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本質と向き合う事は難しい

去年、おばあちゃんが亡くなった。

私の身の回りで起きた初めての
人の「死」だった。

人が死ぬと葬式が行われる。
それは、宗教的な儀式だと思う。

世界では、様々な方法で
葬式が行われる。

ガーナでは、葬式の時は一晩中
酒を飲み、踊り、あの世(天国)
に行った人を祝う。

ブータンで山の中に遺体を置き、
鳥に食べされる鳥葬を行う。
「輪廻転生」

様々な国は、各々の倫理観を持ち
正しさの中で儀式を行う。
小さい頃から死の世界の
教育を受けるからだ。

日本人はどうだろうか?
仏教と言いつつ、クリスマスに
チキンを食べ、ハロウィンでは
カボチャの置物を置く。

あまりにも多様化しすぎて、
宗教が混在した異様な状態だ。
しかも、宗教的な教育は、
ほとんどなく、大人になる。

私もそうだった。

訳もわからず、
「みんながそうしてるから。」
「ルールだから。」
という理由で黒い服を
身につけ、死者を思う心より
手順やルールを考える。

これでは、なんの為の儀式か
分からない。
建前やルールだけで行われる
事に意味があるのだろうか?

最近強く思うことがある。
キリスト教、イスラム教、仏教
あらゆる宗教を子供の時から
信じ、愛することは、ある意味
幸せな事かもしれない。

この世界は、先も見えず、恐ろしい。
だからこそ、一筋の光に希望を抱く事は
心の安定に繋がる。
周りが暗ければ暗いほど、明かりは
周りを照らすのだから。

だが、私たち日本人の多くは暗闇の中を
進むしかない。

一筋の光は、自分で作るしか無い。
自分が信じた、自分だけの「正しさ」
を心の中にしまっておく。

建前やルールを演じなければいけないが
思いはいつも、正しさの光を灯す。

日本の葬式では、大きな声で歌うことは
出来ないが、私はおばあちゃんが
大好きだった曲を声に出さずに
大声で歌った。

棺桶の中のおばあちゃんが
笑ったような気がした。

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