俺も、もうおっさんになってしまったよ。あることがきっかけで家族にも逃げられて、ものすごく悲惨な人生さ」

 田中の顔は急に暗くなった。真っ黒な泥水に顔を押し付けたような顔だ。

「あることって、もしかして脱法ハーブとか」

 藤田は核心を突く。

「え...」

 田中との間に沈黙が広がる。

 この沈黙が全てを物語った。田中は脱法ハーブに手を出しているのだろう。

「そんなもんやってないよ、脱法ハーブなんてダサいだろ」

 田中の顔面は青くなり、大量の脂汗が出ている。

「ハンカチいりますか」

 藤田は冷静に問う。

「いらないよ、ありがとう。ところでなんの用なのかな。世間話なら早く帰ってもらいたいのだけれど」

「そういうわけじゃありません。ここにはしばらく俺じゃない誰かが来てたはず。どんなやつだったか覚えてないですか」

「藤田君が来なくなってから、少ししてね、初めの頃は、確かに知らない男が大麻を売りに来たよ、当時の君と丁度同じくらいの子だったね」

「桜庭とかって言ってませんでしたか」

「名前は聞きそびれたけど、藤田君の代わりだと言っていたね」

「他に何か変わったことがあれば、教えてほしいのですが」

「そうだね。藤田君から買うよりも高かったよ。少しだけどね」

「そうでしたか。田中さん、これ」

 藤田はそう言うと、リュックからGreen Crackを取り出し田中に見せた。

「おお、これはいいね、見た目からして上物だろう。で、これを売ってくれるのかい」

 田中は藤田から大麻を受け取る。

「売ります。ですが次回からはSNSでの連絡になると思いますので、リピートの際は、よろしくお願いします」

「郵送だろ。最近じゃこうやって会いに来る人の方が少ないんだから、住所さえ分かればいいんだろ」

 藤田より田中のほうが、売買に関する知識があるように感じる。

「口座番号はこれです」

 藤田は解体屋で働いていた時の、口座の番号を渡す。

「ありがとう。それでこれはいくらなのかな」

 田中が聞く。

「1グラム五千円です。相場の割に、質は良いと思いますよ」

「前の彼のとこは六千円だった割には、質はあまり良いように感じなくてね。藤田君のならまだ信頼出来るよ」

「信頼して頂いて構いません。今ならまだ在庫がありますんで、なくなったら連絡ください」

「連絡したいところなんだけど、前教えてもらった番号が消えてしまってね。教えてもらってもいいかな」

 藤田はポケットからスマホを取り出し、田中に番号を教える。

「専用のSNSのページが今日中には完成すると思うので、そうなったらそちらから買ってもらえるとありがたいです」

「わかった。最近は上物の葉っぱなんて全然やってないからなあ、楽しみだよ。財布を取ってくるから待っててくれ」

 田中はそういって家の中へと戻って行った。

 藤田は田中の背中を寂しそうに見つめる。

「家族を失ってしまったのか」

 今後、田中に襲い掛かる苦痛を俺と健人で作ったGreen Crackで少しでも癒すことができるだろうか。

 藤田はほんの少しだが、自信をなくした自分に気付いてしまった。

渡辺ジョー

 田中との取引を済ませた藤田は、再び電車に揺られていた。

 次の客は、当時30代だった山田という独り身の女性だ。彼女は以前から薬物依存に苦しんでいて、唯一藤田と桜庭から買う大麻が、心の拠り所だと言っていた。

 駅を出た藤田は、田中の時と同じようにアパートの部屋の前に到着するが、目の前の光景に驚いてしまう。山田の部屋の玄関前にはゴミ袋が散乱し、鼻を刺すツンとした腐敗臭がする。ドアの郵便受けはパンパンで、この場所に人が住んでいるとは到底思えなかった。

 インターホンを押すとチャイムの音が響くが、人が出てくる気配はない。諦めて帰ろうと山田の部屋に背を向けた時、背後で薄っすらとドアが開くような気配がした。藤田はゆっくりと後ろを振り返ると、ドアの隙間から濁った瞳が、こちらを見ていることに気付く。

 その目に生気はなく、視点も合っていない。藤田は全身の毛が逆立つのを感じた。

「山田さんですか」

 藤田は恐る恐る声をかけるが、声を発した瞬間、山田と思われるその女性は勢いよくドアを閉めた。

「...桜庭はなんてことをしてしまったんだ」

 その光景を見た藤田は、桜庭への怒りがこみ上げ拳を強く握りしめる。

 ここまでになってしまった人はもう手遅れだ。俺らにはどうすることもできない。名簿が紙屑になったというのは、まさか本当にこういう事だったなんて。

「もしかしたら桜庭は変わったのではなく、元から俺が思っていたような人ではなかったのかもしれない」

 藤田は自分の過去を振り返る。

 中学から仲が良くほとんどを桜庭と過ごしていた。ただ、今思い返すと毎日会っていたわけではないし、会わない日に桜庭が誰と、どんなことをしていたかなんて、もちろん知らない。俺にも桜庭以外の友達がいたように、桜庭にも俺以外の友達がいるのは当然の事だ。

 今の桜庭が正気でないと思いたい。学生の頃のあの笑顔が、どうしても脳の片隅にちらつくからだ。桜庭は目の前にいるお年寄りを助けたこともあったし、公園ではサッカーをしていた小学生に交じり走り回っていたこともある。中学では友達も多く、後輩にも慕われ先輩にも可愛がられるような奴だった。

「なにがあいつを変えたんだ」

 藤田は考え込みながらも次の顧客の元へと向かう。

 次の顧客は、隣駅から10分ほど歩いたところに住んでいる。昔は若かったからか、ほぼ毎日のように長距離を歩いていても、疲労はさほど感じなかった。が、今現在、藤田の足は棒のようにガチガチだ。固まりかける足を叩きながら、藤田は歩みを進めると、高層マンションが見えてきた。

 タワーマンションという程でもないが、この周辺ではなかなか階数が多いほうだろう。その高層マンションの最上階に彼はいた。彼とは、テレビドラマにも主演として出演している『渡辺ジョー』だ。刑務所に入る前、偶然クラブで出会ったジョーに、桜庭が大麻を売りつけたことがきっかけで藤田らの顧客になった。

 マンションの前に着くと、エントランスにいる管理人にジョーへの偽の要件を伝える。

「犬の散歩に行かせてくれ」

 変な言葉だが、ジョーが藤田と桜庭のみに使わせた秘密の合言葉だ。

「少々お待ちください」

 管理人はそうゆうとカウンターにある受話器に耳を当て、ボタンを押す。

 呼び出し音がエントランスに鳴り響くと、管理人は話し始めた。

「犬の散歩のかたが...はい。ではお通しします」

 管理人がカウンターにあるボタンを押すと、エレベーターへと続くガラス張りの自動ドアが開く。

 藤田は管理人に会釈し、エレベーターに乗り込む。最上階のボタンを押すと、エレベーターは勢いよく上昇した。

 古いトースターと同じ音が響くと、エレベーターの扉が開く。目の前には豪華な玄関があり、インターホンを押そうとした時だった。

 大きな音を立てドアが開く。

「君は藤田君だね、久しぶり」

 中からは当然ながら、あの『渡辺ジョー』が出てきた。

 当時より少し痩せこけているような感じがする。

「お久しぶりです。ジョーさん」

「とりあえず入ってよ」

 ジョーはそうゆうと、藤田を家に招き入れた。

「お邪魔します」

 この家に入ると、毎度の事だが緊張する。

 なぜなら家中に高級な壺や絵画が飾られていたりするからだ。割ってしまったらどうすることもできない。

 辺りを警戒しながら歩く藤田に、さっそくジョーが質問をしてきた。

「《《もう》》届けに来てくれたのか。早いね」

 ジョーは腕を掻きながら言った。

「《《もう》》ってなんのことですか」

「とぼけないでよ。三日前に注文したじゃん。ハーブだよハーブ」

 ジョーは煙草を吸う素振りをした。

「ああ、ハーブですよね。あいにく今は別のとこで売ってまして、脱法ハーブではなくて、今日は大麻の直販売で提案をしにきたんです」

 藤田はさっそく、リュックからGreen Crackを取り出す。

「そうだったのか。なんだ、楽しみだったのに。でも、もう大麻は買わないと思うよ。普通の大麻はドラッグじゃないでしょ。最近の大麻は安全過ぎて俺は全然ハイにならないの」

 ジョーはそう言いながらも、藤田の手元の大麻を受け取る。

「脱法ハーブは桜庭から買ったんですよね」

 大麻を眺めるジョーの顔を、覗き込むように聞いた。

「初めは桜庭くんだったけど、今は誰か分からないな。郵送で送ってもらっているからね」

 ジョーは落ち着きがなく、家中をうろうろとしながら話している。

「そうですよね、確かに。そっか、それなら久しぶりに直接売買しているってことですか」

「だから突然来たことに驚いたよ。余程良い物を持ってきたんだろうなって。この大麻はなにか特別なのかな」

 そう言うジョーの内側から、ほんの少しだけだが苛立ちを感じた。

「極上です」

 ジョーの苛立ちに屈せず自信満々に言い放つ藤田には、そう言えるだけの自信がある。

 なにも躊躇なく答えた藤田にジョーは驚いたが、サンプルとして試させてもらうと言い、奥の部屋に入ってしまった。藤田は突然一人になり唖然としていたが、ジョーのいない間に部屋を見させてもらおうと歩きはじめる。

「久しぶりに来てもやっぱり広いなあ。当時からあまり配置は変わってないような気がする」

 藤田は、桜庭と初めてこの部屋に来た時の事を思い出していた。

 あの時は桜庭との溝もなく、まだお互いに子どもで、お金持ちになったら二人ともジョーの住むマンションのような家に住もうと誓っていた。夕焼けに染まる部屋を眺め、純粋に二人で楽しんでいた時のことを懐かしむ。ノスタルジックな気分になりながら、しばらくリビングをうろちょろしていると、奥のドアが開く。

「藤田君、これはすごいね。なんか混ぜたのかい」

 目を真っ赤にさせるジョーは驚きを隠せなかった。

「混ぜるなんてそんなことは絶対にしません。うちは作り手の人間が特別なんです、どうですか。1グラム五千円です」

 藤田は鼻を高くして言う。

「買わせてもらうよ。1グラムしかないのかな」

 ジョーは必死だ、なにかから逃げ出すチャンスを掴んだように、もがいているようにも見える。

「今日は後2グラムだったらあります」

「それも売ってくれるかい」

「もちろんです」

 藤田は部屋の窓から差す夕焼けを見ると、今日は引き上げ時だと考え、ジョーに残りの大麻を売ることにした。

「次買うときは藤田君に電話したらいいのかな」

「はい、電話を下さい。ですが次からはSNSでの販売になると思います。うちも郵送での扱いにしようと考えていまして、今日中には専用のページが完成します」

 藤田はそう言うと電話番号をジョーに教える。

 確実な手応えを感じた藤田は、ジョーのマンションのエレベーターに乗ると小さくガッツポーズをするのだった。

快調

 アパートに着いた藤田は、恐る恐る健人の部屋のドアをノックした。中でなにかの最中だと、大変気まずい状況になると思ったからだ。

「藤田さん、おかえりなさい」

 ドアの前でたじろいでいると、ドアが開き麻衣が出てきた。

「おう、SNSはどうだ」

 藤田は靴を脱ぎながら聞く。

「調子良いですよ。私をだれだと思ってるんですか」

 麻衣は、やけにご機嫌のようだった。

「あ、藤田さんおかえりなさい」

 奥の部屋から健人の声がする。

 真面目な健人は、黙々とGreenCrackを1グラムづつに小分けしていた。

「健人、もう外は真っ暗だぞ。《《もくもく》》の仕方が間違ってるんじゃないのか」

 藤田は言う。

「藤田さん上手い事言いますね」

 麻衣は上機嫌だ。

 彼女は、健人にバレないように《《モクモク》》したのだろう。

「そうだね、今日はこの辺で」

 そういって胡座をかきながら、両腕を天井に伸ばす健人。

「なかなかな体験だったぞ。実際もう手遅れな奴もいたが、少しだけでも希望を感じることが出来た」

 藤田はまっすぐに言う。

「桜庭のことは、どうだったの」

 健人は聞く。

「あいつは...元々なにかが欠落していた可能性がある」

 藤田は悲しそうな目をする。

「私が『理由があるかも』なんて言ったからですよね、ごめんなさい」

 上機嫌から元に戻った麻衣は、頭を下げた。

「そんなことないよ。楽しんでたのに悪かったな」

 藤田は謝り、健人の居る部屋へと歩いて行く。

「藤田さん、お疲れ様」

 健人は藤田にジョイントを渡す。

「おつかれ」

 健人に渡されたジョイントを口に咥えると、ポケットのライターで火をつける。

 深く吸い込み、ゆっくりと吐く。今日の疲れが吹き飛ぶようだ。体中の節々が痛んだが、大麻のおかげで少し和ぐ。藤田は麻衣にジョイントを渡すと、壁にもたれ座り込んだ。

「今日は二人だけだったが、今後も順調に顧客は取り戻せると思う」

 藤田は言う。

「それはよかった。明日も同じように頼むよ」

 そう言う健人は『GreenCrack』を肺にため込んだ麻衣から、ジョイントを受け取る。麻衣が煙をゆっくりと吐いている動作とは逆に、深く深く煙を吸い込んだ。

「SNSの運用はこのまま麻衣に任せよう。明日以降はなにかあれば電話なり、メッセージしてくれ」

 藤田は麻衣に向かって言った。

「了解です。あの、少し言いづらいんですけど、たまに吸いに来ても...いいですか」

 麻衣は申し訳なさそうに、体をくねらせた。

 すると突然、健人が立ち上がり「いいよ。毎日でも来ていいよ」と、勢いよく言い放ったのだ。

  だが健人は、3秒程の沈黙の中に迷い込んだ。沈黙の理由は、声の先にいる藤田の姿。意図せず自分に向けられた大きな声に驚いた藤田だったが、敢えて間違いを指摘せずに、にやけながら窓から見える満月を眺める。

「こっちだよ」

 その光景を見た麻衣は、くすくすと笑いながら言う。

「健人、外でタクシーでも拾ってやれよ」

 そういうと藤田は財布から福沢諭吉を出したが、麻衣はそれを見るなり「この間の残りがあるので」と、きっぱり受け取りを拒否した。

「じゃ、じゃあ麻衣を下まで送ってくるよ」

 健人が住み慣れた家で、小さくつまずいたのを藤田は見逃さなかった。

「おう。またな麻衣」

 藤田は壁にもたれながら右手を上げる。

「色々とありがとうございました」

 麻衣は頭を下げると、健人の部屋のドアを閉めた。

 外に出た健人と麻衣。外は予想していたよりも暗かった。麻衣は、健人と歩幅を合わすように歩こうとしたが、暗闇の中でさえ、カツカツと鉄骨階段を下りる健人の速度に、追いつくのが精一杯だ。

「健人、早いね」

 麻衣は息を切らす。

「あ、ごめん」

 健人は、どことなく緊張しているようだ。

 二人は歩道に出ると、タクシーが来るのを待つ。何台も車を見送った二人は、やっとの思いで話し始めた。

「健人は、いつから藤田さんと一緒にいるの」

 麻衣は、少し火照った健人の顔を覗き込んだ。

「そうだな、確か...何か月か前かな。あの人、突然家に押し入ってきたんだよ。信じられないでしょ」

「え、藤田さんって結構強引なんだ」

「強引も強引、どんどん話を進めていっちゃうんだから困るよ」

「そんなことがあったんだね」

 麻衣は笑う。

「でもあの人って、なんか暖かくて、絶対悪い人じゃないってそんな気がするんだよね」

 通り過ぎる車のヘッドライトで、健人の笑顔が照らされる。

「健人がそう思うならきっとそうなんだよ。健人は、私たちなんかよりよっぽど良い目を持ってる」

 麻衣はそうゆうと、健人の両手を握った。

「え...」

 心臓の鼓動が早くなる健人。

「必ず成功させよう。私も全力で協力するから。あ、じゃあ私行くね」

 麻衣が言葉を発したのと同時にタクシーがやってくる。

 タクシーのドアが開いたかと思うと、あっという間に生暖かい風が全身を包み、麻衣を連れ去ってしまった。そんな健人の両手には、麻衣の柔らかく暖かい感触だけが残っていたのだった。

 部屋に戻った健人は、少しの間ボーっとしてしまっていたが、藤田の言葉で我に返る。

「キスでもしたのかよ」

 胡座をかき、小指で耳の穴の掃除をしている藤田が言った。

「してないよ。やめてくれよ突然」

 健人は、やけになっている。

「とにかく俺も部屋に戻るぜ。また明日夕方くらいに来るよ」

 大きな欠伸をした藤田は、立ち上がるとそのまま部屋を後にする。

 部屋に静寂が訪れると、悶々とした健人は玄関の鍵を閉め、そのままトイレに向かうのだった。

アイスコーヒーとボング

 次の日、藤田はさっそく顧客達の所に顔を出していた。

 大変な作業だが、現役の頃はこれくらい余裕でこなしていたのには、藤田自身も驚く。藤田の根っからのコミュニケーション能力で、顧客の数は多かった。駐車場で取引する人、実家に暮らしている引きこもり、車屋さんのディーラー、なんと古いお寺のお坊さんですら、当時の藤田と桜庭の顧客なのだ。

 ほとんどの顧客は、藤田による説得でなんとか『GreenCrack』を買ってくれることになった。もちろん昨日と同様、何人かは手のつけようのない状態になっていたのだが、藤田は「できる限り今までの顧客を救わなければ」とゆう使命感に駆られるのだった。

「そろそろ日が落ちそうだ」

 朝から歩き続けている藤田は、駅前の喫茶店に入り少しだけ足を休めることにした。

 冷えた珈琲を注文し、待っている間スマホで麻衣が作ってくれたSNSのページを確認する。

「お、すごいメールの量だ」

 藤田はメッセージ欄の数字を見て驚く。

 その数字は、なんと【22】

 ページを作成してから一日しか経っていないのに、この勢いだ。藤田は麻衣の実力に驚き、感心し、未読のメール内容を確認しようとすると「お待たせ致しました」とウェイターが珈琲をテーブルに置く。

 その珈琲の見た目は美しく、汗をかいたロンググラスに、砕いた氷が敷き詰められ、さらには透明のストローが丁度良い角度でお辞儀をしていた。藤田は、一度スマホをテーブルに置くとグラスを持ち上げ、慎重にストローを口元まで運ぶ。器用に口でストローを咥えると、渇ききった喉目掛け、一気にコーヒーを流し込む。

「うまい」

 ごくりと喉を鳴らすと、思わずグラスを見つめ、声を出してしまった。

 産地や細かいことは分からない。ただ、喉の奥から鼻に抜けるこの香り、酸味の中に感じる奥深さ。藤田は出所後、八年ぶりの珈琲を口にしたのだ。

 珈琲を一人楽しんでいると、スマホが鳴った。画面を見ると【麻衣】と表示されている。

「もしもし、どうした」

 藤田は電話に出た。

「藤田さん、こんにちは。あ、もう夕方近いからこんばんはかな」

 麻衣はそう言うと話を続ける。

「藤田さん、見ましたか。メッセージの数。私も実は驚いていて」

 麻衣は興奮しているようだ。

「俺も驚いているよ。麻衣はすごいな」

「ありがとうございます。でも一つだけ気になったことがあるんです」

 麻衣の声は落ち着く。

「なんだ」

「メッセージの中に一通だけ変な内容のものがあったんです」

「変な内容ってどんなだ」

「『調子が良いみたいだな』って。もしかして桜庭先輩がもう嗅ぎつけたとか」

 麻衣は暗い声で言う。

「さすがに早すぎるだろう」

 そう言う藤田だが、正直今は桜庭の顧客である人達に声を掛けているのだから、早々にバレる可能性があるということは理解していた。

「どうするの。続ける、よね」

 不安そうな麻衣の声がスマホ越しに聞こえる。

「始まったばかりだ。この調子でいくぞ。麻衣、この後来れそうなら健人の部屋に来てくれないか。今日の報告に行く」

「行きます」

 麻衣は意気揚々と言った。

 藤田は麻衣との電話を終えると、珈琲を飲み干し喫茶店を後にする。電車に揺られ、眠い目を擦りながら家路へと向かいアパートに着くと、丁度目の前にタクシーが止まり、車内から麻衣が下りてきた。

