#13 文庫本とジグソーパズル
学校が年明け2日から始まり、宿は基本年中無休、休みはお客さまの予約次第という生活をしていると、季節感はあっても年中行事はほぼ他人事で過ぎていくそんな中、
普段使っていない部屋にある本棚をなんとなく眺めていたら、まだ読んでいない文庫本があることに気がついた。
日本からわざわざ持ってきた本は貴重。美味しいお菓子のように大事にとっておいたのだったが、とって置いたことを忘れてずっとそこにあったらしい。
スノーストームの後、雪かきで体のあちこちが筋肉痛、しかも外はどんよりした灰色の空を見て、今日は読書だと心ゆくまで読むことにしたある日の朝
温かいコーヒーを飲みながらページをめくる、これほど至福の時間が他にあるだろうか。
しかし同時に
他の何もしないで本を読むというのは、なにかいつも罪悪感があるのはどうしてだろう
ただ読む、というのは生産性に欠ける?
洗濯とか、お料理をするとかは目に見えて動いているし家族のためにもなっているとか、絵を書くや編み物をするとかは出来上がってくるものがあるけれど、読書はスマホを眺めているだけと同じ分類に入るようで気が引ける。
他にやることがないのなら堂々と読んでいればいいものを、昼間っから、しかも朝からとなるとかなり思い切りらないといけない。
それを言うならもう一つ、ジグソーパズルという大好きだけど絶望的に非生産な趣味がある。
出来上がっていく様子はよく見えるが…
だから何?
完成したものを飾るでもなし、大抵はできたらすぐに崩して箱に戻す
無駄の極み…?
ここで一緒に例えるのは憚られるが、チベットの砂マンダラも途方もない労力をかけて制作した後、お祈りが終わるとすぐに壊されるとか
パズルにも
一抹の諸行無常の世界観
ということかどうかは別として、他の人が瞑想やランニングをするように、私はパズルをすることで無心になれる時間が好きだ
こう書いてみるとなにか陰気でちょっと自分にがっかりするが、まあ好きなものというのはどうしようもなかったりする。
思い出してみると、若い頃から気に入ったデサインのものを見つけると買ってきてぼちぼちやっていたものだった。
今は年に一つだけ思いっきりやってもいいというルールを設けている。なぜなら一旦箱を開けると、どうしても一気にやってしまいたい衝動に駆られるから。
年を取ってこんなことがせっかちになるとは...
近年は義母がクリスマスにいつもパズルを一つプレゼントしてくれるのでそれを楽しみにしているが、今回そのもらった1000ピースのパズルをウキウキした気分でやり始めたら、途中から娘が参加してきたこともあり、勢い余ってその日の夕方から夜までの間で全部やってしまった。
一年に一回とはいえ、
これだからパズルは危ない
この集中力を他のもっと有用なものに転用できればいいのだが…何故かパズルにしか発揮されないという
これぞホントの無駄の極み
いつものように出来上がりを一応眺めその後バラして箱に戻しながら、町内に住む同じくパズル好きの友達の顔を思い浮かべる。
子どもたちが小さい頃はよくパズル交換をしたものだったが、一度彼女から3000ピースが来たときは、同じ色の面積が広すぎて途中でギブアップ。
それをやりきって回してきた彼女は武術でも黒帯の師範級ってなんの関係かよくわからないが、人は見かけによらない趣味があるものだ。
さて、今回本棚からひょっこり出てきた文庫本2冊は、かなり昔に中古で買ったもので小説とエッセイ集だった。
小説の方はあっという間に読んでしまい、エッセイは1/3ほど読んで本を置き、また忘れるとは思いつつ、いつかの楽しみに残すことにした。
こんなとき、無限の時間と日本語の本とパズルがあればいいのにと思ってみるが、やっぱり限りがあるから楽しめるのだろう。
少なくともそう思える今はまだ他にやることがあるということで、それには安心感を覚えるし、いざ本当に読書とパズルしかすることがなくなったら、想像するにそれはちょっと怖い生活だったりするのかもしれない。
今回も最後まで読んでくださり
ありがとうございました
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