「グッドタイミングだね、藤田さん」

 にこにこしながら言う麻衣は、軽快に鉄骨階段をあがってゆく。

「感情表現が豊かな奴だなぁ」

 藤田は、麻衣の後ろ姿を見てそう思うのだった。

 麻衣が健人の部屋のドアを叩くと、中から「どちら様ですか」とゆう健人の声がする。

「宅急便です」

 麻衣がふざけて言うが「麻衣か、いらっしゃい」健人には、すぐに気付かれてしまい、ドアがゆっくりと開く。

「入って。そろそろ藤田さんも来ると思う」

 健人は、麻衣を家に招き入れるとドアを閉めようとする。

「おいおい、いるよ。藤田さんここにいますよ」

 藤田はドアが閉まるのを阻止すると、少し声を荒げた。

「びっくりしたなぁ、驚かせないでよ」

 健人は怒る。

「悪い、おまえの事だから気付いているもんだと思って」

 藤田はへらへらしながら健人の頭に手を置いた。

「今日はどうだったの」

 健人はドアの鍵を閉めながら聞く。

「今日も順調だ。さっそく問い合わせが沢山きてるしな」

 藤田は得意げだ。

「そうだったんだ。反応がよくて嬉しいよ」

 健人は首を二度ほど縦に振る。

「今日も麻衣に来てもらったのには、さらに嬉しいニュースがあるからなんだ」

 藤田はにやつく。

「なによ、藤田さん。ちょっときもいよ」

 その顔を見た麻衣が言う。

「声がやらしいよね」

 健人も続ける。

「君たちそんなこと言ってると、すでに振込されている金額教えてあげないよ」

 藤田の腕を組むその態度と声を聞いた二人は、姿勢を正し黙り込んだ。

「よろしい。では発表する」

 藤田は口でドラムロールのような音を奏でると、沈黙した。

 少しの間を使い「25万5000円」と大きな声で叫ぶ。

 その結果を聞いた健人と麻衣は勢いよく立ち上がり、喜びを全身で爆発させる。

「すごいよ藤田さん。まだ二日目だよ」

 健人も珍しく高揚しているようだ。

「すごい、本当にすごい」

 麻衣は感動のあまり目を赤くしている。

「俺もびっくりだよ。三人で力を合わせた結果だ。今日はお祝いしようか」

 藤田は隠し持っていたボング(大麻を吸引するための道具)を取り出し、台所に行き、水を入れ戻ってきた。

「ボングを買ってくるなんて、藤田さん本当に大麻好きだよね」

 麻衣が言う。

「ボングってなに」

 健人が聞く。

「ボングってのは、ガラスで出来た筒状のようなもので、一度煙を水に通すことによって、煙がマイルドになるんだよ。氷を入れればさらに良いぞ。ジュースなんかを入れてフレーバーを感じたりもできる。コスパや手間はかかるが、その分、普段より満足するはずだ」

 藤田は自慢げだ。

「さすが、詳しいね。それなら氷入れようよ」

 健人が提案する。

「そうね、私も氷入れたい」

 麻衣も同調する。

「よし、せっかくならそうしよう」

 藤田はそう言うと再度立ち上がり、健人の部屋の冷凍庫を開け、氷をボングに詰めた。

「麻衣も藤田さんもこっちにきてよ」

 健人はその間に母の部屋へ行き、GreenCrackをグラインダーですり潰し、準備を始める。

 現在健人の母の部屋では、大麻の株が大量に置かれていて、母の使っていたベッドは端に置かれ、仏壇のサイドには一番立派な大麻の株が置かれている。三人は、母の部屋で胡座をかき、ボングを囲う。

 大麻の花の芳醇な香りに包まれ、襖の隙間から漏れる光は部屋を薄暗くさせていた。藤田がボングを健人に持たせ、火皿(ボングのガラス部分から飛び出した部品のこと)に砕いたGreenCrackをのせる。

「今から火皿にのせた大麻に火をつけるぞ、ライターの音が鳴ったらゆっくりと吸い込んでみてくれ」

 藤田はそう言って《《カチッ》》と火を灯した。

 その音を聴いた健人は、ゆっくりと吸い始める。

ぽこぽこぽこぽこ...

 可愛らしい音をさせ、ボングの中身が真っ白な煙でいっぱいになる。藤田は絶妙なタイミングで火皿を抜く。(火皿を少し抜くことにより、中の煙をなくすことが出来る)健人はジョイントで吸うより、遥かに多い煙を肺に溜めた。

「これすごい吸いやすいよ。確かにマイルド...ごほっ、ごほごほっごほごほ」

 健人は盛大な咳をする。

「いい感じだな健人。麻衣に渡してやれ」

 藤田は健人からボングを受け取ると、麻衣に渡す。

「私もあまりボングの経験なくて...」

 麻衣は不安そうだった。

「そうなのか、無理しないでいいよ。ジョイントにするか」

 藤田は優しく言う。

「うーん。せっかくだからボングを少しだけ吸ってみようかな」

 麻衣は、好奇心には勝てなかったようだ。

「吸い過ぎないように気を付けてな。やり方は見てた通りだからやってみて」

 藤田は麻衣にライターを渡し立ち上がると、冷蔵庫から水をもってきた。

 麻衣も、火皿にのせたGreenCrackにライターで火をつける。あの可愛らしい音を少しだけさせ、ボングの中身を煙でいっぱいにし、すうっと煙を肺まで入れる。

「うわ、本当だ。ジョイントより全然吸いやすい」

 麻衣は吸う量を調節したため、派手にむせることはなかった。

 藤田は麻衣に水の入ったグラスを渡すと、ウキウキがバレないようにボングを受け取る。焦げ切ったGreenCrackを、新しいものに詰め替えると子慣れた手つきで、ボング内の煙を、ニ回に分け吸い込んだ。

「最高だ。やっぱりボングだよなぁ」

 語尾が間延びする藤田は、再度健人に渡すと音楽プレーヤーの前に行き【坂本慎太郎の『思い出が消えてゆく』】を流す。

 音の波に呑まれる三人は、ふわふわとした浮遊感の中で脳に直接届く音楽を楽しんだ。

「藤田さん、なんかすごくお腹が空いた」

 健人は言う。

「私も。なんでだろう。最近食欲不振で病院に通っていたくらいなのに」

 麻衣は相当驚いているようだ。

「大麻には、未だ知られていない効能が沢山あるんだ。食欲の改善は結構有名な話だな。あとは、癌細胞を死滅させる可能性があるとゆう報告や、癲癇の治療薬としても重宝されている」

 藤田はネットで拾ってきた情報を自慢げに話した。

「可能性がまだまだあるんだね。俺も大麻の効能に興味が出てきた」

 健人が言う。

「大麻については、学校なんかで悪い話しか聞かないだろ」

「悪い話もなにも、ダメ絶対って学びました」

「まあ、ほとんど...というか全ての学校ではそういう教育だろうな」

「藤田さんのその言い方だと、ダメ絶対じゃないってことだよね」

「少なくとも俺はダメ絶対ではないと思う。大麻なんて酒やたばこより依存度は低いわけだし、誰かに迷惑をかけてるわけでもないしな」

「確かに誰にも迷惑をかけてない...じゃあなんで法律で禁止されてるのかな」

 健人は腕を組み考えた。

「GHQが麻を麻薬に指定したんだ。大麻自体は神道でも神聖な植物として扱われ、伊勢神宮のしめ縄なんかにも使われてきたんだぜ」

「それならなんで麻薬に指定したの」

「1940年、麻の繊維の需要拡大によって麻栽培が奨励《しょうれい》されて、当時の農林省が日本原麻《げんま》株式会社を設立した。ところが、戦後の日本はアメリカのマリファナ政策に巻き込まれることになるんだ」

「アメリカが...」

「しかも、日本で自生していた大麻には、幻覚を起こす成分のTHCが少量しか含まれておらず、ハイになる成分はほとんどなかったんだと」

 藤田はアイスボングのせいか、いつもより饒舌になり話を続けた。

「少し難しい話になるんだが、GHQが降伏の条件を明文化したポツダム宣言をベースに、1947年に大麻取締規則を、そして産業大麻を規制するために起案された大麻取締法を公布し、麻を麻薬に指定したんだ」

「つまり、日本はアメリカに無条件降伏をしなければいけなかった。その中で、うまくいっていた大麻産業に目を付けられたのね」

 麻衣は渋い顔をする。

「今も昔も、歴史を形作るのは勝者ってわけだね」

 健人が言う。

「それは間違いないだろうな。ただ勘違いしてほしくないのは、大麻はゲートウェイドラッグにはなりうるってとこだ」

「藤田さん、ゲートウェイドラッグってなに」

「つまりは、危険な薬物に手を出すきっかけにはなるってことだ」

「なるほど...」

 麻衣はうなずく。

「大麻愛好家の中には、『大麻はゲートウェイドラッグではない』なんて言う人もいるが、俺は反対の意見だ。大麻を嗜好品として楽しむうちにハイの感覚に慣れてくる。すると、幻覚作用への恐怖が薄れてくるんだ」

「恐怖が薄れていくと、大麻の量が増えるんだね」

 健人が言う。

「そうだな。それもそうなんだが、他の薬物に対するハードルが物凄く下がってしまうんだ。その結果、LSDやコカインなんかに手を出したりする。しまいには覚せい剤にも...」

「そう言われてみると、素人には大麻と覚せい剤の違いなんて分からないかも...」

 麻衣が言う。

「だろ。大麻の幻覚作用というか、ハイの感覚を覚えてしまうと、他の薬物との違いなんて大差ないだろうと思い始めるんだ」

「それは確かに危ないね」

 健人が言う。

「覚せい剤で駄目になった人間を見た俺から言わせてもらうと、『覚せい剤をやるくらいなら、大麻をやったほうがいい。覚せい剤をやるということは、人間を辞めるのと同じことだし、十分な判断能力がないのなら、大麻に手を出すな』と言いたいんだ」

 藤田の言葉は熱を帯びていた。

「藤田さん、呼吸が荒くなってるよ。少し落ち着いて」

 熱い雰囲気を察した健人が藤田をなだめる。

「悪い。覚せい剤で駄目になったやつのことを思い出して、つい熱くなった。だからお前たち、大麻を甘く見るなよ」

「甘く見るなって言っても、勧めてきたの藤田さんじゃん」

 健人が笑いながら言った。

「ま、まあそれもそうなんだが...初めて見た時の健人は、それどころじゃなかったんだ。何としても助けたかった、その一心だった」

 藤田は申し訳なさそうに頭を掻く。

「嘘嘘、少しからかっただけだよ。そこで一つ提案。どこかにご飯食べに行こうよ」

 健人は言う。

「お、それは最高かもしれない」

 藤田は立ち上がり、さっそく財布やらをポケットに詰め込む。

「行こう行こう」

 麻衣のテンションも上がっている。

「ちょ、二人とも準備早すぎるよ」

 健人も慌てて仕度を始めた。

 こうして三人は、多幸感に包まれたまま部屋を後にするのだった。

必殺ナルト三枚乗せ

「やっぱりラーメンでしょ」

 藤田は、味噌ラーメンを目の前に手を合わせる。

「ラーメン屋さんで食べるのなんて何年振りだろう」

 健人は、とんこつラーメンの香りを嗅ぎながら割り箸を割っていた。

「おいしそう、いただきます」

 麻衣は、さっそくレンゲを塩ラーメンのスープにくぐらせる。

 小さいラーメン屋のカウンター席、健人を真ん中に横並びで座る三人。麻衣の号令に合わせ、藤田と健人も「いただきます」と手を合わせると、ラーメンを食べ始めた。

「いつもよりおいしく感じる」

 麻衣が言う。

「久しぶりだからかな、俺もそう感じるよ」

 健人も驚いた様子でスープを飲んだ。

「ハイになってるからだろ。店員さん、餃子追加で」

 藤田はラーメンにがっつきながら注文した。

「藤田さん、もういい歳なんだからそんなに食べたら大変なことになるよ」

 健人が藤田に言う。

「大変なことってなんだよ、そんなことより俺はまだ20代だっての」

 藤田はラーメンを食べる手を止めた。

「あ、そうか。そうだったよね」

 麻衣は驚いている。

「おまえら、馬鹿にしやがって。店員さん、ナルト三枚下さい」

 藤田はヤケになっていた。

「ナルト三枚ってどうゆうこと」

 健人は吹き出してしまう。

「私ナルトは一枚でいいです...」

 麻衣が遠慮がちに言った。

「なにを言ってんだおまえら、ナルト三枚は当たり前だろ。俺はナルトが大好きなんだよ」

 藤田は、訳の分からない主張をカウンター席で訴え始める。

「藤田さんすごく声大きいよ、他のお客さんの迷惑に」

 健人が藤田を注意した。

「健人、今のところ他のお客さんがいないのがせめてもの救いだよ」

 麻衣は健人に言う。

「まあ大丈夫だろ、せっかくなら楽しもう。こんなに美味いラーメンがあるんだから。よし、ここで必殺ナルト三枚乗せだ」

 藤田は、店員が小皿に盛り付けしてくれたナルト三枚を、スープに浮かべた。

「なんだよ、それ」

 健人は笑いながら言う。

「やめてくださいよ、恥ずかしいじゃないですか」

 麻衣も腹を抱えて笑った。

「おまえらもやれって、ナルトはうまいぞ」

 藤田はナルト三枚を頬張りながら言う。

「ナルトが美味しいのは知ってますけど、三枚はさすがに...」

 麻衣は笑い涙を拭いた。

「俺も。ナルトは一枚だからおいしいんだよ藤田さん」

 スープを啜った健人は、箸を置く。

「いや、それは譲れない。ナルトは何枚あってもうまい」

 藤田はこれだけは譲れないようだった。

「そういえば藤田さん、カナダでは大麻が吸えるって本当なの」

 麻衣の言葉に目を丸くした店員は、藤田たちに背を向けタバコに火をつけた。

「カナダでは吸える。もちろん吸えない地域はあるが、ほとんどの場所では吸えるだろう。沢山の噂話があるが、今後世界的にも大麻合法化の方向に進んで行くと思うぞ」

「そうなんだ。日本はどうかな」

 健人が言う。

「日本で大麻合法化か...。物凄く難しいことだと思うが、アメリカの動向次第にはなるんじゃないかな」

 藤田は腕を組んだ。

「アメリカが関係あるの」

 麻衣は言う。

「まったく関係ないってわけにもいかないと思うぞ。未だにアメリカに意見出来ない日本政府だからな」

「そんな話は確かに聞くわ。戦後の関係性からなかなか抜け出せないのね」

「まあ、それはともかく。日本で大麻合法化が謳われたとしても、反対派が勝つだろうな。なんせ日本の上に立つ人間は頭の固い連中ばかりだからな」

「世界的に大麻合法化が進んでも、日本での合法化は遠いか...」

 健人が言う。

「そうは言っても、歴史は突然変わるからな。首を長くして待ってようぜ」

「そうですね。さあ、麺が伸びちゃう前に食べましょう」

 麻衣が話を終わらせ、三人はまだ温かいラーメンを啜った。

 実は三人が来店したラーメン屋は、地元では有名な美味しいラーメン店。濃厚ながら清らかで深みのあるスープ。そのスープが良く絡む平たく縮れた絶妙なコシの麺、ナルト、焼豚、ゆで卵にメンマ、海苔というスタンダードなトッピングからは想像できないほどの奥ゆかしさ。三人の舌は完全に魅せられ、食べ終わる頃には無言のままラーメンのスープまで飲み干していた。

「嗚呼美味しかった。そろそろ行くか、店員さんごちそうさまでした」

 藤田はそうゆうと力強く手を合わせ立ち上がり、お会計を頼んだ。

「ごちそうさまでした」

 健人と麻衣は手を合わせる。

「ありがとうございました、またお越しください」

 煙草の火を消した店員の声が店に木霊した。

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 店を出た三人は、アパートへと歩いていた。

「藤田さんごちそうさまでした」

 健人と麻衣は藤田にも手を合わせ挨拶する。

「おう。この後は梱包作業があるから大変だぞ、おまえら」

 藤田は腕を捲くる仕草をした。

「頑張りましょう」

 麻衣は気合を入れる。

 辺りは暗くなり、街灯だけが夜道を照らしていた。藤田は、前を歩く健人と麻衣の後ろ姿を見ていると、夜風が鼻から全身を通り抜け、一瞬浮遊したような感覚になる。三人はきっと同じ気持ちで、心地良い夜風に身を任せていたのだろう。この道がずっと続けばいいのにとさえ思った。

 アパートに着いた三人は、さっそく梱包作業に移る。健人が、丁寧に1グラムづつ小分けしたGreenCrackを、藤田が注文に合わせ足してゆく。

「健人、すごいな。ぴったり1グラムだよ」

 GreenCrackを秤にかける藤田は驚く。

「感覚だよね」

 健人は得意げだ。

「さすが健人、さぁ件数が多いのでちゃちゃっと終わらせちゃいましょう」

 麻衣も腕を捲ると小分けにした袋を梱包してゆく。

 発送は、三人別々の場所から、毎日コツコツと作業を繰り返し資金を集め、藤田、健人、麻衣は順調に大麻ビジネスを成功させてゆくのだった。

危機迫る

 三人で本格的に始まった大麻ビジネスは順調に進んでいた。藤田も健人も今までとはまるで違う生活を送っている。前のように金銭面で困ることがなくなった健人は安定していた。

 そんなある日、眠っていた健人の部屋のドアを勢いよく叩く音がした。

「おい、健人。問題発生だ」

 毎度のことだが、朝っぱらから藤田がやってくる。

 健人は藤田のノックで目を覚まし、眠い目を擦りながら玄関ドアを開けた。

「入るぞ」

 藤田は健人の部屋に入ると、なにかを探し始めた。

「おはよう藤田さん。なにか探してるの」

 健人が言う。

「テレビのリモコンどこにある」

 藤田は聞く。

「テレビのリモコンか。どこにやったかな、最近はテレビなんてつけてないから...」

「あ、あったあった」

 藤田はテレビの裏に転がったリモコンを手に取ると、電源ボタンを押す。

 が、テレビは無反応だ。

「もしかしたら電池が切れてるかも。そんなに慌ててなにがあったの」

 健人が棚の引き出しを開け、手探りで電池を探し始めた。

「朝方テレビを付けたら、偶然ヤバいニュースが流れてきたんだよ」

 藤田はソワソワしながらも、テレビ本体の電源を探していた。

 健人が電池を探し当てるより先に、藤田はテレビ本体の電源を付けた。テレビを付けると、タイミングよく速報が流れる。

「速報です。現在もドラマ俳優として活躍中の『渡辺ジョー』さん、本名『渡瀬仁』さんが薬物所持および使用の疑いで現行犯逮捕されました。警察によると、以前から捜査の対象となっており、最近になって薬物の所持が確認されたとのことです。現場からは違法薬物数点が押収されています。警察は現在、詳細な捜査を進めており、本人からの具体的な供述を待っている状況です」

 女性ニュースキャスターは、スタジオから現場に中継を繋げる。

「渡辺ジョーってうちの顧客だよね」

 電池を探す手を止めた健人が言う。

「そうだ。今テレビに映ってる現場も、俺が手押ししに行ったマンションだ」

「ヤバいじゃん、どうする」

 健人が藤田に言う。

「少し忙しくなるが、こんな時のための作戦がある」

 藤田が健人の方を向くと、スマホの着信音が鳴った。

 藤田のスマホ画面には、『麻衣』の文字が。

「もしもし」

 藤田は電話に出た。

「藤田さんおはようございます。ニュース見ましたか」

 麻衣は焦っているようだった。

「見たぞ。大変なことになったな」

「なにか手を打ってあるんですか」

「一応準備はしておいた。それがうまくいくかは天に任せるしかないが」

 藤田は言う。

「分かりました、一度私もそっちに行きます。待っててください」

 そう言って麻衣の電話は切れた。

 藤田と健人の生活が変わってゆく中で、部屋の大麻の鉢の数も増えてきていた。この大麻が藤田たちにとって財源であり、資産なのだ。なんとしてでも守らなければいけない。

「藤田さん、この部屋の大麻は廃棄しないとだよね」

 健人は怯えを含めた声で言う。

「この量を廃棄するとなると、相当なダメージだ。今後復活するのにどれほどの時間が掛かってしまうか想像もできない。健人、不安だろうが、俺を信用してくれ。髭さんへの返済もまだ残っているしな」

 藤田は健人の不安を取り除こうとしていた。

「藤田さん、一回髭さんに相談しに行こうよ」

 健人は藤田に提案した。

「そうだな。麻衣が到着したら顔を出してみよう。それまでに健人にはやってほしいことがある」

 藤田は健人を諭すと大麻の鉢の前まで来て、新聞紙を横に広げた。

 なにをするのかと思うと、藤田は大麻を鉢から丁寧に取り出し始めたのだ。根っこに絡まっている土は掃わずに、用意した新聞紙の上に置く。

「健人、大麻の根に土はついたままでいい。全て鉢から出したら新聞紙の上に置いてくれ。新聞紙は窓側に敷いておく」

 藤田は手に着いた土を掃いながら言う。

「わかった」

 健人は、足の裏で窓際に敷かれた新聞紙の位置を把握し、大麻の幹を握りながら土にスコップを刺した。

 大麻を鉢から新聞紙の上に移動する健人。新聞紙の上に置かれた大麻は、藤田がベランダに持って行く。すると、そのままベランダから身を乗り出して、雑草が生い茂る空き地に落下させたのだ。落下させた大麻は、背の高い雑草たちの中に溶けていく。一見何の変哲もない雑草の集まりなため、素人の目なら簡単に誤魔化せるだろう。ものの数分で全ての大麻を溶かし切ると、いつもより部屋が広くなった。

「部屋が広くなった気がする。全部ベランダに出したんだね」

 健人が両手を広げながら言う。

「いや、ベランダから下に落とした」

 藤田は床に広がった新聞紙をまとめながら言った。

「え...落としちゃったの」

 健人の顔は曇った。

「大丈夫だ。窓の向こうには背の高い雑草が一面に広がっているから、その中にうまく隠れたよ」

 藤田はベランダに置いてあった《《ほうき》》と《《ちりとり》》で、部屋に散らばった砂を片付けた。

「そんなことで本当にごまかせるかな」

 健人は尚も不安そうな表情だ。

「これだけで終わりじゃない。これからが勝負だぞ。素人の目は誤魔化せるだろうが、マトリの目はそう簡単に誤魔化せない」

「マトリって、麻薬取締官だよね。じゃあどうするの」

「健人には演技をしてもらう」

「演技なんてできないよ」

 健人は勢いよく首を横に振った。

「できないじゃなく、やってもらわないといけない。この作戦がうまくいかなければ、おまえも麻衣も俺も終わりだ」

 藤田は言う。

「わかった...やるよ」

 少し考え込んだ健人だったが、すぐに返事を返した。

「大丈夫、そんなに難しくないはずだ」

 そう言って藤田は作戦の説明を始めた。

「渡辺ジョーが元々取引していたのは桜庭たちだったが、直近でSNSで連絡を取っていたのは俺だ。実際、警察の手がいつこちらにくるか分からない。SNSでの取引など簡単に足がつくからな」

「藤田さんのスマホ危ないんじゃ...」

「だな。だが、スマホでのやりとりは基本的に電話でしていたし、健人たちとのメッセージなどは残ってないと思う。念のため飛ばしのスマホを使っていたし、俺はこれを処分するだけでなんとかなる」

「飛ばしってなに」

 健人が聞く。

「飛ばしスマホってのは、他人や架空の名義で契約されたスマホのことだ。飛ばしなんて言ってるが、俺のは死んだ父親のスマホだがな」

「なるほど。でもそれって元を辿ったらバレちゃうんじゃないの」

「手元にあればバレるだろうな。マトリもそんなに馬鹿じゃない。だからスマホを完全初期化して、紛失したことにする。粉々にしてドブにでも捨てれば大丈夫だろう。なによりも大切なのは、俺らは完全にシラを切ることだ。なにも知らないと言い続けろ」

 藤田は続けた。

「栽培はこの部屋でしていたし、俺の部屋にはなにも証拠がない。警察がSNSを特定したとしても、俺の手元にあるスマホにはデータがない。事前に調査されていたのであれば、俺らの関係性は疑われるだろうが、万が一健人の部屋に来たとしても、お前はシラを切るんだぞ」

 流暢に作戦を話す藤田には、バレない自信があるようだ。

「藤田さんを信じるよ。それしか俺にはできないから」

 健人が言う。

「そんなことない。健人が居なければ俺たちはここまでうまくいってないだろう。おまえの才能は素晴らしい...」

 二人で作戦を話し合っていると、突然チャイムが鳴った。心臓が止まりかけ、恐る恐るドアの覗き穴に目をやる。

「麻衣だ」

 藤田は振り返り健人に言った。

「なんだ、麻衣か。驚いた」

 健人も胸を撫でおろした。

 藤田が鍵を開けると、不安げな表情の麻衣が姿を現した。

「藤田さん、どうしますか」

 麻衣は息を切らしながら言う。

「麻衣、安心しろ。もう手は打ってある」

 藤田はそう言って、麻衣を奥の部屋へ案内した。

 麻衣は部屋が空になっていることを確認し、ベランダから大麻を落下させたことを聞く。作戦の話になると、急いで自分のスマホを確認し、証拠になりそうなものがないかを確認していた。

「...とりあえず私のスマホには、証拠になるような内容はないです。健人のスマホは大丈夫だったの」

 麻衣は健人に言った。

「俺は大丈夫だよ。メッセージなんてほとんど使わないし」

 そう言って、健人はスマホをポケットから出した。

「そういえば健人ってスマホをどうやって触るんだ」

 藤田が聞く。

「それよく聞かれるんだよね。最近は徐々に声でも入力できるようになったけど、基本的に画面をタップすると音声が出るようになってる。慣れるまで難しかったけど、タップの仕方だったり、タップする指の本数なんかで操作できるんだよ」

 そう言って健人はスマホをタップし音声を出す。慣れた手つきで操作する姿は、さすがとしか言いようがない。しかも音声が二倍速のように聞こえるのだ。

「健人、こんなに早くてなにを言ってるのか分かるのか」

 藤田が聞く。

「ああ、確かに早いよね。でも俺たちみたいなのは他より耳がいいんだよ」

 健人は得意げにスマホをポケットにしまった。

「俺には真似できないな。さあ、二人とも準備しろ。髭さんのところに行くぞ」

 そう言って三人はバーに向かった。

事前準備

 三人は「Bar Spray」に到着した。バーに向かうまでは特に怪しい人はいなかったが、警戒は怠らなかった。バーの扉を開くと鈴の音が鳴る。

「髭さん、こんにちは」

 藤田は先にバーに入る。

 相変わらずのダブルスーツで、気だるそうに現れた髭さんは煙草を口に咥えていた。

「おお、藤田か。今日はどうした、今月の返済は来週だろ」

 大麻栽培がうまくいってから、髭さんに大麻を渡すことで100万円を分割してもらえることになっていた。

「今日は返済じゃなくて、相談で来たんだ」

 藤田は話を切り出す。

「相談か...って健人じゃないか。二人が揃うところは初めて見たな。なんか新鮮だ」

 髭さんは笑顔になった。

「お久しぶりです。突然押しかけてしまってすいません」

 健人が頭を下げる。

「なんだよそんなにかしこまって。おまえ子どもの頃は敬語なんて使えなかっただろ。で、後ろの女の子は誰だ」

 髭さんは健人の頭に手を置きながら、後ろにいる麻衣を見る。

「麻衣だよ」

 藤田が言う。

「健人の彼女か」

 髭さんはにやつく。

「い、いやそういうわけじゃ...」

 健人の顔が赤くなり、気まずい雰囲気が流れる。

「髭さん、今日はそんな話で来たわけじゃないんだよ。実は『渡辺ジョー』のことで相談があって」

 藤田が切り出す。

「渡辺ジョーって今日捕まった奴だろ。あいつのドラマ面白かったんだけどな、打ち切りだな。で、あいつとなんか接点があったのか」

 顧客のことはなにも知らない髭さんが聞く。

「実は渡辺ジョーは俺の顧客だったんだ」

 藤田は打ち明けた。

「なるほど、そういうことか。手は打ってあるのか」

 髭さんの顔が真剣になる。

「もちろん。前の経験からなによりも慎重に仕事をしていたつもりだからね」

「で、相談ってなんだ」

「相談というか、もう始めてしまったんだけどさ、裏庭に大麻を隠したんだ。さすがに、家の中でどうこうできる量じゃなかった」

「唐突に凄い事するじゃないか。言ってなかったが、裏庭はボスの土地なんだ。最近はめっきり手入れされてなかったが、間もなく工場を建設するような話が出ていたんだぞ」

 髭さんは目を丸くした。

「建設開始日時は詳しく分からないよね」

 藤田は考えていた。

「さすがに、下っ端の俺のほうまでは情報は来ない。その工場でなにをするのかも分からないが、建設工事で雑草は全て刈られて更地になるだろうな」

 髭さんの言葉に考え込む藤田。それを見た麻衣が話し始める。

「今って相当危ない状況じゃないですか。更地になれば証拠は完全に消えるけど、商品がなくなる。建設工事がまだまだ先だったら、警察が調べに来る場合もありますよね。私たちに容疑が掛からないとしても、ボスって人の土地なら大麻栽培の容疑がその人たちに...」

 どう転んでも最悪な状況は変わりない。なんとかならないものかと考えていると、健人が声を出した。

「藤田さん、さっきの作戦の続きを考えたんだ」

 健人は真剣な面持ちになり、話を続けた。

「ボスをハメよう」

 健人は突然恐ろしい事を口にした。

「け、健人。おまえなにを言ってるんだ」

 髭さんは驚き、健人の肩を掴んだ。

「俺は子どもの頃からこのアパートに住んでいた。ボスは俺と母さんの面倒を見てくれていたけど、奴が裏でなにをやっていたか知っているんだ」

 健人は突然昔話をし始めた。

健人の過去

 健人が生まれ育ったのは、都内のマンションだった。母が言うには、昔は車のディーラーをしていた父と三人で暮らしていたらしい。不景気で父の会社が倒産してからも、三人で支え合いながらなんとか生活をしていたそうだ。

 父はコンビニなどのアルバイトなどを掛け持ち、就職活動をしていた。ディーラーをしていた頃程の給料ではもちろんなかったが、それでも幸せだった。そんなある日、父が嬉しそうな顔をしてうちに帰ってきた。

「おまえたち、これからは旅行にも沢山行けるようになるかもしれない」

 まだ赤子だった健人を抱きかかえると、父は言う。

「なにかあったの」

 母はエプロンを着け、カレーを作りながら言った。

「今日偶然知り合った人が車屋を経営しているみたいで、その会社で働かせてもらえる事になったんだ」

 父は喜び、健人の頬にキスをした。

「おめでとう、よかったじゃない。それなら今日はカレーにチーズ入れちゃおうか」

 母も父と同様喜んでいた。

 翌日になり、スーツを着て出勤した父。安堵した表情で見送る母の顔を健人は明確に覚えていた。一度過ぎ去った安定が戻ってくる感覚に未来への希望を見出したのだ。

 その日の母は、鼻歌をよく歌った。家事もはかどり機嫌が良いのが見なくても分かったのだ。太陽がてっぺんまで登ると、母と健人は買い出しに出た。家から近いスーパーで昼食と晩御飯の材料を揃え、帰り道を歩いていると物凄い勢いの車が母と健人に近付いてきた。母は咄嗟に車道に背を向け健人を庇うが、二人は跳ね飛ばされてしまったのだ。

 母が目を覚ましたのは日が暮れた頃。意識が朦朧とする中で、必死に健人を探していた。抱きかかえていたはずの健人が近くにいない事に気付いた母は、勢いよくベッドから起き上がる。

「健人は」

 母が叫んだそこに、連絡を受けた父がいた。

 病院に到着した父のスーツは泥だらけになっている。父の顔は暗く、今にも顔面の皮膚が床に落ちてしまいそうだった。

「なんでこんなことに...」

 力のないかすれ声を発する父は、絶望しているようだ。

「健人は、健人は無事なの」

 母は父の肩を掴む。

「健人は...健人は...」

 父が今にも崩れそうに肩を揺らす。

 明らかになにかあったであろう雰囲気に呑まれてしまった母も、言葉を無くしてしまう。すると医者が病室に来た。

「目覚めましたか。お母さんの方は軽い打撲のみでした。一日安静にして頂ければ、明日にも退院できると思います。息子さんですが...」

 医者が言葉を詰まらせる。

「息子がどうかしたんですか」

 母は前のめりになり、今にも医者に掴みかかろうとする勢いだ。

「息子さんは事故の衝撃で吹き飛ばされてしまったようで、顔に重い怪我を負いました。全力を尽くしますが、後遺症が残る可能性が高いことは理解しておいて下さい」

「後遺症ってなんですか。どんな後遺症が残るんですか」

「それはまだ確定していません。現在は集中治療室で手術を行っていますので、お母さんは安静にしてお待ちください」

 医者はそう言うと、病室を後にしようとする。

「安静になんてできるわけないでしょう。自分の息子が生きようと頑張っているのに、母親の私がなにもしないでいられるわけないじゃない」

 母は掛布団を剥がし起き上がろうと足をベッドの下に降ろす。

「落ち着いて下さい、今は安静にしていないと」

 医者は振り向くと、起き上がろうとする母を必死に止めた。

「どいて、健人が...健人が...」

 泣きじゃくる母を父と医者でベッドに戻すが、尚も母は抵抗を続ける。

「落ち着いて下さい。今のあなたにできることは自分の体調を万全な状態に戻す事なんです。母親が子を想う気持ちは痛いほど分かります。ですが共倒れしてしまっては、元も子もないでしょう」

 医者が強い口調で母をなだめたが、母の抵抗は強くなるばかり。

 仕方なく看護師を呼び、点滴でなんとか眠りにつかせた。病室には息の切れる音が響き、圧迫されていた空気が解放される。 

「お父さん、ご協力ありがとうございます。今は私達を信じて待っていて下さい」

 最後に父に言葉を掛けた医者は、病室を後にした。

 看護師から今後の説明を受けた後、病室が静かになる。悲壮感に苛《さいな》まれた父は、母の瞼から流れる涙を一人見つめていた。

 健人の手術は幼い子どもだったということもあり、三時間にも及んだ。命に別状はなかったが、その代わりに健人の世界からは光が奪われ、闇に包まれてしまったのだ。

 入院期間は三週間。回復までの期間と、合併症の有無を確認したため。退院が確定する前に、新たな生活に適応するためのリハビリや、退院後の支援のために、父は病院側と話をしていた。

 健人と母が退院し、無事に家に家族が集まったが、元通りの生活には戻れない。失ったものがあまりにも大きかったからだ。健人と母を轢き、逃げた犯人の消息は不明。轢き逃げをした車が「黒いセダン」ということだけは後から分かった。すぐに解決すると思われた事件だったが、なぜか犯人の手掛かりになる物は一切見つからなかったという。警察の捜査は続くそうだが、家族三人での生活は不器用に安定し始めるのだった。

 健人が入院中の三週間、生活のため無心で働いていた父だったが、新しい会社での給料は低かった。入社する前に交渉した金額とはまるで違っていたため、意を決して社長に交渉しに行った。

「社長、少しお話が」

「どうした」

 社長は忙しそうにキーボードを叩いている。

「給与の件なのですが」

 父の一言に社長の手が止まった。

「それがどうした」

 二人だけの社長室に沈黙が流れる。

「入社当時に話していた金額と合わなくて...今後昇給していくのでしょうか」

「社長に対して交渉とは、いい御身分だな」

 社長は腕を組みソファに寄りかかる。

「いえ、そんなつもりは。ただ...」

「ただ、なんだ」

 社長は威圧的だ。

「ただ、息子が事故の後遺症で苦しんでいる今、父親としてなにかできることがないかと思いまして」

 父はひるまなかった。

「父親としてできることか。それが俺への交渉か」

 社長はため息を吐くと、話を続けた。

「俺が今までどれだけの交渉をしてきたと思う。おまえに声をかけたのも交渉の一つだな。お前意外にも大手の会社の社長や、石油王と呼ばれる奴にさえ交渉してきた。そいつらと比べるのは可哀想だが、おまえの交渉はノミ以下だ。話を聞かずとも分かる」

 初めて飲み屋で会った時とは、別人のようだった。

「いったいなにが言いたいのですか」

 父は聞く。

「いいか山崎。父親としての責任を果たしたいならな、まずは死ぬ気で働け。寝ずに働け。やれることを探して、しらみつぶしにこなしていくんだよ。給与が低いだの文句を言う前にやれることがあるだろう。おまえの糞虫以下の交渉に使う時間なんて俺にはない。もちろんお前にもないはずだ」

 父は生唾を飲む。社長の言葉に圧倒されているのだ。

「事故の後遺症が問題か、後遺症があると可哀想なのか。後遺症があったら普通に暮らしちゃいけないのか。そんなの誰が決めたんだ。お前が弱気になってどうするんだ。父親として、子どもの手を命がけで引くんだろうが」

 父は言葉が出なくなっていた。

「自分の評価は自分で決めるんじゃない、他人様に決めてもらうものだ。今が糞みたいな状況なら、とにかく働け。金を稼げ。金がないなら時間を使え」

 真っ直ぐに父の目を見つめ放たれる社長の檄《げき》に、空間は震えていた。

「私が間違っていました。自分だけがつらいとおもっていたんです。本当につらいのは健人なのに、自分だけが楽をしようと、逃げてしまおうと思っていました」

 社長からの檄に涙を流す父。

 精神的にも肉体的にも限界を迎えていた父に、飛躍を授けてくれたのだ。社長室を後にしようとすると、背後から突然声がかかった。

「おい、山崎。少ないけど持ってけよ」

 引き出しを開けた音と一緒に札束が飛んできた。

「え...いいんですか」

 父の手に納まったのは札束。

 軽く数えても500はある。

「持ってけよ、だが必ず返せよな」

 社長はそう言った。

 掴みどころのない社長に困惑した父だったが、先ほどの社長からの言葉に肝が据わったのか、さっそく行動に移そうと決心する。

「ありがとうございます、ありがとうございます」

 父は何度も頭を下げた。

「いいからもう帰れよ」

 社長は冷たくあしらうと、再度パソコンに向かう。

「社長、最後に聞いても良いですか」

「なんだよ」

 社長は苛立ちを隠せていなかった。

「最近黒いセダンを見ませんでしたか」

 社長の手が一瞬止まる。

「し、知らねぇよ。ほら仕事に戻れ」

「そうでしたか。ありがとうございます」

 そう言うと、今度こそ社長室を後にした。

 焦燥しきっていた父だったが、改まった社長の態度を見てヤル気を出し始めた。それもそのはず...家に到着するなり、父は母に話しかけた。

「君と健人を轢き逃げした犯人が分かりそうなんだ」

健人の過去 父の行方

「轢き逃げをした犯人が分かるかもしれない」

 父が母に言った言葉だ。

「どういうことなの」

 母は聞く。

「君らを轢いた奴は、会社の一員の誰かだろうな。あの社長は、なにかを隠してる」

 父の予想では社長は犯人ではないとしていた。なんの根拠もないが直感がそう言っていったそうだ。それならば誰なのか。父は会社に在籍している間に犯人を捜すことにした。この会社に犯人の存在を絞った理由、それは健人が入院中の三週間の間にあった。

 会社の名前は「CAR キャッスル」。父の仕事内容は車の洗車だった。車を売るのは上司の仕事で、客を捕まえてくるのは社長の仕事だったのだ。この会社をまとめている人間には会ったことがなかったが、噂によると還暦を迎えたお爺さんだそうだ。下っ端の洗車作業員ではお目にかかることもできないと言う。

 健人の入院中、無心に働いていた父だが、その時に洗車していた黒いセダンに違和感があった。なぜか黒いセダンに関しての顧客情報は知らされず、早急に洗車をしてほしいというのだ。妻が言っていた車の特徴は、これと同じ「黒のセダン」。これだけの情報があれば十分だろうが、他にも怪しい点は多々あったようだ。

 凹みが修正されている部分、会社内のざわつき。当時の母からは轢き逃げされた車の特徴は知らされていなかったため、怪しい車だとしか判断できなかったが、生活が落ち着いてきた今、あの車が轢き逃げを起こした車だということが分かる。黒のセダンが到着した時の会社のざわつき、あのざわつきの理由を社長が知らないわけがないと思ったのだ。

 なのに社長は「黒いセダンなど知らない」と言った。父はこの発言を怪しいと感じたのだ。

 CARキャッスルの社長は、どの社員よりも働く。父が会社を経営していた時とは比べ物にならないくらいだ。伝え方が威圧的になるため下っ端社員には煙たがられていたが、どの社員にも全力で向き合っていた。そんな姿に父は惹かれるものがあったらしい。

 会社に勤め始めて半年、父は数々の情報を集めていたのだが、情報元はCARキャッスルの清掃員。清掃員として勤務して50年の大ベテラン「柿沼」だ。普段はギャンブルに明け暮れる生活をしているらしく、生活費としての給料は少しで事足りるそうだ。

「柿沼さんおはようございます」

 父は出勤し柿沼に挨拶をした。

「おはよう、今日も早いな。子どもの調子はどうだ」

 柿沼は、ほうきを片手に父に挨拶をする。

「生活は安定してきました。暗闇に居ることも慣れたようで、今では家の中をウロチョロしていますよ」

 父は嬉しそうに言う。

「子どもの適応能力は、じじいの俺も見習うものがあるな」

「ところで柿沼さん、俺とうとう犯人を見つけたんです」

 父は真剣な顔をした。

「犯人って、息子の目を奪った奴か」

「そうです」

「そうか、それでどうするんだ」

「犯人を殺してやりたいです」

 父は柿沼の目を見る。

「突然物騒なことを...」

 柿沼は下から睨みつけるように父を見た。

「柿沼さん、あなたこの会社のボスじゃないですか」

 柿沼は黙っている。

「今はタクシーで会社に来られているようですが、あなたがここのボスだとしたら、前に乗っていた車は『センチュリー』で間違いないですよね」

 父の言葉は、早朝の静かな空気を揺らした。

「ここのボスが俺か。なにを根拠に」

「センチュリーがこの工場に来たことを知っていましたよね」

「そうだが」

「センチュリーがこの工場にあったのは、夜間のほんの一時間だけ。午前中に帰宅するあなたが、知る方法はないはずなんです」

「他の社員に聞いた可能性は」

 柿沼が片方の眉を吊り上げた。

「他の社員に聞いていたとしても、なんの問題もありません。なぜなら僕以外の社員は、みんなあなたがボスだということを知っているから」

 父は続けた。

「周りの社員に聞いても分からないわけだ。ここの社員は、新入りにボスの正体を教えるほど馬鹿ばかりじゃない。柿沼さん、あなたの専属の運転手は今どこですか」

 父は核心をついた。

「なかなか鋭いな。君は探偵かなにかかな」

 柿沼は不敵な笑みを浮かべた。

「ただ推理小説が好きなだけです。こんなもの小学生でも分かります。で、専属の運転手「犯人」はどこにいますか」

「死んだよ」

 柿沼は冷徹な顔をした。

 父の耳には「死んだよ」という単語ではなく、「殺したよ」というような意味合いに感じ取れた。

「え...」

「当たり前だろう。この業界ではな、ヘマをしたら神隠しに合うんだ」

 柿沼は、どこかに目で合図を送る。

「神隠しって一体…」

 背後に気配を感じ振り返るが、反応が遅れた父の頭にバットが振り下ろされるのだった。

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 速報です。山奥で、頭部を損傷している身元不明の男性の遺体が発見されました。今入ってきている情報によると、遺体は偶然通りかかった地元住人によって発見され、現在警察が現場検証を行っています。遺体は死後数日経過しており、現場は人里離れた山間部で、普段は人の出入りが少ない地域です。

 警察によると、遺体の発見時には身元を特定できるものは、なにも所持しておらず、特定には時間がかかる見込みで、また、死因についても現在調査中です。

 新しい情報が入り次第お伝えいたします。では、次のニュースです。

別れ

 健人の話を聞き終えた三人は、唖然としていた。

「なぜ、おまえがその話を知ってるんだ」

 髭さんは驚いていた。

「なぜって、お母さんが話してくれたから。山奥で発見されたのは、お父さんだったって」

「え...なんで健人のお父さんが殺されなきゃいけなかったの」

 麻衣が聞く。

「ボスの機嫌を損ねたからだろう。ただそれだけだ」

 髭さんはバーチェアに腰かけ言う。

「おい、健人。ボスってこの間来た奴なのか」

 藤田が健人に言った。

「そうだよ。あいつが柿沼だよ」

「冗談だろ。知ってて付き合ってるのか」

「全部知ってるよ。でもあいつに頼るしかなかったんだ。お父さんが居なくなった時、俺はまだ子どもだった。お母さんが外で働ける時間も、場所もなかったんだ」

 健人は話を続けた。

「そんな時に、俺とお母さんの前に柿沼は現れた。何も知らなかった俺たちは、まんまと柿沼に騙されてアパートに引っ越してきたんだ。少しの間住ませてやるってさ」

「健人は、柿沼の前ではなにも知らないフリをしているのか」

 藤田は聞く。

「そんなところだよ。犯人だった運転手も結局行方不明だし、柿沼を恨んだところでどうにもならないからね」

「当時の社長には相談しなかったの」

 麻衣が割って入った。

「俺はその社長がどんな人かは良く知らないけど、もしかしたらお母さんは相談してたかもしれない...」

 健人が言う。

「それ...俺です」

 髭さんが突然手を上げた。

 三人の口が《《あんぐり》》と開く。

「え...」

 健人が声を漏らす。

「髭さんっぽくない...」

 三人の中で一番驚いていたのは、健人だった。

「あの時の俺は社長業でむしゃくしゃしてたんだ。めちゃくちゃ若かったしな」

 髭さんは頭を掻きながら、恥ずかしそうに言う。

「髭さんって健人のお母さんと付き合ってたんだろ」

 藤田が聞く。

「付き合ってたというか、一緒にいたというか。自然とそういう関係になったというか...」

「髭さんは本当に黒いセダンのこと知らなかったの」

 麻衣が言う。

「知ってたさ、当たり前だろう。ただあの時は口止めされてたんだ」

 髭さんは俯く。

「髭さん、俺は髭さんのこと責めたことなんて一度もないよ。お母さんからは、髭さんのいい話しか聞いたことないしさ。お父さんが殺されるなんて思ってなかったんだろ」

 健人が言う。

「あの時のボスは選挙活動を控えていたんだ。もちろん当選するわけないんだけどな。評判を少しでも落とすことに危機を感じたんだろう。だが、まさか山崎が殺されるなんてな...」

「当時のことはもういいんだ。お母さんと一緒に乗り越えた壁だから。問題は今だろ」

 健人は力強く言った。

「そうだな。問題は今だ」

 藤田も同調した。

「乗り越えたはずの壁をまた建てることになるけど、数年越しに柿沼に痛い目を見せてやれるのは、気持ちいかもしれない」

 健人はワクワクしていた。

「ボスに痛い目を見せるって、おまえら正気か」

 髭さんは心配そうだった。

「で、どうするの」

 麻衣が聞く。

「今やれることは全部やった。俺たちはアパートに帰って待機しよう。警察が来ても俺と健人がなんとかする」

 藤田が言う。

「うん」

 健人は頷いた。

「警察がここに来たら俺もシラを切るからな」

 髭さんはカウンター内に引っ込んだ。

「俺らも一旦戻ろう」

 藤田がそう言うと、その場を解散した。

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 健人の部屋に到着した三人は、話し合いの続きを始めた。このまま警察がくれば裏の雑草を調べ、柿沼を逮捕まで追い込むことができるのか。それとも替え玉として下っ端が現れるのか。それとも、ハメられたことに気付いて自分たちの誰かが消されてしまうのか。

 だがここまで来てしまったら、柿沼をハメるほかなかった。最後までシラを切り通し、隠し通さなければいけない。

「今は話し合いをしてもなにも解決しない。後は警察が来るのか、このままなにもなく時間が経つのを待つかしかない。とにかくみんな、事が収まったらまた再会しよう。再会の合図は健人に任せる」

 藤田は言う。

「はい、またみんなで再会出来る日を楽しみにしています」

 麻衣は名残惜しそうに部屋を後にした。

「藤田さん、もし俺のところに警察が来たら、うまく話をつけるよ。あいつらきっと俺の部屋で大麻を栽培していたなんて思わないさ」

「だろうな。俺は警察署に連れて行かれるかもしれないが、証拠不十分ですぐに釈放されるだろう。まあ、またすぐに再会できるさ」

 二人は固い握手を交わすと、藤田も部屋を出た。

 まっさらになった部屋の真ん中には、綺麗なクロスが敷かれたテーブルがある。整理整頓された部屋には塵一つなく、母の遺影は健人を優しく見守るように輝いていた。

伐採と家宅捜索

 解散してから数日、健人には普通の日常が戻ってきた。警察が来る気配もなく、健人の周りは静まり返っていたのだ。このままなにもなければいいと願っていたある日、思いもしないことが起きた。

「なんの音だろう」

 健人が外の騒音で眠りから覚めた。

 窓を開け耳を澄ますと、重機の音が響いているのだ。

「うちに警察が来る前に伐採が始まったんだ...。藤田さんのところには、警察が来たのかな」

 健人は窓を閉め、慣れた手つきで珈琲を淹れた。

 このまま伐採が続けば、半日で大麻は刈られてしまうだろう。藤田と健人の努力の結晶はあっけなく消えてしまうのか。健人は珈琲を飲みながら考えたが、現状の打開策が導き出せない。考えている間も雑草を刈る音が消えず、とうとうお昼になってしまった。

 音が聴こえなくなったのを確認すると、健人は窓を開ける。職人たちが昼休憩に入るかと思っていたが、帰り際にラーメン屋に行こうという会話をしていた。昼前に大麻は伐採されてしまったのだ。健人が窓を開けながら放心状態でいると、インターホンが鳴る。健人が玄関の方へ歩くとドアの向こう側から声が聞こえた。

「山崎さん、いらっしゃいますか。警察です」

 とうとう警察が来たのだ。

 最悪なタイミングで現れた警察に、健人は動揺していた。同時に藤田のほうはどうなったのか考えたが、今は気持ちを落ち着かせることを優先する。

 普段から当たり前のように生活出来ているが、今この瞬間だけは事故直後のように振舞わなければいけない。警察の目を欺くためだ。

「はい。今出ます」

 健人はぎこちなくドアを開けた。

「こんにちは。こういうものです」

 お決まりのセリフから、目の前の警察官は警察手帳を出したものと思われる。

「(玄関の前には三人。三種類の臭いと、三つの気配を感じる。感覚でしかないが、三人とも男だと言うところまでは分かる。いや、確実に男だ)」

 健人は心の中で推理を始めた。

「えっと...」

 ところが健人は、いつも以上に大袈裟に見えない素振りを見せる。

「あ...警察です」

 察した警察は不自然な自己紹介をした。

「警察の方がうちになんの用でしょうか」

「令状がありまして、読み上げさせていただきます」

 警察官は丁寧に令状を読み上げる。

「あなたには大麻取締法違反の疑いで令状が出ています。家の中を調べさせて頂いてよろしいですね」

 警察は言う。

「令状...身に覚えがありませんが、協力できるのでしたらぜひ」

 そう言った健人は、警察官を家の中へ招いた。

「この部屋にはお一人で住んでるのですか」

「はい、そうですが」

「なるほど。普段はどういったお仕事をなさってるのでしょうか」

「こんなナリですから、仕事なんてできませんよ。生活保護を受けてます」

「そうでしたか。家の中の物調べさせて頂きますね」

 健人に質問しながらも、警察官三人は家宅捜索を続ける。

「どうぞ」

 健人はリビングの椅子に腰かけた。

 警察官たちは、お風呂からトイレの隅まで調べ、母の部屋の襖を開ける。部屋の掃除は藤田に任せていたが、この部屋の捜索に関しては正直緊張していた。いつどのタイミングでこちらを見てくるか分からない健人は、出来る限り自然な顔で椅子に座っている。匂いの心配はないだろう、なぜなら健人の嗅覚は、その辺りの人より優れているからだ。

「山崎さん、こちらは...」

 警察官の声がした。

「どうしましたか」

 健人は立ち上がり、途中わざとらしく躓きながら母の部屋へ行く。

「こちらの仏壇も調べさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか」

 警察官は母の仏壇の前にいるらしい。

「勿論です」 

「ありがとうございます。故人を利用して犯罪を犯す人も、増えてきているんです」

「故人を利用だなんて、なんて罰当たりな。今回僕に令状が出たのですよね。まったく覚えがないのですが...」

 健人は藤田のお父さんの事を思い出しながらも、とぼけた返答をする。

「令状が出たからといって、必ずしも逮捕になるとは限りません。今回はネット上での購入履歴を辿って、こちらにもお邪魔したのですが...」

 警察官たちは必死に証拠を探しているようだ。

「こちらにもと言いますと...」

 健人は聞いた。

「いえ、お気になさらないで下さい」

 警察官は失言をしたようだ。

 この調子だと、藤田の家にも確実に警察が来ているだろう。藤田がどのような話をしたのかは分からないが、ここはうまく乗り切るしかなかった。

「いくら探してもなにもないと思いますよ。こんな私になにかできると思いますか」

「なにかの間違いだった可能性が十分にありますね。スマホやパソコンはお持ちではないですか」

「パソコンはありません、見えませんから。スマホでしたらこれを」

 健人はポケットからスマホを取り出す。

「中身を拝見したいのですが」

 健人はスマホのロックを解除した。

 警察官がスマホをいじると、早口の音声が再生される。健人が愛用している便利な機能だ。慣れれば慣れるほど早口になるが、聴き取れる。

「ううん...証拠となりそうな物はなにも出てきませんね」

 健人のスマホの操作に苦戦している警察官は、諦めた顔で健人にスマホを返却した。

「お隣の藤田さんとのご関係を、お伺いしても宜しいですか」

「藤田さんですか。たまに廊下で挨拶をする程度です。私自身、人とのコミュニケーションが苦手でして...」

 この返答は賭けだった。

 藤田と健人の関係を、どのように話すかを決めていなかったのは、失敗だった。祈るような気持ちで発言したが、失言してしまっては藤田も健人も危うい状況になるだろう。心臓が口から飛び出してしまいそうなほど鼓動し始め、健人は冷静さを失いそうになってしまった。

「...藤田さんも同じようにおっしゃってました。ご近所同士で、なるべく助け合えると良いですね。長い間失礼致しました。こちらの勘違いだったようです。申し訳御座いません」

 警察官が謝罪をした。

「いえ、こちらこそお騒がせしました。大きな声で言えないのですが、このアパートの隣はヤクザの事務所になっているんです。そのせいか、よく警察の方がいらっしゃってる部屋もあるようですよ。例えば101号室とか」

 健人は、藤田の下に住む住人の話を持ちかけた。

「なるほど、ご協力感謝致します。では、私たちはこれで」

 健人の部屋になにもなかったことを確認すると、警察官たちは足を揃えて部屋を後にした。

CBDで再起

「藤田さんどうしよう」

 警察官が帰った翌日、早朝に藤田の家を訪れた健人。

 健人は久しぶりに落胆していた。それもそのはず、二人で大切に育てていた大麻が、伐採されてしまったからだ。

「健人、なんとか口裏を合わせられたようだな。よかった」

 藤田は部屋で呑気に煙をふかしていた。

「なにを呑気に煙草なんて吸ってるんだよ。って煙草じゃないねこれ、アロマかなにかか...」

「さすが健人、すぐ気付くのな。この間髭さんにもらったんだよ」

 笑いながら煙を吐く藤田。

「そんなことより、伐採されちゃったじゃん。どうするの」

 健人は焦っていた。

「大丈夫だよ、仕方なかったんだ。どのタイミングで建設が始まるか分からなかったし、なんなら一番最悪なタイミングで警察も来たよな」

 藤田は笑っていた。

「なに笑ってんだよ。俺たちこれからどうすんのさ」

 健人は怒っている。

「まあまあ、そんなに熱くなるなって。ちゃんと考えてるって」

 藤田はやけに余裕だった。

「大麻がなくなったのに、その余裕はなんなの」

「いいから一回座れよ」

 藤田が健人をソファに座らせる。

「今回は柿沼とのいざこざもなくなったわけだし、なんとか平常運転に戻れる策も準備できたぞ」

「新しい策ね。藤田さん俺さ、今回の件で柿沼に仕返しできると思ったんだよね」

 健人は一瞬悲しい表情をした。

「健人は柿沼に復讐したいのか」

 藤田は真剣な顔になる。

「復讐か。柿沼が直接手を下したわけじゃないのは分かってるんだけどさ。心の奥底では殺してやりたいと思ってるよ」

「おまえの目と親父さんを奪ったのは、柿沼だもんな」

「でも『復讐からはなにも生まない』、それはなんとなく分かってはいるんだ。お母さんが復讐を望まなかったようにね」

「なるほどな。俺もクラブで桜庭を見つけた時、復讐心に囚われたよ。あいつのせいで親も悲しませたしな」

「藤田さんは、桜庭と対峙してどんな気持ちになったの」

「俺か、俺は桜庭に対して『哀れみ』を感じたよ。あいつに何があったのか知りたくなった」

「哀れみか...。俺の気持ちもこの先変わるのかな」

「どうだろうな。それはこれからのおまえ次第じゃないか」

「うん、そうだね」

「健人いいか、よく聞け。次の商品は『CBD』だ」

 藤田は空気を換えるべく、自慢げに言った。

「CBDってなに」

 健人は聞く。

「これだよ、さっきから俺が吸ってるこれ。CBDってのは、カンナビジオールのことだ」

 健人が藤田に渡されたそれは、鉄でできた細い筒状の物だった。

 吸い口にはガラス容器がついていて、その中に蜂蜜を連想させる液体が入っているそうだ。初めて触る形状に、健人は困惑した。

「余計分からないよ...」

 健人が”それ”を触っている間、藤田が説明を始めた。

「大麻から抽出される化合物の一つで、最近若者の間で注目を集めてるんだ。大麻ってのはハイになる成分の『THC』を含んでるんだが、CBDにはそれがない。つまりCBDではハイにならないんだ」

「ハイになる成分がないのに人気があるの」

 健人は、吸い口であるガラスの部分に触れていた。

「CBDが注目されている界隈は、健康やウェルネスの分野だ。『素敵なライフスタイルを歩みましょう』みたいな分野だな」

「なるほど。それだけだと美容的なものなのかなと思うんだけど...」

「まあそんなところだろう」

「CBDには、どんな作用があるの」

「例えば、痛みや炎症、不安やストレスの緩和。睡眠の向上などが言われている。接種方法も様々で、オイルやカプセルとして飲んだり、クッキーに混ぜて食べたり、クリームやローションにして肌に塗ったりもできるんだぜ」

「そんな使い方まであるんだ」

「とにかくそれ、吸ってみろよ。これは『べイプ』って呼ばれる形だな」

 健人は吸い口を確認すると、口を付け吸い込んでみた。

「うわ、いい香り...パイナップルみたいな、ジェラートみたいな。紙で巻いている大麻と違って、独特な香りもないし、口の中の臭いも気にならない。凄い吸いやすい」

「だろ。これは試作品なんだが、今後正式に発表しようと思ってる。サイトは一度閉鎖したけど、また新たに開設するぞ」

「じゃあ麻衣の協力が必要だね」

「そうだな。また明日くらいには麻衣に連絡できると思う」

「麻衣に会うの久しぶりだな」

 健人が言う。

「そんな久しぶりでもないだろ」

 藤田は笑っている。

「一週間くらいは空いたでしょ」

「一週間っておまえ、恋人じゃないんだから」

 藤田が言うが、健人が黙り込む。

「え...おまえと麻衣、できてるのか」

 藤田は目を丸くした。

「で、できてるって、そんなわけないだろ」

 健人は照れながら体をくねらせた。

「おまえ...キモイぞ」

 藤田は引いた。

「失礼だな。ところでCBDは、大麻と違って体感は違うよね」

「だいぶ違うな。CBDに関してはリラックスがメインになってくるからな、少しすれば分かると思うぜ」

「いや、もうなんとなく感じてきた。大麻の時のハイになるって感覚と違って、体の力が抜けてフワフワする感覚。温泉に入ってまったりするあの感じ」

「おお、的確な表現だな」

「大麻はサウナで整う感じに似てるなって思ってたけど、CBDの体感はまた別だね。日常の中のどこにでもあるような、リラックスの感覚を簡易的に引き出せると言うか...」

「確かにその例えが分かりやすいかもしれない。強くない体感だからこそ、一般の人にもウケるんだろうな」

「逆を言えば、大麻を吸ってる人には体感が弱く感じてしまうかも...」

「まさに。大麻や幻覚剤なんかが好きな人にはあまり好まれないかもな。ただ、上手な使い方が分かってる人たちは、ハイになり過ぎた時の抑制として吸ったりするんだ」

「なるほど...俺たちはそこを責めるわけね」

「御名答。俺たちはこれから癒しを提供するぜ。しかもCBDは日本でも合法なんだ」

「え、そんなことあるの」

「ある。CBDに関しては、厚生労働省が許可を出してるんだ。大麻の成分だからと言って、怪しいものだなんて認識は、ジュラ紀並みに古いからな」

「怪しい...」

「本当だよ。厚生労働省のホームページを読むと、『大麻草の成熟した茎や種子のみから抽出されたCBDを合有する製品については、大麻取締法上の「大麻」に該当しません』と記載されてる。まあ、製品を輸入する前に、麻薬取締部においてその該否を確認しているともあるがな。しっかりと国の手続きに沿って輸入することが大切だ」

「違法な物を売ってた人が良く言うよ」

 健人は笑っている。

「おまえもだからな」

再会 新装開店

「二人とも久しぶり」

 藤田の部屋のドアを開けたのは麻衣だった。

「麻衣、久しぶりだね」

 健人は麻衣の声を聞くと笑顔になった。

「健人、久しぶり」

「ちょっと待ておまえら。どこが久しぶりなんだよ」

 藤田は言う。

「若者の間では、三日以上会わなければ久しぶりなんですよ」

 麻衣が言う。

「そうそう」

 健人も便乗する。

「おまえらな、何度も言うが俺はまだ28歳だっての。人を年寄り扱いするなよ」

 藤田の顔がひん曲がった。

「まあまあ、それで話ってなんですか」

 麻衣が首を傾げる。

「麻衣、CBDは知ってるか」

 藤田はべイプを渡しながら言う。

「もちろん知ってます。今はバスボムなんかでも使われてるよね」

「バスボムにもなるCBDって、いったいなんなの」

 健人は興味を持ち始める。

「さすが麻衣だな。ちょっとこっちに来てくれ」

 藤田は麻衣をベランダに連れて行く。

「ちょっと...全部なくなってるじゃん」

 ベランダから外を見た麻衣は唖然とした。

「この通りなんだ。俺らが汗水流して育てた大麻たちは、もういない」

「...それでCBDなんですね」

 麻衣は顎に手を付けた。

「正直CBDは悩んだ。瞬発力はないと思ったからな」

「確かに。でも私たちには資金はありますよね」

「そう、それだ。髭さんへの返済も間もなく終わるし、大麻で稼いだ金をCBD事業に全振りできる。将来的に美容やリラックスに特化した商品を作れれば、この先も長く続けられるビジネスになると思うんだ」

「それはそうですけど、CBD単体で戦うって相当難しいと思いますよ」

「なんで難しいの」

 いつのまにか健人もベランダに来ていた。

「CBDっていうのはね、知名度もまだ低いの。世に知れ渡ってない物を売るっていうのは、余程の影響力があるか、必需品でなければいけない。CBDは世の中の必需品ではないし...」

「なるほどね。それならオリジナリティがあればいいってことだね」

 健人は言う。

「そんな簡単じゃないわ」

「簡単じゃないことは分かるよ。ただ俺に考えがある」

 健人が言う。

「考えか、言ってみろ。大麻の時も健人のアイデアを参考にしたからな」

「俺みたいな人に売ってみないか。俺らみたいな少数派から支持を得られれば、購入ルートが一定になるんじゃないかな」

「確かに。元々少ないところにアプローチをかけるのは良いかもしれない」

 藤田は腕を組み、首を縦に振る。

「どうやって売るの」

 麻衣は言う。

「ラジオ配信をするのはどうかな。放送の中でCBDの効果なんかを紹介するんだよ。ラジオからCBDへ興味を移す」

 健人は言う。

「いいかもしれない」

 麻衣がつぶやいた。

「俺も賛成だ。盲目の人らに大麻が浸透しているかは分からないが、ラジオ配信ならCBDに興味をもってくれる《《きっかけ》》が作れるかもしれない」

「ラジオ配信は、今後流行るって言われてるし『大麻』のようなテーマは、一般的に生活している人からすると物珍しい」

 健人が言う。

「広報は私がなんとかする。なるべく多くの人に大麻の良さを知ってもらえるように頑張るよ」

 麻衣は腕を組んだ。

「広報もそうだけど、麻衣にはラジオ配信もお願いしようと思ってた。やっぱり女性の声のほうが安心感があるし、親しみやすい」

「私で大丈夫かな」

 麻衣は不安そうだ。

「大丈夫だよ、絶対にいける」

 健人は麻衣に力強く言った。

「媒体はどうするんだ。ラジオといってもそんなメジャーなところがあるのか」

 藤田が言う。

「メジャーなところじゃなくてもいいと思います。例え10人でも興味を持ってくれる人がいれば...そこからは私に任せて下さい」

「藤田さん、麻衣を信じようよ」

「だな。こういった事に関しては麻衣に任せるしかないか」

 藤田は納得したようだ。

「最初に展開するのは『CBDリキッド』だとして、販売までの商品へのアプローチは任せて下さい」

 麻衣は自信満々だ。

「分かった。俺たちが次にすることは、リキッドの制作だ。大麻の時と違って、原料となるCBDと植物由来のテルペン、つまり香りを混ぜ合わせるぞ」

「なんかいきなり科学っぽくなったね」

「確かに化学っぽいかもしれないな。だが、考えているより簡単だから、その辺は安心してくれ。音声機能付きの測りさえあれば、健人でもなんとかなる」

 藤田はそう言うと、押し入れから道具を出した。そして、テーブルに並べた道具たちを健人に触らせる。

「どうだ健人。大麻を育てる道具よりは、ごちゃごちゃしてないだろ。まずは原料の入った瓶だ。そしてテルペン。原料を混ぜ合わせる空瓶と、注射器。あとは煮沸する用の鍋でもあれば十分だ」

「これなら作りたい時に作れるけど、大麻を育てる時よりごちゃごちゃしてるよ...」

「そうかな。俺も作ってみたが、凄く簡単だったぞ。初めの数日は麻衣にも協力してもらって、慣れてきたら一人で作業できるようにしよう」

「健人、一緒にがんばろう」

 麻衣は健人に向かって拳を握った。

「ま、麻衣が一緒なら...」

 健人は内心喜んでいるようだ。

「おい健人、顔に出てるぞ」

「か、顔に出てるってなにがだよ」

 健人は焦っている。

「なんでもないよ。この道具も健人の部屋に持って行こう」

 藤田を笑みを含めながら、道具をバッグにまとめ始めた。

 三人は荷物をまとめると、健人の部屋へ移動した。

____________________________________________________________________________

「作り方は簡単だ。説明しながら作ってみるから聞いててくれ。まずは...」

 藤田がCBDリキッドの作り方を、詳しく教え始める。一般的な作り方は、材料をよく混ぜ合わせ容器にいれるだけだが、これだけでは他のCBDと変わらない。そこで藤田はオリジナリティを出すために、香りにこだわったのだ。

「完成だ、健人吸ってみてくれ」

 藤田は完成したリキッドを健人に渡した。

「できたては温かいんだね、吸ってみるよ」

「さっきのCBDもよかったが、こっちはもっといいと思うぞ」

 健人は吸い口を咥える。ゆっくり煙を吸い込むと口の中に広がる味を感じた。まもなく鼻の奥に南国を想像させる香りが充満し、肺を通った煙を満足そうに鼻と口から吐いた。

「藤田さん、最高だ」

 健人の表情は和らいだ。

「だろ。これが俺らのオリジナルCBDだ。こだわりにこだわったブレンドが、この味と香りを引き出すんだ」

「麻衣も吸ってみなよ」

 健人はCBDべイプを前に出した。

「ありがとう」

 べイプを受け取った麻衣は、健人と同じように吸い込む。

「CBDも配合によっては、ハイの感覚を味わえるんだぜ」

 藤田は、いつもの得意げな顔をしている。

「おいしい。女の子にも人気が出そうなフレーバーだね。大麻っぽさがなくて、凄くお洒落な感じ。私これ大好きだよ」

 麻衣は目を輝かせた。

「だろ。健人はそろそろ効いてきたんじゃないか」

 藤田は健人を見た。

「うん、確かに効いてきたよ。でもなんだろう、大麻とはまた違うけど《《ハイ》》になってるような...」

「本当だ。私もハイの感覚がきた」

「やっぱりな、特別な配合をしたんだ。もちろん合法な成分だけどな」

「これで合法なのか。恐るべしCBD...」

 健人はハイの感覚を楽しんでいる。

「そこまで強烈なハイじゃないんだけど、なんて言うんだろう。ミストサウナに入っているような感覚かな。ストレスが発散されていく感じがする」

 麻衣は、部屋にあるソファに腰かけ、気分が良さそうにしていた。

「良い感想をもらえたよ、ありがとう。うちはこの商品を推していくから、味や感覚なんかはよく覚えておくんだぞ」

第三章 異変

二か月後...

「おい、どうなってる。なぜ売上が減ってるんだ」

 クラブのVIPルームでソファに深く腰掛ける桜庭は、部下に詰め寄っていた。

「申し訳ございません。原因は今調べているところでして」

 部下の一人は頭を下げながら答える。

「今から調べるだと。これだけ売上が減っていたら、もっと早い段階で気付くはずだろ」

 桜庭はさらに詰める。

「申し訳ございません」

「あのな、謝るだけならガキでも出来るんだよ。どうするのかって聞いているつもりなんだけど、分かるかな」

 桜庭はソファから立ち上がる。

「い、今すぐに原因を調べに行きます」

 部下の声は震え、脂汗を噴き出す。

「だよな。すぐに行動だよな」

 桜庭は、部下の髪の毛を掴むと首を後ろに反らせた。

「すいません、すいません」

 天井に向けて放たれる部下の声は、首を反らせているせいでかすれていた。

「とっとと行け」

 桜庭は、部下の耳に容赦なく怒号を食らわせると、そのままドアに向かって投げ飛ばした。

 部下は、一度桜庭のほうに振り返り頭を下げると、走って部屋を後にする。

「そういえば麻衣はどこに行ったんだ。あいつ長い間来てないよな」

 桜庭は後ろを振り返り、別の部下に聞く。

「確かに見ていませんね。麻衣の件も一緒に調べさせます」

 部下はそうゆうとスマホを取り出し、さらに別の部下にメッセージを送った。

「どいつもこいつも使えねぇな」

 桜庭は苛立ちを隠しきれず、道を塞ぐローテーブルを蹴り飛ばす。

 テーブル上のグラスや、皿に盛り付けられた食べ物が大きな物音を立て床に散乱すると、桜庭は煙草に火をつける。

「また派手にやってるなぁ」

 桜庭が貧乏ゆすりをしていると、何者かがドアを開け部屋に入ってきた。

「おまえ、鈴木か。出てきたんだな」

 桜庭は煙草を灰皿で押し潰した。 

「今朝な。誰も迎えに来ないから見捨てられたかと思ったぜ」

 鈴木は言う。

「そんなわけないだろ。すまなかったな、今馬鹿どものせいでバタバタしていて」

 桜庭は鈴木と呼ばれる男に近付き、肩を叩く。

「なんかあったのか」

「売上が先月あたりから減っているんだよ。原因は今のところ不明なんだが」

 桜庭は腕を組み、考える素振りを見せる。

「別に売人が出てきたかもな。なにか心当たりはないのか」

 鈴木はにやつく。

「最近出所してきた藤田ってやつがいるんだけどな、このクラブでハッパを売ってやがったから、気絶するまで痛めつけてやった。そのくらいじゃないかな」

「最近出てきた藤田...その藤田は、俺の知っている藤田と同じかもしれない」

 鈴木は驚いた表情をしている。

「なんでそうなるんだよ。もしかして一緒の刑務所だったとか」

 桜庭は冗談交じりで言う。

「そうかもしれない」

 鈴木はそう答えると、一瞬頭を抱えた。

「まじかよ、どんな関係だった」

 桜庭は興味本位で聞く。

「親友に裏切られたかなんかで、すごいつらそうだったから、出所間際で仕事を紹介してやったんだ」

 鈴木はそうゆうと、近くのソファに腰かけた。

「その親友は、俺の事かもしれない」

 桜庭がボソッと言う。

「まじかよ。でも痛めつけたって言ってたじゃないか」

 驚いた鈴木は、一度座ったソファから勢いよく立ち上がる。

「痛めつけたさ。あいつのことは昔から《《いけ好かなかった》》んだ」

 桜庭は、ソファに腰かけながら手に顎を乗せていた。

「ただの喧嘩じゃないようだな。このまま縄張り争いになると面倒だ。場所は分かるから、今度は俺が痛めつけにいくよ」

 鈴木は、食事用のテーブルナイフを手に取ると、そのまま部屋を出るため入口まで歩いて行く。

「待てよ」

 桜庭が鈴木を止める。

「なんだ」

 鈴木も足を止め、桜庭のほうに向きなおした。

「あいつは、藤田は、たぶん力で屈服させることは出来ない。藤田の代わりに探し出して、連れてきてほしい奴がいる」

 桜庭はそう言うと、鈴木に耳打ちする。

「わかった。そいつを探し出してここに連れてくる」

 鈴木は不敵な笑みを浮かべた。

 鈴木がクラブを出ると、太陽の光が傾いていた。

「暗くなる前に一度おっさんのところに行くか」

 鈴木はタクシーを捕まえると行先を伝え、「Bar Spray」へと向かった。

 到着するや否や、雑居ビルの階段を駆け上がって行く。

「おい、おっさん」

 鈴木は「Bar Saray」の【closed】の看板を無視し、扉を勢いよく開ける。

 カウンターの奥から、恐る恐る顔を出す髭さん。

「お、なんだおまえか。今日出所だったのか」

 髭さんは嬉しそうな顔をした。

「そう、誰も迎えに来なかったけどな」

 鈴木はまだ根に持っているようだ。

「まぁそんなこともあるさ。それよりおまえが紹介してくれた藤田っていただろ。相当仕事ができるよ。おかげさまでうちも安泰だ」

「それはよかった。藤田は今どこにいるかわかるかな。出所祝いで会いたいんだよね」

「藤田か。藤田なら裏のアパートの201号室に住みこんでるよ」

「ありがとう」

 それを聞いた鈴木は、髭さんに背を向けバーを出た。

 急ぎ足で裏のアパートに向かうと、さっそく201号室の部屋の前に立つ。一呼吸置き、ドアノブに手を掛けようとしたその時だった。

 突然隣のドアが開いたのだ。

「あ、今日はそちらの方は留守にしていますよ」

 隣の部屋から顔を出したのは麻衣だった。

「そうですか。失礼ですが、あなたとのご関係は」

 鈴木が聞く。

「え、友達ですけど...って突然なんですか」

 麻衣は咄嗟に『友達』と言う言葉を発してしまったが、鈴木の事を怪しんだ。

「友達ですか。いつ頃帰ってくるか分かりますかね」

「いえ、知りません。私急いでいるので」

 麻衣はそうゆうと小走りで階段を下り、道路まで走った。

 そして、いつものようにタクシーを待っている時、目の前に白いバンが止まった。後部座席のドアが開くと背中を何者かに強く押されたのだ。その勢いのまま車の中に押し込められる麻衣。大声で叫び抵抗するも、完全に閉められたドアの内側では何も意味をなさなかった。

善と悪

 麻衣は騒音で目を覚ました。耳障りな音楽が響く中、意識がハッキリとしてくると、ここがクラブのVIPルームだということに気付く。

「おまえなにやってんの」

 意識が朦朧とする麻衣の耳に入ったのは、桜庭の声だ。

「桜庭先輩...どうゆうことですか」

 麻衣は混乱している。

「こっちが聞きたいよ。麻衣さ、藤田のとこの商売手伝ってるでしょ」

 桜庭はソファに座りながら聞く。

 不意を突かれた麻衣は、言葉を失い黙り込んでしまった。

「やっぱりそうか。ダメじゃん、それは裏切りだよね」

 ソファの肘掛けを、トントンと指先で打つ桜庭は、誰が見てもイライラとしている。

「いえ...手伝ってたとゆうか...ただ仲の良い友達で...」

 麻衣の目に生気はない。

「そうなんだ。でもさ、うちの客取っちゃったよね。うちから客引けば簡単だもんね。顧客に問い詰めたけどさ、簡単にチンコロしたよ。やり方が同じじゃん、バレるのわかってたよね」

 桜庭の感情は、徐々に表に姿を現す。

 怯え切った麻衣は、何一つ言葉を発することが出来なくなってしまった。

「もういいよ、本当は連れてくるのおまえじゃなかったんだけどさ、来ちゃったもんは来ちゃったとして、藤田を釣る餌になってもらうね。おい、カメラとロープ」

 桜庭は部下に指示を出す。

「はい」

 桜庭の部下の一人が部屋を出る。

 部屋に残っている桜庭の部下達は、鈴木も合わせると全部で十人ほど。この先なにが起きようとも、麻衣一人では抵抗することは不可能だろう。麻衣は生気を失った目で、まっすぐに前だけを見つめていた。

「持ってきました」

 一人の部下がカメラとロープを手に持っている。

「縛れ」

 桜庭が指示を出すと、部下は麻衣の両手を縛り始める。

「や...やめて下さい...」

 麻衣の目からは涙が流れ、か細い声を出す。

 部下は麻衣を縛り終えると、桜庭からカメラを受け取り、舐めるように麻衣の顔を撮った。

「桜庭先輩許してください、お願いします。ごめんなさい、ごめんなさい」

 麻衣は泣きじゃくる。

「鈴木、おまえ出てきたばかりだろ。やれよ」

 桜庭は鈴木に首で合図を送った。

「いいのか。ありがてえ」

 鈴木はそうゆうと麻衣の襟元に手をかけ、服を引き裂こうと力を入れた。

 その時...木箱を壁に打ち付けたような音と一緒に、勢いよくVIPルームのドアが吹き飛んだ。

「な、なんだ」

 桜庭は驚いてドアの方に振り向いた。

 なんとそこには、鬼のような形相の藤田が立っていたのだ。

「おまえら、なにやってるんだよ」

 藤田は怒りを堪え切れず、入口付近の部下に掴みかかった。

 入口付近にいた部下の髪の毛を、片手で鷲掴みにし、力いっぱいその頭を壁に激突させる。藤田に気付いてこちらに走ってくる男の腹に、強烈な前蹴りを放つと、その男は沈み込み、続けて近くにいた男の頭を両手で掴むと、自分の膝へと勢いよく打ち付ける。

 藤田は、足元に転がっている瓶を確認し、それを拾い上げると、躊躇なく部屋中に散乱している部下たちの頭を引っ叩いた。桜庭の部下たちは、弱いわけではなかったが、藤田の恐ろしい形相と勢いに、全員が揃って萎縮してしまっていたのだ。

 それは桜庭も例外ではない。

 桜庭は過去に一度だけ、藤田が我を失った様子を見たことがある。あの光景はまるで地獄だった。桜庭が必死に止めていなければ、確実に人を殺してしまっていただろう。その時は、今回の麻衣と同じように、桜庭が誘拐されたことが原因だった。

 藤田は、いとも簡単に桜庭の髪の毛を掴んだかと思うと、もう片方の手で、桜庭の鼻目掛け強烈な拳を振り切った。桜庭の口からは、とてもじゃないが声とは呼ぶことができない鈍い音が出る。

 桜庭は吹き飛び、それと同時に大量の血を鼻から吹いた。

 それを見ていた鈴木は、恐ろしさのあまり後ずさり、端の方で固まる残りの部下たちは、次は自分達だと生唾を飲んだ。桜庭の意識が飛んだことを確認した藤田は、目線を部下たちに向け、掴んでいた髪の毛を離した。

「藤田さん。大丈夫か」

 ゆっくりと立ち上がる藤田に、ドアの前に立つ健人の声が響く。

 真っ赤な目で健人を睨みつける藤田は、少しづつ落ち着きを取り戻していった。

「藤田さん、麻衣は。麻衣はどこにいるんだよ」

 健人は両手で宙を探りながら部屋に入ってくる。

「健人、こっち」

 疲れ切った麻衣の声。健人は、その声が聞こえる方に勢いよく走った。

「遅くなってごめん。麻衣が家を出た後、誰かと話していたのを聞いていたんだ。その時に、追いかけたんだけど間に合わなくて」

 健人は、麻衣の腕に巻かれたロープを解きながら言う。

「ううん、助かったよ。健人が藤田さんに連絡してくれたんだね、ありがとう」

 麻衣は安堵の涙を流した。

「大丈夫か麻衣。大変なことになって申し訳ない」

 藤田も麻衣に謝る。

「大丈夫です。ギリギリのところで助けてもらえましたんで」

 麻衣は笑顔を作った。

「そうか。麻衣、健人、少し外で待ってろ」

 藤田はそう言うと、気を失っている桜庭のほうへと向かい、顔面目掛けグラスの水をぶちまける。

「コホッ、コホッ、コホ」

 渇いた咳を出した桜庭は目覚め、今の状況を理解しようと目玉をキョロキョロとさせていた。

「おまえ、やりすぎたな」

 藤田はドスの利いた声で桜庭に言う。

 桜庭は座り込み、横目で藤田を睨むと少しの間をおいて発する。

「お前は昔から、本当にむかつく奴だな」

 桜庭は拳を強く握った。

「むかつくって、恨まれるのはどう考えてもおまえのほうだろ。八年前のあの日、お前が俺を裏切ったせいで俺の人生はめちゃくちゃだ。親友だと思っていたのに、なんであんなことしたんだよ」

 藤田は桜庭の胸ぐらを掴む。

「お前には理解できない」

 桜庭も掴み返す。

 桜庭は話すのがキツそうだったが、余程恨みが強いのだろう、ひしひしと怒りが伝わってくる。

「俺には理解できないだと。言わせてもらうが、ずっと親友だと思っていた奴に突然裏切られ、理由も分からないまま八年間刑務所で過ごした。この苦しみが、お前に理解出来るのかよ」

 藤田は悲しそうに話を続ける。

「おかげで人間不信になったよ。何度中で死のうと思ったか。でも生きたよ、生き抜いたさ。なにが正しい事で、なにが悪い事なのかをお前に教えるためにな」

 悲しそうだった藤田の顔だが、徐々にその表情は怒りへと変化してゆく。

「どこからものを言ってやがる。正しい事だと、悪い事だと。そんなくだらねぇ事ばかり言ってるからお前は裏切られるんだ。この世は正しいも誤りもない残酷な世界さ、お前みたいに善人振る程、余裕のある人ばかりじゃないんだよ」

 桜庭も怒りに満ちた顔で言い返す。

「俺が善人振ってると言ったのか。お前はプライドが高く、私利私欲のために人を踏みつけにしているだけだろう。なんだあの脱法ハーブって、お前の欲のせいでみんなボロボロになっちまってるじゃねぇかよ」

 藤田は拳を作り、床を殴った。

「今も昔も、お前はなにも分かってないよ。俺にだって絶対に守らなきゃいけないものがあったんだよ」

 桜庭は藤田をまっすぐに見つめる。

「何だよ、絶対に守りたかったものって、言ってみろよ」

 藤田の怒りはまだ収まっていない。

「弟だよ」

 怒りで目を赤くし、怒鳴る桜庭。

「弟...」

 桜庭の突然の告白に、藤田の怒りはどこかに消え去ってしまった。

健人の怒り

 気が付くとVIPルームには二人だけになっていた。藤田が暴れたことで部屋のスピーカーは故障し、呼吸をする音だけが響いている。

「金を盗んだあの日、どうしても治療費が必要だった。弟は重い難病で、あの金さえあれば助けられると思ったんだ」

「治療費って、何言ってんだよ。おまえに弟がいるのは知っていたけど、そんな難病を患っていたなんて。あの時相談してくれれば金くらい」

「ちっ、あの頃のお前は俺の事なんてまったく見えてなかったんじゃないのか。高校の頃、俺らが遊び半分で始めた大麻栽培は『二十歳』になる頃には大きなビジネスになっていた。藤田、お前は自然とその中心になっていたんだ。近くにいたはずなのに、遠い存在に感じたよ」

 舌打ちをした桜庭は話を続ける。

「俺もお前と一緒に進みたかった。でも俺には弟がいたから、どうして俺だけこんなにも苦しいんだって。ずっとお前の自由な生き方が羨ましかったんだ」

 桜庭は、藤田の目を見ながら涙を流した。

 そんな桜庭を見て言葉を失いかけた藤田だが、しばらくして話し始める。

「...俺から金を盗った理由は分かった。でもなんで脱法ハーブなんだよ。アレを吸った人を見たかよ。みんな人じゃなくなってるぞ」

「どうでもよかった。この世には『金を奪う人間』と『奪われる人間』の二種類しかいない。お前を裏切ってまで助けようとした弟も結局、金が間に合わずに死んじまった。ドナーを見つけられなかったんだ。皮肉だよな、神様なんてこの世にはいなくて、存在するとすればそれは金だ。お前もそう思わないか」

 桜庭は泣きながらも藤田に問う。

「金が神...か。確かに、金がもっと早く準備出来れば、お前の弟は救えたかもしれない。でもな、あの時のお前に本当に必要だったのは、金なんかじゃなく助けを求める勇気だったんじゃないか。俺は、お前の事を親友だと思ってたよ。裏切られた後でもな」

「きれいごとを並べるな」

「そう感じるならそれでいい。だがな、これからはお前のことは必ず助ける。だから、何でも相談してほしい。ごめんな、おまえの苦しみに気付いてあげられなくて」

 そう伝えた藤田は、桜庭に当時の出来事を謝罪した。

「何でお前が謝ってんだよ。俺がお前を裏切ったんだぞ」

 桜庭は動揺している。

「なんでって...」

「藤田さん、そんな奴に謝ることないよ」

 突然健人が現れ、二人の間に割って入った。

「健人、まだいたのか」

「なんで藤田さんが謝るんだよ」

 健人は怒っているようだ。

「藤田さんは、そいつに裏切られたんだぞ。そいつがいなければ、お母さんを悲しませずに済んだんじゃないのか」

「いいんだ健人。桜庭にも辛い過去があったことを俺は知らなかった。俺が悪いんだよ」

「いつもそうやって他人のことばかりだ。少しは自分の幸せのこと考えたことあるのかよ」

 健人の声が藤田の胸に響く。

「自分の幸せ...か。いつのまにかそんなこと、考えなくなっちまったな」

「...俺にしてくれた話、忘れてないよ。もしかしたら藤田さんは、覚えてないかもしれないけどさ」

「おまえに話って、なんのことだよ」

「やっぱり覚えてないんだね。あの時の藤田さん、凄くハイだったし忘れてると思ったよ」

 CBDの事業計画の後、藤田たちは順調に売り上げを伸ばしていた。麻衣のラジオ配信での集客も予想以上によく、オリジナルCBDは界隈で爆発的な人気を誇ったのだ。その間にも、髭さんが隠し持っていた「GreenCrack」をバーで吸っていたのだが、そんな中で藤田が健人たちに話したこと。それは、藤田の壮絶な過去の話だった。

 自分の生い立ちの話をするのを嫌がっていた藤田だが、珍しくハイになったかと思うと、あっさりと話してくれたのだ。

藤田の過去

 藤田は、埼玉にある汚れた川の近くで育った。大きな事件も小さな事件も日常茶飯事、そんな場所で生まれたのだ。生まれたことを後悔したことはなかった。常に一人で生きていたからだ。幼少期に家族とどこかに出かけた記憶はない、家族で食卓を囲んだことも。家族での記憶が唯一あるとすれば、母親と父親が喧嘩をしている光景だった。幼い頃から毎朝のように繰り返される大人の争いに、藤田は子ども心を失ったのだ。

 ”家族とは一体どんなものだろう”と考えていた藤田だが、幼少期には答えが出なかった。母親は朝から泣いていて、父親は怒りに震えながら仕事に向かう。それを真似た兄は父親のようになり、妹はそれを見て泣いていた。間に挟まれた藤田は「自分一人でも、生きていけるようにしなければいけない」と感じたのだ。その日から米の炊き方を覚え、パスタの茹で方も学んだ。これさえ覚えれば、家に居る限り食べ物には困らないと思ったからだった。

「お母さん、俺ボクシングやりたい」

 小学校に入学し三年が経つと、藤田は強さについて考えるようになった。

「ボクシングなんて痛いだけよ。やめなさい」

 テレビに釘付けの母親は、藤田の言葉に興味を一切示してなかった。

「痛くていいんだ。俺強くなりたい」

「なんで強くなる必要があるの」

「自分ひとりでも生きていけるようにしたいんだ」

「子どもが一人でなんて生きていけるわけないでしょ」

 母親は、やっと藤田の方を向いた。

「そんなのやってみないとわからないじゃん」

「確かにそうかもしれないけどね、誰かに頼まないとできないようなら、一人でなにかを成し遂げるなんて無理な事なのよ」

「どういう意味だよそれ」

「だからね、やりたいことをやってる人は、誰かに教えを乞う前に手を動かしてるもんなのよ」

 母親はそう言うと、テレビを消し立ち上がった。

「じゃあ、お母さんパートに行ってくるからね。圭《けい》は適当にご飯食べておいて」

 藤田は、母に言われた言葉を子どもなりに解釈した。つまり子どもであろうと、大人であろうと、やれることには変わらないのだと。その日から藤田は、学校帰りにランドセルを背負ったままの姿で、近所のジムを探し始めた。「ボクシングをやりたい」と言っても、どこに行けばボクシングを教えてもらえるのかが分からなかった藤田は、『ジム』と書かれた場所に片っ端から声をかけたのだ。時にはスポーツジム、老人のフィットネスクラブやプール教室なんかにも行ったことがあった。

 だが、いくら探してもボクシングを教えてくれそうなジムはなかったのだ。内心諦めかけていた藤田だが、ジムを探し始めて三日が経った頃、ある公園で運命的な出逢いをした。ブランコに座って空を眺めていると、どこからともなく物音が聞こえてきたのだ。それはまるで、風を切るような鋭い音だった。

 顔を上げると、公園のベンチの前で拳を構える女性の姿があったのだ。足は華麗なステップを踏み、拳で風を切っていた。口から洩れる音もどこか美しく、綺麗に伸びた黒いポニーテールは、しっかりと纏まっていた。汗が滴る白い肌は、どこか艶っぽく、少年である藤田の心を強く惹いたのだ。

「お、お姉さん」

 藤田は思わず声をかけた。

 練習中の彼女は藤田に気付かず、シャドーを続けている。

「あの、お姉さん」

 諦めずに声を掛け続けた。

 すると、集中していた彼女は、藤田の気配にとうとう気付いたのだ。

「どうしたのキミ」

 彼女の声は、夏の縁側で鳴る風鈴のようになんとも美しく、振り向いた時の香りは、甘ったるいジェラートのようだった。

「ボクシングを教えて下さい」

 唐突に言葉をぶつける藤田。

「え、突然どうしたの。お母さんは一緒じゃないの」

 お姉さんは、公園内を見渡した。

「一人です。ボクシングを教えてくれるジムを探していたんです」

「キミがボクシングジムに...なるほど。でもね、私だってジムに通ってるわけじゃないのよ。これは自己流」

 お姉さんは拳を握って見せた。

「ボクシングって、ジムに行かなくてもできるのか...」

 藤田は首を傾げた。

「独学は大変だけどね。まあ私の場合、仕事が忙しくて、ジムに通ってる時間がないのよ。だからこうして自主練してるの」

「そうなんだ」

「教えてもらうのが一番いいんだけどね」

「俺もお姉さんみたいに、一人で生きていけるようになりたい」

 藤田の言葉にお姉さんは目を丸くしたが、落ち着いた表情で話し始めた。

「私も子どもの頃同じように思ってた。子どもの頃は、一人で生きて来たつもりでいたけど、大人になるにつれてそれが違うってことに気付くのよ」

「違うってどういうこと」

 藤田は首を傾げる。

「そうだな...人に生かされてるっていう感覚かな...」

 お姉さんは、言葉を選ぶのに苦戦しているようだ。

「俺はそんなの感じたことないよ」

 俯いた藤田を見たお姉さんは、頭に優しく手を乗せた。

「ランドセルを背負った少年が、なにを言ってるんだい。これからゆっくり感じていけばいいさ」

 納得のいってなさそうな藤田を見て、目線を合わせるために膝を抱え込み、しゃがむ。

「こんなこと伝えるのは早いかもしれないけど、私には子どもがいないからさ、キミには教えてあげる。この世の中は、キミが思っている以上に残酷なの。大切なものから先になくなっていくんだよ」

「大切なものから...」

「そう。だからもし、キミに大切な人や大切な物が見つかったら、命の限り守り通すの。それはつらいことかもしれない、恐ろしいことかもしれない。けど自分の足で前に進むの。自分の拳で守り抜くの」

 お姉さんは藤田の手を強く握り、話を続けた。

「でもね、今を悲観してはいけないよ、未来はきっと輝いてるから。こんなにも素晴らしい人生を生きられて、私は凄く幸せ。さあ、そろそろ暗くなるから帰りな」

 ニコッと笑ったお姉さんは、立ち上がった。

「お姉さんは、明日もここにいるの」

 藤田のお姉さんを見上げる顔は、悲しそうだった。

「なんでそんな顔するのよ。私は毎日同じ時間にいるよ、30分くらいだけどね。寂しくなったらまた会いに来な」

「うん、またね」

 藤田は、夕暮れのチャイムが鳴ると走り出した。

 公園の入口で振り返り、お姉さんに手を振ると家路へと急いだ。ジムの場所を聞きそびれたが、藤田は大切な《《なにか》》を見つけた気がしたのだった。

藤田の過去 絶望の闇と希望の光

 翌日からの藤田は、お姉さんに会いに公園に通うのが習慣になっていた。お姉さんの練習に必死に食らいつき、ボクシングの型が様になってきた頃、事件が起きた。

 この日も藤田は公園に向かっていた。朝は相変わらず、親同士の喧嘩を目の当たりにし、母親と妹の涙を見て来た。兄は家を出てどこにいるのかが分からない。とっくに家庭は崩壊していたが、藤田の心は燃えていたのだ。

 走って公園に到着した藤田。だが、いつもいるはずの時間にお姉さんがいない。約一か月の間練習を共にしていた藤田は、お姉さんがいないことに違和感を覚えた。時間をキッチリ守る人であったし、昨日もしっかりと同じ時間に約束をしたのにだ。いつもより《《どんより》》している空気を感じると、心音が早まった。嫌な予感がした藤田は、辺りを見渡す。いつも練習していた場所は、公園の中心にある時計の真下。すぐ近くにはベンチがあって、その裏には林がある。子どもの頃の藤田は、あまり感じたことはなかったが、この公園は人気《ひとけ》がなく、夜になると薄暗い街灯が照らす不気味な公園に変わるのだ。

 ふとベンチの横を見ると、液体をこぼしたような跡があった。普段なら気にもならないが、この時は違ったのだ。藤田はその《《こぼれた液体》》に近付くと、鼻を刺す強い臭いに、手のひらで口を覆った。藤田が感じたのは、砂に鉄が混じった臭い。鼻血などという量ではなく、血液を腹から吐き出したように広がっている。血だまりだと確信した藤田は、それが林の奥まで続いていることに気付いてしまったのだ。この先にいったいなにがあるのか、子どもにも安易に予想できた。藤田の足は震えを止めることができず、立っていることも精一杯になる。

 時間は刻々と過ぎていき、闇が公園を包み始めた。ここで真実を知らなければ、一生の間後悔をすると感じた藤田は、重い足をゆっくりと持ち上げる。さらに暗い闇に足を踏み入れると、冷えた空気が全身に絡みついた。一歩ずつ絶望に近付いていく感覚だ。嫌な予感は勘違いかもしれなかったが、自身の中で勝手に暗示をかけてしまっていた。

 全く使い物にならない目を、順応するまで強く開いたままにし、未来の記憶を改竄《かいざん》しようと脳を働かす。生い茂る草木をかき分けながら、独り言のように「大丈夫...大丈夫...」と呟いていたが、努力も虚しく藤田の鼻腔には甘ったるいジェラートの香りがかすめた。

「おねえ...さん...」

 声にならない声を絞り出す藤田。

 暗闇で目が慣れ、まもなく想像したことが創造される。現実を受け止めなくてはいけない瞬間が訪れた。綺麗に纏まられていたはずの黒い艶やかな髪は、汚れた土の上で、黒い彼岸花のように広がっている。服は破れ、白い肌は露わになっていた。眼球は濁り、口角は裂けている。ここで行われたことは、幼い子どもの心では理解しきれないほどの悲劇だった。しばらくの間、それを見ていた藤田は唐突に口を開いた。

「もう見たくない。こんなもの...もう...見たくないんだ」

 現実を受け止め切れなくなった藤田は、両手を前に出した。手のひらを見ると、その中から人差し指と中指を選び、それをゆっくり瞼の上に乗せる。完全な暗闇を求め、指先に力を込めていくと、眼球が奥に押し込まれる感覚があった。このまま押し潰してしまおうと自暴していた時、どこからともなく声が聞こえた。

「圭《けい》どこなの、圭《けい》」

 林の外から聞こえる声は、紛れもなく母親のものだった。我に返った藤田は振り返ると、無我夢中で元来た道を走ったのだ。先ほどまで忘れていた『恐怖』や『不安』を背後に感じながら、母親の元へ戻ってゆく。振り返れば、いつでも引きずり込まれてしまいそうな闇の中を、僅かな光に向かって進んでゆく。

「お母さん」

 血だまりを踏み、林から飛び出すと母親の胸に飛び込んだ。

 潰してしまえそうなほど強く抱きしめると、自分が子どもだったことを思い出し、わんわんと涙を流した。一人で生きようと足掻いていた少年は、その無謀さに気付いたのだ。切れてしまいそうなほど細くなっていた糸を、太く紡ぎ合わせると、やっと母親の温もりを感じることができた。

 その後、警察や消防が到着すると、藤田の血だらけになった靴を見て驚き、血だまりを発見する。発見した時の話を詳しく聞くと、数名で林の中に入って行った。見るも無残な死体は、担架に乗せられ青いシートを被されていたが、シートの端からは黒い毛髪が垂れていたのだ。

 家に帰り、数日を過ごした藤田だったが、あの時の記憶が頭から離れない。この事件は、テレビで数回取り上げられたが、ほとんどの情報がないと報じられ、犯人の特徴や、死因などは一切報道されなかった。毎日のように、新聞や近所の井戸端会議などに注意を払っていた藤田だが、お姉さんが何者だったのかも分からず、なぜかこの事件は未解決事件扱いになったのだ。ネット上の噂によると、政治家の息子の仕業などと噂されていたが、真偽は定かではない。

 そして数年が経ち、藤田が中学二年生になったある日のこと。今度は、人が人を刺す瞬間を目の当たりにしてしまうのだ。その現場は、なんと自宅。長い間家を出ていたはずの兄が、父親の腹に深く包丁を刺していたのだ。

 いつものように、両親の喧嘩の声で目を覚ました藤田。「離婚すればいいのに」と感じながらも、そんなことですら伝えるのも無意味だと思っていた。制服のまま眠っていた藤田は、ベッドから足を降ろす。ローテーブルに置いてる灰皿から、長めの吸い殻に火をつけると、それを深く吸い込んだ。面倒に巻き込まれないように、静かに階段を下りた先に、その光景は広がっていた。

 突然感じた鼻を刺す臭いに、幼い頃の記憶が蘇る。いつものリビングは赤く染まり、あの時の鉄の臭いがする。なぜか分からないが、同時にジェラートの甘ったるい香りも思い出した。鼓動が早まるが、それよりも現状を理解しようと脳を働かせた。

 倒れた父親は、瞬き一つしない濁った眼でこちらを見つめ、その上に馬乗りになる兄は、真っ赤に染まった包丁を何度も何度も突き刺している。実際に耳に届くのは、映画やドラマのような音ではなく、するりと肉を裂く包丁が、骨に当たる鈍い音だけ。やけに現実味のある光景は、まるで背中に一筋の汗が垂れるような感覚と似ていた。

 妹を送り出した後の母親は、玄関で呆然とした顔をしていた。おそらく藤田と同じ気持ちなのだろう。兄の呼吸が乱れ始めた頃、母親の手が、兄の方へとゆっくり伸びた。力なく伸びた手からは、親として子を止めたい気持ちが、ひしひしと伝わってくる。無表情のまま涙を流す母は、今自分にできる最大のことを模索しているようにも見えた。

「あ...兄貴...もういいよ...」

 藤田は、縮み切った喉から声を出した。

「圭、久しぶりだな」

 こちらを向いた兄の顔は、返り血を浴びている。

「な...なにやってるんだよ...」

「なにって、助けに来てやったんだよ。俺ヤクザになったんだよ。ヤクザってのはさ、義理人情に厚いんだと」

 ニヤリとした笑顔の兄は、包丁を持ったまま立ち上がる。

「誰かがやらなきゃいけなかったんだ。誰かが終わらせなきゃいけないんだ」

 兄の横顔は、どこか遠くを見ていたような気がした。

 その間、藤田と母親は言葉を発することができなかった。

「母さん、ありがとう。母さんだけは、俺たちを守ってくれていたんだよな。子どもの頃は、気付けなかった。こんな家庭に生まれたことを恨んだ。でも俺は生きてる。今日まで生きてる。時間が掛かったけど、生きることが素晴らしいことだって気付けたんだ。そんな素晴らしい人生を、これからの母さんには送ってほしい。誰よりも幸せになってほしい」

 後ろにいる母親の方へは振り向かず、淡々と話しを続けた兄だったが、藤田の方を見た。

「後は頼んだぞ」

 真剣な眼差しでこちらを見る兄は、手に持った包丁で首を掻っ切った。

藤田の過去 林檎の木

「目の前に血の海が広がった時の記憶からは、ほとんど覚えていない。あの後は、警察が来て、それで...」

「藤田くん、大丈夫かい。今日はもうやめておこうか」

 年配の警察官が言った。

 藤田は、警察署に来ていたのだ。意識がハッキリとしない中、聴取を受けていた。母親はどこにいるのか、妹はどうしているのか。これからどうなってしまうのか。藤田の成熟したばかりの脳は疲弊していた。

「よく...分かりません」

 無表情な藤田。

「それなら、またにしよう。お母さんの方は、今さっき終わったようだから、ここで待ってて」

 年配の警官が部屋を出ていくと、藤田は背もたれに寄りかかった。天井を見上げると、深いため息を吐く。落ち着いてきたかと思うと、何かが起きる。ただ普通に生きていたいだけなのに。

「あの時お姉さんが言った通りだった。人生は残酷だ」

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 警察署を出たが、家は帰れる状態ではなく、その日は祖母の家に泊まることになった。タイルが敷かれた広い風呂に浸かると、これからの人生について考えた。自分が生きていると、みんなが死んでしまう気がする。普通でない人生を歩む自分のせいで。お姉さんにも会わなければ、あんな悲劇は起きなかったかもしれない。自分が生まれなければ、母親と父親が仲良く過ごしていたかもしれない。兄が父親を刺すこともなかったかもしれない。妹が悲しむこともなかったはず。

 自分を肯定する理由が見当たらない。いっそのこと、この世から消えてしまったほうが楽になれる。そんな気がするんだ。

 この感情が、どこに消えるのかが分からない。このまま、この感情のまま生きていくのは辛すぎる。これ以上は耐えられる自信がない。もう嫌だ、もう生きていたくない...もう...

 藤田の心に宿る灯火《ともしび》は、今まさに消えようとしていた。短い人生に、悔いしか残せていない。何年も前に亡くなった祖父のカミソリを手に取ると、手首にあてがう。唇を強く噛み、カミソリを横に動かすと、細く赤い線が入った。薄皮が剥がれ、血が滴る。幼い頃から人の死と向き合ってきた藤田だったが、やっとお姉さんの所へ行ける。もう頑張らなくていい、もう生きなくていい、もう諦めていい。藤田は、ゆっくり目を瞑ると、お姉さんの言葉を思い出した。

「そう。だからもし、キミに大切な人や大切な物が見つかったら、命の限りに守り通すの。それはつらいことかもしれない、恐ろしいことかもしれない。けど自分の足で前に進むの。自分の拳で守り抜くの」

「でもね、今を悲観してはいけないよ、未来はきっと輝いてるから。こんなにも素晴らしい人生を生きられて、私は凄く幸せ」

 あんなにも昔のことを、なぜ鮮明に思い出すのだろう。

"

「こんな家庭に生まれたことを恨んだ。でも俺は生きてる。今日まで生きてる。時間が掛かったけど、生きることが素晴らしいことだって気付けたんだ。そんな素晴らしい人生を、これからの母さんには送ってほしい。誰よりも幸せになってほしい」

「後は頼んだぞ」

"

 死の間際の兄の言葉までも、脳裏に浮かぶ。

 二人とも、こんなにも残酷な人生を『素晴らしい』と言って死んでいった。なぜなのだろう。藤田は、自分から滴る真っ赤な血に、なぜか生《せい》の感覚を抱いた。赤を見ていたはずの視界はぼやけ、熱い涙が涙腺から溢れ出す。死を覚悟した途端、生きる事への執着が芽生えたのだ。涙は傷口へと落ち、傷を癒してゆく。血はやがて止まり、二人の言葉が心に焼き付いたように感じた。 

 浴室を出た藤田は、リビングへと向かう。毛布を肩にかけテーブルで眠っている母も、涙を流していた。

「圭、お風呂出たのかい」

 祖母が妹を寝かしつけ、リビングに来た。

「お婆ちゃん、色々ありがとう」

「なに言ってんのよ。あんたのお婆ちゃんなんだから、当然でしょ」

 そう言った祖母は、台所に立つと林檎を切り始めた。

「この子はね、いつもあんたたちの話をしてるのよ。旦那が、仕事もしないろくでもない人だから、私が子どもたちを守るんだって。子どもたちには、いつも我慢させてしまってるって、泣いて電話が来ることもあったの」

「そうだったんだ。全然知らなかったよ」

「母親はね、子どもたちに弱い所を見せたくないものなの。母親失格だなんて思わないであげてね。これはお婆ちゃんの勝手だけど、お婆ちゃんからしたら大切な愛娘なのよ。もちろん、あんたたちもね」

「俺は駄目な奴だな。母親の苦悩にさえ気付けなかったなんて...」

「お婆ちゃんの孫が、駄目なわけないでしょう。お爺ちゃんも言ってたのよ。「圭は他の子どもとは違う、きっと立派な大人になる」って。ほら、お爺ちゃんも戦争で家族を亡くしているでしょ。あの人もずっと一人で生きて来た人だからね、圭の一人になりたいって気持ちが分かったのかも」

「どうして俺が、そう思ってるって知ってるの」

「そんなの見てれば分かるわよ。人を大切に思う気持ちっていうのは、そういうものなの」

「そうだったんだ...」

「林檎食べなさい。これからは、お婆ちゃんも、もっと協力するからね。困ったらうちに林檎食べに来なさい」

 祖母は、そう言って藤田の頭を優しく撫でた。

 気持ちが落ち着き、照れた顔で林檎を口に運ぶ藤田。母の寝顔を見て、大切な人たちのために強く生きる事を誓ったのだ。

「お婆ちゃん、林檎うまいよ...」

「美味しいわよね。お爺ちゃんが生前、大切に育ててきた林檎の木だからね。こうやって、いつまでも愛が続いていくのよ。圭、寝る前にお爺ちゃんのところに林檎持って行って。ついでに手を合わせてらっしゃい」

「うん、分かった。おやすみお婆ちゃん」

 その後、仏壇で手を合わせた藤田は、大切な人たちを守り抜くことを祖父に誓い、眠りについたのだった。

 翌日からの聴取や葬儀は、淡々と過ぎていき、グラついた環境をなんとか支えることができた藤田は、前に進むべく心機一転。元々関りのあった桜庭と協力し、ビジネスの勉強を始めたのだった。

健人の気持ち

 健人が、藤田の記憶に訴えかけるように話していると、バーで過去の話をした事実を思い出した。誰にも言わず、胸の中に閉まっていた思い出を、あの時健人には話したのだ。

「藤田さん、思い出したか。藤田さんが、どれだけ辛い人生を歩んできたか俺は知ってる。桜庭は、藤田さんの過去を知ろうとすらしなかったんだぞ。その上、親友をハメるような糞野郎だ。こんなやつを許すなよ」

 健人は熱くなっていた。それも藤田を守るためだろう。藤田には言わないが、過去の話をしていた時に、嗚咽するほど泣いていた彼の声を、健人は忘れることができなかったのだ。

「健人が俺を庇ってくれるのは、凄く嬉しい。ただ、同じように辛い思いをした桜庭を放ってはおけないんだ」

 健人は返事に困り、しばらく沈黙が訪れる。三人の頭の中では、過去の辛い記憶が蘇り、今日までの自分自身の行いを振り返っていた。

「なぁ桜庭、おまえも大切な人を守りたかっただけなんだよな」

「藤田さん...」

 健人は、尚も納得がいっていないようだ。

「いいんだ健人。桜庭、俺たちまた一緒にやろうぜ。次こそは間違ったことしないように、しっかり話し合いながらさ。ちゃんと金稼いで、弟のところにでっかい花束でも持っていこうぜ」

 藤田は桜庭の肩を優しく擦った。

「そんな過去があったなんて知らなかった。俺はおまえに許されないことをしたんだな...」

 桜庭は言う。

「正直、おまえのことを恨んでる。弟の事を話してくれなければ、一生許せなかったと思う。けど、結局俺もおまえも同じなんだよ。過去の事を話せなかったってところがな」

 藤田は遠くを見つめる。

 長過ぎた時間の不一致は、二人の中でやっと収束しようとしている。

「今まで本当にすまなかった」

 桜庭はそう言うと、藤田の目を見た。

 藤田が笑顔で振り向き、ポケットから突然『GreenCrack』のジョイントを取り出す。慣れた手つきで口に咥え、火を灯した。

「すげぇ久しぶりだけどさ、とりあえず吸おうぜ」

 藤田は深く吸うと、それを桜庭に渡す。

 無言のまま受け取る桜庭は、ジョイントの先端から立ち昇る煙を見つめる。

「おまえには敵わないよ」

 桜庭は藤田に向けそうゆうと、GreenCrackを口に咥え、藤田よりも深く吸い込む。

 しばらく息を止め、肺の毛細血管からGreenCrackを吸収してゆく。脳全体に広がる多幸感、鼻に感じる芳醇な香り。

「この《《ガンジャ》》すげえな」

 桜庭も他の人間同様に、健人の作ったGreenCrackに心の底から感動しているようだ。

「すげえだろ。健人の自信作だ」

 藤田は自慢げに鼻の下を掻いた。

「凄いな健人」

 桜庭が健人の方を向く。

「気安く名前を呼ぶなよ。藤田さん、まだ隠し持ってたのか」

「悪い物は、上手に隠しておくもんだ」

 藤田は、健人の説教を聞きながらリラックスしている。

「まったく藤田さんは...」

 健人は呆れながら、桜庭の声のする方に向いた。

「そんなことより桜庭、勝手にいい雰囲気になってるけど、おまえを許したわけじゃないからな」

 健人が桜庭に抱く不信感は、拭いきれていない。

「すまない。そうだよな」

 桜庭はそう言うと、藤田にジョイントを渡す。

「ゆっくり改心していけよ、健人も麻衣も本当に良い奴らだから、いずれ分かってくれるさ」

「麻衣だって、桜庭を許すか分からないだろ。後でしっかり説明してもらうからね」

 健人は藤田に向かって言っているようだ。

「ああ」

 藤田は、問題が解決した安心感からか、いつもより極上なものに感じるGreenCrackを、深呼吸するかのように吸い込んだ。

「藤田さん、警察が」

 突然麻衣がドアを開け入ってきた。

「わかった。桜庭、立てるか。逃げるぞ」

 藤田はそういって桜庭の腕を肩に回す。

「すまない。下に降りなくても外に出れる裏口がある。そこに案内する」

 桜庭は言う。

 藤田と桜庭が協力しあっている様子に疑問を抱きながらも、麻衣は健人を連れ二人の後を追う。VIPルームから出て一番奥の部屋のドアを開けると、さらに奥まった場所に非常口があった。

「藤田、あそこだ」

 桜庭は指をさす。

「あそこか、あと少し...」

 非常口のドアに手をかけようとした時だった。

「止まれ」

 一人の警官の、野太い声が部屋に木霊する。

 四人の体は一瞬硬直してしまった。声は背後から聞こえたはずなのに、蛇に睨まれた蛙のようになる。誰もが諦めようとしたその時、「行くぞ」と言う桜庭の声で、四人全員の体が再度動き出し、非常口に飛び込んだ。その間も警官はこちらに走ってくる。警官の手が健人の服を掴もうと手を伸ばし、後指一本分で掴まれそうになったその瞬間。

「桜庭さん、逃げて下さい」

 なんと桜庭の部下たち五人ほどが、警官の上に乗しかかり動きを封じたのだ。

「お前たち、なにやってんだ」

 桜庭は後ろを振り向きながら手を伸ばす。

「この野郎、どきやがれ」

 警官は必死に部下たちを引きはがそうとするが、部下たちの懸命な働きにより警官は、完全に床に伸びてしまった。

「桜庭しっかりしろ。行くぞ」

 藤田は、部下を失った桜庭に喝を入れ、三人を連れて裏口から飛び出した。

 外階段を下りる四人。辺りは月に照らされ、生暖かい風が強く吹いていた。

「もう少し離れよう」

 健人が言う。

「うん」

 麻衣は、健人を支えながら必死に足を動かした。

 そして四人は、とうとう人気のない公園までたどり着いたのだ。

「ここまで来れば大丈夫だろう」

 息を切らした藤田が言う。

「そうだな」

 桜庭も息を整えながら答える。

「そういえば、なんで桜庭先輩がいるの」

 麻衣が藤田に疑問をぶつけた。

「藤田さん説明しなよ」

 健人は言う。

 困り顔の藤田は、一呼吸置くとこう答えた。

「こいつの間違ってきた道は、俺が責任を持って正す。人は誰しも間違いを犯すんだ。こいつにも守りたい人がいて、そのために必要なことをしただけなんだよ」

「守りたい人のためなら、誰かが犠牲になってもいいっていうの」

「もちろんそういうわけじゃない。私利私欲のために他人を犠牲にしてはいけない。ただ、どうしようもないときがあるだろう」

「どうしようもないときってなによ。藤田さん、私はあと少しで...」

「本当に申し訳なかった」

 話を割るように桜庭の声がした。

 皆が桜庭の方を向くと、地面におでこをつけ土下座している姿があった。

「こんなことで許されるなんて思っていないが、今はこれ以上の事ができない。俺はクズで、どうしようもない。償えることがあるのなら、なんだってする」

「頭を上げてよ。あなたに謝られても、あなたにされたことが消えるわけじゃない。格好だけなら誰にでもできるの」

 麻衣の桜庭に対する恐怖は、怒りに変わり、目の前で土下座をする桜庭を蔑んでいた。

「麻衣、健人、こいつのやったことをどうか許してほしい」

 藤田は深々と頭を下げる。

「藤田さん、俺と麻衣は桜庭を許すことはできないよ。桜庭との関係性は、藤田さんより薄いし、同情の余地がない。許せないならどうするんだって話なんだけどさ、俺はそれでもいいと思うんだ」

 健人は落ち着いた声で話した。

「そうか、そうだよな。確かに、おまえたちに強要することではなかったかもしれない。桜庭のやったことは、事実、人を不幸にした。それは俺も目の当たりにしたんだ」

「うん」

 健人が相槌を打つ。

「ゆっくりと何事も一歩ずつ。一歩ずつ問題を解決していけばいいんだな」

 健人の言葉が腑に落ちた藤田は、少し緊張の糸がほぐれた。

「二人とも、本当にもうしわけなか...」

 顔を上げた桜庭だったが、不意に声がしなくなる。

 妙な音とともに、桜庭が藤田の横に倒れこんだ。異変に気付いた藤田が桜庭に目をやると、赤黒い血が土を湿らせてゆく。

「あ...暗かったから間違えた」

 暗闇から突然現れた男は、思わず声を出す。

 桜庭を見ると、背中にテーブルナイフが深く突き刺さっていたのだ。

 何者かの出現に驚いたが、藤田がすかさず男の腹を力いっぱい蹴り飛ばした。地面に倒れ込んだ男の顔が街灯に照らされ、顔がハッキリと見える。なんとその男は、鈴木だったのだ。

「おまえ、鈴木か。なんでこんなことを...」

 藤田は驚いて目を丸くしている。

「おまえをやれって、桜庭に言われてたんだ。ちっ、暗いから間違えたじゃんかよ、クソ」

 地面に倒れ込んだ鈴木は急いで立ち上がると、一目散にその場から立ち去り暗闇の中へと消えていった。

 突然の展開に脳の処理が追い付かないでいた藤田だが、横になり口をパクつかせている桜庭をなんとかしようと、焦り始める。麻衣は大きな悲鳴を上げ、耳を塞ぐとその場に座り込んでしまった。

「な、なにかあったのか」

 健人は母の時のような、濃厚な鉄の臭いを鼻に感じ、嫌な予感がした。同時に藤田がいるであろう方へと飛び出す。

 その勢いもあってか、健人は血に足を滑らせ頬から首元にかけ血を被ってしまった。

「嘘だろ。藤田さん、藤田さん。大丈夫だよね」

 地面に這いつくばりながら、健人の恐怖は心の器に収まりきらなくなりそうだったその時。

「健人落ち着け、刺されたのは俺じゃない」

「え、じゃあ誰が...」

「桜庭が、突然鈴木に刺された。傷口を押さえているんだが、血が止まらない」

 震えた藤田の声がした。

「桜庭が...とにかく救急車。麻衣、電話」

 健人は麻衣にそう伝える。

「わ、分かった」

 麻衣はそう言うとスマホを取り出し、電話を掛けた。

「大丈夫だ。今救急車を呼んでるからな」

 藤田は、顔が白くなってゆく桜庭に向かって懸命に叫ぶ。

「もう...俺は...だめだと思う。悪かったな藤田、おまえのように生きられたら、どれだけ幸せだったか。俺は、俺はおまえになりたかったのかもしれない。おまえがいてくれたから...」

 桜庭は黙り込む。

「なに言ってんだよ、今は話さなくていいから、とにかく安静にしてないと」

「はぁ、はぁ、藤田...おまえは俺の傍にいてくれたのか」

「ああ、いるよずっと」

「そうか、よかった。俺も弟のところに行けるかな。死んだら会えるんだよな。天国ってあるんだよな。死ぬってなんなんだろうな。藤田、俺...怖い...よ...」

 桜庭は最後に、恐怖に支配され苦しんだ顔をしていた。

 桜庭は昔、何をするにも怯え、常に藤田の一歩後ろに立っていた。自分の事を強く見せようとしていた桜庭だったが、彼の本当の姿を藤田だけが知っていたのだ。小心者で逃げ癖のあった桜庭は、皮肉にも最後の最後に本当の自分に戻ることができたのだった。自分を偽り続けた結果、最悪の最後を迎えるなんて、誰も予想することができなかっただろう。この光景を目の当たりにした藤田の心には、ぽっかりと穴が空くのだった。

夜明け

 救急車のサイレンが徐々に近付いてくる。

 藤田は尚も、桜庭の出血を止めようと背中の下部辺りを手で強く押さえていた。小さなテーブルナイフだが、抜いてしまえばさらに出血が増えるだろう。両手で力を入れ圧迫するが、藤田の手は血に染まってゆくだけだった。

 救急隊員が担架を担ぎこちらに走ってくる。藤田は桜庭から離れ立ち上がると、全ての光景がスローモーションに見えた。流れる赤い光が木に反射し不気味な雰囲気に囲まれ、その光景を眺めることしかできなかった。

 その場で救急隊員によって応急処置が行われるが、桜庭の反応はない。その姿はまるで、人形に心肺蘇生を施しているかのようだ。桜庭への心肺蘇生が続けられる中、水中にいる感覚に陥った藤田は、その場に座り込んでしまった。

 この光景は、幼い頃から何度も見てきた。大切な人が目の前で死んでいく現実。世界は残酷なんだと思い知らされる。何度も経験して慣れたはずだった。これ以上は、なんとも思わないはずだった。だが違う。これは何度経験しても心臓が持たないらしい。幼い頃のお姉さんの記憶、兄の記憶が脳内で混ざり合い、過呼吸になった藤田の視界は真っ暗になった。

____________________________________________________________________________

 その後の事はよく覚えていないが、桜庭が救急車で搬送された後、藤田と健人、麻衣は警察署で事情聴取を受けていた。

 今回起こった事は、無差別殺人事件として扱われた。元々殺人未遂で服役していた鈴木は、前回も同じようにナイフで通行人を襲ったそうだ。人を傷つけることに抵抗のない鈴木は、要注意人物として目をつけられており、今回出所して間もなく事件を起こしてしまった。警察の捜査では、元々藤田を狙った犯行だったようだが、暗闇による視界不良から、間違えて桜庭を刺してしまったそうだ。

 警察からすると、鈴木が事件を起こすというのは、予想通りというところだが、事件を未然に防ぐことには失敗。犯人である鈴木には逃げられたが、この後すぐに指名手配犯として報道するようだ。藤田、健人、麻衣に関しては、今回の事件での関係性は低いとみなされ、一度その日は帰宅することになった。

 夜が明けた早朝、麻衣をタクシーで送り、アパートに着いた藤田と健人は、鉄骨階段の上に髭さんを見つける。

「あれ、髭さんがおまえの部屋の前にいる」

 藤田が健人に言う。

「え、こんな早い時間から。うちの前で、なにかあったのかな」

 健人が首を傾げる。

「さっきの事、もう知ってるとか」

「さすがに早いって」

 健人はそうゆうと、階段を一段一段上がってゆく。

 その姿を発見したのか、髭さん自らが藤田と健人のいる階段の方へと歩いてきた。

「帰ってきた帰ってきた。昨日の夜も来たんだけど、おまえら二人ともいないからよ」

 髭さんは眠い目を擦りながら言う。

「そんなに大事なことなの」

 健人が聞く。

「大事だ。実は、おまえのお母さんを殺した犯人が見つかった」

 髭さんは深刻そうに言う。

「もう見つかったんだ。早かったね」

 なぜか健人は、あまり驚いてはいないようだった。

「なんだよ、おまえもうちょい驚けよ」

 藤田が言う。

「十分驚いてるさ。ただ感情がぐちゃぐちゃで、なにから反応していいか分からないだけ」

 健人は頭を掻く。

「健人、どうする。場所は突き止めたからいつでも会いに行くことは出来るぞ。どうするかはお前次第になってしまうが」

 髭さんは言う。

「とにかく今日は休ませて。起きたら髭さんのバーに寄るからさ」

 健人はそう言うと、大きな欠伸をしながら部屋へと入って行った。

「なんかあったのか」

 不思議そうに髭さんが聞いてきた。

「実は...」

 藤田は、今日あった出来事を一通り髭さんに話す。

 髭さんは時々、藤田の肩を擦りながら真剣に話を聞いてくれた。

「そ、そんなことがあったのか。俺が鈴木をお前のとこに向かわせたばかりに。本当にすまない。今日はおまえもぐっすりと寝たほうが良い」

 髭さんは気を使い背中越しに右手を上げると、鉄骨階段をコツコツと下って行った。

 藤田は、部屋に入るとそのまま窓を開け外の空気を感じ、目を瞑る。今日起きたことは、夢だったのではないか、初めから何かが違っていたのではないか。自分を責めるにも感情がついてこない。

 藤田は、ベランダに転がるジョイントを偶然見つけ、それを拾い上げた。ベランダには、ローテーブルとソファが二つ置かれている。たまにここでも吸うことがあったのだ。ジョイントを見つめながら、最後の桜庭の顔を思い出す。弔いのつもりで灯した火は、ゆっくりとGreenCrackを香りだたせる。口元に持ってゆき、一吸い、また一吸いと吹かす。

"

(桜庭のピンチに気付いてあげられなかった。あいつは俺の知らないところで戦っていたのか。なんで言ってくれなかった。俺は自分だけが楽しかったんだ)

(天狗になっていた。後悔ばかりだ。最後、俺が刺されていれば、異変に気付いていれば。いや、俺はなにも分かっていなかっただけだ...頭が重い)

"

 ベランダから揺れる雑草を見ていた藤田だが、突然体が重くなってきた。ソファに座り込み、強烈な吐き気、体の硬直を感じ、思ったように考えられない。考えようとすると、同時に別の事を考えてしまい、思考が停止。ジョイントを持つ手に自然と力が入り、人差し指と中指でそれを潰してしまった。

 火種が床に落ちるが、どうすることもできない。落ちた火種を見ている目は、動かすことが出来ず、徐々に吐き気が強まり、呼吸が荒くなった藤田は、落ち着いて深呼吸を始める。

 この時自分が『バッド(大麻の副反応で気分が悪くなること)』に入ったのだとゆうことに気付く。水を飲み落ち着かなければと立ち上がると、その反動で嘔吐してしまった。こんな状態になったのは久しぶりだ、桜庭の死、それは藤田にとって相当応えたのだろう。

 重い頭を支えながら、一歩ずつ台所の方へと歩き、蛇口を捻ると、浴びるように水を飲んだ。頭の中では、何度も何度も桜庭の最後の光景が繰り返され、藤田の頭は混乱し、パニックに陥っていた。限界を感じた藤田は、その場で寝転がり目を瞑ると、気絶するように意識が途切れるのだった。

 台所で寝ていた藤田は、しばらくして目を覚ました。

「もう昼過ぎか...」

 藤田は固い床で寝た結果、痛めた腕を擦りながら起き上がると、洗面所に向かい顔を冷水で流す。歯ブラシに歯磨き粉をつけ、入念にゴシゴシと磨く。

 鏡の中の自分を見ていると、公園での光景がフラッシュバックされる。桜庭はもういない。しっかりと逝けるのだろうか。藤田は起きた後も、桜庭のそんなことばかりを心配していた。

コンコンコンッ

 誰かがドアを叩いている。

「藤田さん」

 健人だ。

「おう、ちょっと待ってろ」

 藤田は大きな声で返事をし、吐しゃ物を急いで片付け玄関のドアを開ける。

「お邪魔します。あれ、藤田さん今起きたばかりじゃん」

「そうなんだよ、まだ寝たりないよ。どうした」

 藤田は首を押さえながら聞く。

「実は昨日の髭さんの話、前にボスに聞いていたんだ。その時は確実に分かっていた訳じゃなかったんだけど、今回の髭さんの話で確実になった」

 健人も昨日からの疲れが抜けていないようだ。

「まあ入れよ。それで復讐するか、許すかで悩んでるのか」

 藤田はズバリ言う。

「簡単に言うとそういうこと。実は俺の母さんを殺した犯人は、盲学校の教師をしているんだって。その界隈じゃ有名らしく、嫌われるような先生でもないらしい。あの日は、生徒の卒業式の日で、嬉しくて飲み過ぎてしまったんだって」

 健人は、なにかを考えているようだ。

「でも、おまえのお母さんを階段から落としておいて、走って逃げたのは事実だぞ」

「まぁそうなんだけどさ。もちろん初めボスから聞いたときは怒りで震えたよ。やっと見つけたってね。でもそれも、昨日の出来事を経験するまでなんだけど」

 健人は、昨日の出来事を思い出すように顎に手をあてた。

「昨日のことが、考えるきっかけになったってことか」

 藤田は考え込み、続けて言う。

「俺は実際、なにができたのか。何年も前からずっと桜庭を追ってきたが、結果がこんな形に終わって。なんだか心の一部に穴が空いたようだよ。恨みや復讐とゆう気持ちがいかに空虚で、不必要なものかとゆうことを思い知らされた」

「復讐はなにも生まないってことを、藤田さんと桜庭は教えてくれたよ。母さんを殺した犯人も、昼の顔は盲学校の先生なんだもんな。俺が復讐を果たしたとして、先生を失った子どもたちはどうするのだろう。俺はいったいどうしたらいいのか、分からないよ」

 健人は眉間をつまむ。

 少しの沈黙の後、藤田が口を開く。

「許す心が少しでもあるのなら、考える余地はありそうだな」

 藤田は遠くを見つめる。

「藤田さん、俺GrennCrackを持ってきたんだ。今はこいつの力を借りてみようと思って」

 健人は、ポケットからGreenCrackのジョイントを取り出すと藤田に渡す。

「健人も隠し持ってたのか。こっちにこいよ」

 藤田はそうゆうと健人の手を引き、ベランダへとやってきた。

「ソファだ。テーブルもある。なにこの空間」

 健人はソファに触り、腰かけながらそう呟いた。

「簡易的な場所だけどさ、こうゆうところでガンジャを吸うのも大切なことなんだぜ」

 藤田は鼻の下を人差し指の背で擦る。

「ガンジャって、マリファナの隠語だよね」

 健人が聞く。

「そうだな、ガンジャってのは、マリファナと同じ意味だ。まぁ厳密に言うと、ガンジャは『銃でもあり、神でもある』みたいな語源があるらしいんだけど、難しいことは考えなくても良いよ」

 藤田はそう言ってガンジャを口に咥える。

 そして健人も、ガンジャを口に咥えるとほぼ同時に火をつけた。

 二人はソファにもたれ、肺の奥深くまでゆっくりとGreenCrackを入れ、十秒ほど溜め込むと、さらにゆっくり煙を吐いてゆく。全面が緑で沢山の雑草たちが風に揺られ踊っている。当時予定されていた工場開発は、突然の中止。柵の外に見える景色は元通りになっていたのだ。

「藤田さん、俺こうやってベランダでくつろいだことがなかったから、気付かなかったんだけどさ、ここってすごく良い音がするね」

 健人は耳を澄ました。

「そうか、健人は音から入るんだもんな。どんな風に聴こえるんだ」

「さらさらとしていて、草同士が優しくぶつかり合ってる感じ。音の加減で今日はどのくらいの風が吹いているのかとかが分かるんだ、心地良いよ。藤田さんは、どう感じるのか教えてよ」

「俺か。俺の場合は、草が揺れている様子を見て風を感じているな。それ以外って言ったら表現するのは、ちょっと難しいな」

「情報がありすぎると大変そうだね。俺らみたいな人はさ、周りの勝手な想像で、不幸だとか、不便だとか、可哀想だとか言われたりするけどさ、他にないものを感じることが出来るし、特別だと思っているんだよね」

 健人は鼻から息を吸い、心地よさそうな顔をしながら続けた。

「例えば、今柵の外で揺れている雑草。これは雑草なんかじゃなくて全部大麻かもしれないだろ」

「あ...」

 藤田はゆっくりと目を閉じた。

 耳に神経を集中させ、深呼吸する。葉の揺れる音を、葉のぶつかる音を一つ一つじっくりと聴いていると、鼻にはGreenCrackの香りがし、頭の中で『大麻畑』をイメージさせた。見えているものだけが全てじゃない。たまには目を瞑って、深く考え整理することが大切なのだ。

「健人、俺もなにか分かった気がするよ」

 今朝の思考停止状態から、問題解決の術を探していた藤田は言う。

「こっちの世界も悪くないだろ」

 健人は笑顔でそう言った。

許す心

「いらっしゃい。よく来たな」

 珍しく営業中の「Bar Spray」では、髭さんがカウンターの中で、せわしなくシェイカーを振っていた。

 意外にも、夜は客が多いようだ。

「遅くなってごめん」

 健人は謝り、入口のドアを閉める。

「正面の席、空いてるぞ」

 髭さんが健人に言う。

「ありがとう」

 健人は両手を前にし、慎重にカウンター前のハイチェアに腰かけた。

「この酒だけ出しちゃうな」

 髭さんはそうゆうと、振り切ったシェイカーの蓋を開け、カクテルグラスへと注いだ。

 健人はその様子をじっと感じている。

「お待たせしました。『ギムレット』です」

 髭さんはカクテルを出し終えると、健人の方へ振り向く。

「『ギムレットには早すぎる』でしょ」

 健人がぼそりと言う。

「よく知ってるな。レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』お母さんから教わったのか」

 髭さんは顎ヒゲを触る。

「そう。よくお母さんが話してくれた。カクテルにも意味があるのって素敵だよね」

「やっぱりな、健人もなにか飲むか。奢ってやる」

「それなら、髭さんのおすすめのカクテルを作ってほしいな」

「俺のおすすめか...」

 髭さんは少し考えてから、手を動かし始める。

 薄い鉄がテーブルに置かれる、シェイカーだろう。カラカラと氷がシェイカーに入れられる。シュルシュルとボトルの蓋が開く音がすると、芳醇なテキーラの香りが広がった。そして次に、柑橘系の香り、ライムの香り。

 髭さんは、ストレーナーと呼ばれるシェイカーの中間の蓋を締め、次にトップの蓋を締めると、コンコンと優しくカウンターに打ち付け振り始めた。

 シェイカーの中では、酒と氷が混ざり合い、キツいアルコールの度数を柔らかくしてくれる。健人の耳には、氷が溶ける音、シェイカーの内側に液体が打ち付けられる音が届く。音が変わると同時に髭さんの手は止まり、カクテルグラスに注いでゆく。

「マルガリータだ」

 髭さんはそうゆうと、健人の手にカクテルグラスを持たせる。

「ありがとう。いただきます」

 健人はグラスを持ち上げた。

 縁に口を付けると塩味《えんみ》を感じる。塩の味とテキーラの芳醇な香り、柑橘系のさっぱりとした味が見事に混ざり、舌にまとわりつく。

「これ岩塩だよね。美味しい」

「ああ、それは『スノースタイル』って言うんだ。カクテルグラスの縁にライムを滑らせ、こだわりのピンク岩塩をコーティングしてあるんだよ」

「髭さん、お酒作るのうまいんだね」

「下手だと思ってたのかよ」

「こんなにボロいところだからね、それは仕方ないよ」

 健人はザラついたカウンターを撫で、椅子に空いた穴を指でほじくる。

「確かにボロいよな。ところで健人、お母さんの件決まったのか」

 健人は少しの間を置いたが、答えは決まっていた。

「髭さん、俺許すことにするよ」

 マルガリータの香りを嗅ぎながら健人は言う。

「やっぱりな。おまえならそう言うと思っていたよ」

 髭さんは腕を組み、頭を上下させる。

「藤田さんと一緒にいるうちに、俺の中のなにかが変わったのかもしれない。もちろん初めは殺してやりたいと思っていたよ。でも藤田さんが外に連れ出してくれたおかげで、許す心が芽生えた」

 健人はマルガリータを飲む。

「安心したよ。健人は優しい子だとお母さんから聞いていたけど、その通りだった」

 安堵の溜息を吐く髭さんは、カウンターに両手を付いた。

「髭さん、俺世界を旅してみようと思って」

 健人は突然言う。

「世界って、藤田と一緒にか」

「いや、一人で」

「一人でか。どこに行くかは決まっているのか」

「カナダに行ってみようかと」

「カナダか、良いところを選んだな。藤田にも言ってあるんだろう」

「詳しくは話していないけど、藤田さんもやりたいことがあるみたいだし、ここでお別れかもしれない」

 健人は寂しそうだ。

「そうか、まあでも一度離れても必ずどこかで再会出来るさ。それが日本かもしれないし、海外のどこかかもしれない。また再会できた日には、お互いの話をじっくりとしてみろよ」

「そうだね、藤田さんにも伝えに行くよ」

 健人がカクテルを飲み終え、立ち上がろうとした時。


「だとよ、藤田。おまえはどう思う」

 髭さんは笑みを含めた声で言う。


「健人がそう決めたのならもちろん応援するよ」

 すぐ隣の席から、藤田の声がする。

「なんだよ、藤田さんそこにいたのかよ」

 健人は驚き顔を左に向けた。

「ずっといたよ、おまえ全然気付かないのな」

 藤田はギムレットを傾ける。

「仕方ないだろ、見えないんだからさ」

 健人は笑う。

「それで、いつ頃行くんだ」

 藤田は健人に聞いた。

「一ヶ月後には行こうと思ってる」

「そうか、それなら最後派手に稼ぐか。髭さん、お願いがあるんだけど」

 藤田は申し訳無さそうに髭さんに言う。

「なんだ」

「今月の家賃、タダにしてください」

 髭さんに向かって手を合わせる。

「なんだそんなことか。藤田のとこも、健人のとこも、今月は俺が持ってやる。俺から健人への旅立ち祝いだ」

 髭さんは腕を組む。

「髭さん、ありがとう」

 健人はカウンターに前のめりになり大喜びした。

「よかったな、健人。俺の家賃分も旅費にあてろよな」

 藤田は健人の肩を掴む。

「落ち着いたら帰ってこい、いつでも待ってるからな」

 髭さんはそう言うと他のお客に呼ばれ、二人の前からいなくなった。

旅立ち

 一ヶ月が経った。

 勢いよく健人の部屋のドアが開く。ドンドンと床を鳴らし、荒い呼吸が徐々に近づいてきた。

「電気ぐらいつけとけって」

 真っ暗な部屋に藤田が入ってきた。

 藤田の両手には大きな黒いボストンバッグがぶら下がっている。バッグを畳に落とすと床の埃が宙に舞った。天井から垂れている細い紐を引くと部屋全体が明かりに照らされる。

 藤田は続けざまに勢いよくカーテンを開けた。

 強烈な外の光が闇を跳ねのける。

「ごめんごめん。だから俺には必要ないって言ってるじゃん」

 既に部屋にいた健人が言う。

 健人は散らかった低いテーブルに胡座をかき、なにやら手元を精密に働かせていた。

「準備できてんのか、健人」

 カーテンを開け放った後、藤田は便所座りで健人の顔を覗く。

「そんなに顔を近づけないでよ、藤田さん。はい、これ」

 健人は藤田にジョイントを手渡した。

「やっぱりおまえ、俺よりもずっと上手に巻くよな」

 藤田は、健人から受け取ったジョイントを宙に透かして見せた。

「昔から器用だからね」

 得意げに言う健人は気合を入れ直すように膝を叩くと、藤田が持ってきたボストンバッグのジッパーを開ける。

 中に入っている大量の札束の一つを手に取り、顔を宙に向け一枚一枚繊細な手つきで数え始めた。その様子を満足げに見ていた藤田は、口に咥えたGreenCrackに火をつけた。

「おまえも吸っとけよ。日本で吸う最後のガンジャだろ」

 藤田はそういって健人に渡す。

「そうだね」

 藤田から受け取った健人は、煙を深く吸い込む。

 今日までのことが頭の中で思い出される。

 母が死んだあの日から健人の心は壊れかけていた。そんな時に偶然やってきた藤田。彼のおかげで生きる希望を見出すことができた。

「藤田さんありがとう」

 健人はジョイントを藤田に渡しながら言う。

「突然なんだよ」

 ジョイントを受け取った藤田は、GreenCrackを深く吸い込む。

「藤田さんがいてくれたから、俺は死なずにいれた」

「初めて見たときのおまえは、血だらけだったもんな」

「そうだったっけ。あまり覚えてないや」

「まじかよ。引っ越してきて早々あんなもの見せられて、このアパートにはおかしなやつしかいないんだと確信したよ」

「実際、藤田さんもおかしなやつだと思うけどね」

「健人のその態度はずっと変わらないけどな。それでおまえあっちで、なにやるつもりなんだ」

「言ってなかったっけ、俺みたいな人たちを少しでも支援したいと思っててさ、そのためにも人との関わりを広げたいんだ」

「で、カナダを選んだのか」

「カナダを選んだ理由か。それはただなんとなくだよ、大麻も吸えるし」

 健人は煙を吹かし藤田に渡す。

「健人おまえ、もっと堅苦しい奴じゃなかったか」

 藤田は笑い、煙を吹かした。

「藤田さんと一緒に居すぎたんだよ」

 健人も笑った。

 こうして二人で大麻を吸いながらも、笑いあう時間は終わりに近づく。今日まで短い時間だったが二人の間には固い友情が芽生えた。そして、藤田も健人も壁にもたれ天井を見つめる。

「楽しかったなぁ」

 健人が言う。

「そうだな。すげぇ楽しかった」

 藤田も今とゆう時間を全身で感じる。

 しばらくの間思い出に浸っていた二人だったが、突然部屋のドアが開き麻衣が入ってきた。

「二人ともいつまでまったりしてるの。飛行機の時間に間に合わないよ」

 麻衣は二人に喝をいれる。

「もうそんな時間か。健人行ってこい」

「うん。行くよ」

 藤田と健人は立ち上がり、部屋の玄関まで歩く。

「あ、そうだ藤田さん」

 健人がドアノブに手をかけこちらを振り返る。

「どうした」

 藤田は聞き返す。

「いや、やっぱりなんでもない」

 健人はなにかを言いかけたが、その手でドアを開け部屋から出ていくのだった。

「...さて、鈴木を探しに行くか...」

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