気怠さのままに猫について

 三日三晩寝込んだ。体の弱さに定評のあるぼくでもこんなに長く辛い故障は何年ぶりだったろう。この三日間について頭を巡らせて思い当たることすべて夢の中だったと思うと果てしない。
 ちょうど先週のまさに今頃、テルアビブで夕焼けに心を打たれながらまさしく飛行機を逃そうかという一瞬を過ごしていたことを考えると、まだ1週間しか経ってないとか、もう1週間経ったとか、密度の高すぎる10日間と充電切れの3日間を経てもう時間の感覚なんて朧げになってしまった。とにかくぼくは今生きてスイスにいるわけだ。
 うなされているあいだの何処かで、うつらうつらと猫のことを考えた。というより、この病の数日間を文字にするならなんだろう、と考えていたら、気づいたら猫についての文章を心の中で紡いでいた。傑作だ、と自賛しつつ、それを記しておける体力も気力もないこともわかりつつ、しかし覚えておける記憶力もまたないことも理解していて、でも今思えばあの時のぼくにだけ独り占めさせてやるくらいがちょうどよかったのかもしれない。もう今この世の誰にもわからない文章、至上の贅沢。
 なんの話をしていたのだっけ。そう猫。うんざりするほど愛らしい。中東で毎日猫ちゃんを見かけてぼくはご満悦だった。なんでそんなに猫が好きなの、と聞かれると暫し困り果てる。振り回してくれるところがいい、と結局決まって言うけれど、それってなんだか自分の手中にある前提で話が進んでいて、ぼくの中の猫ってそんな物分かりのいい存在じゃないというか、もっと自由で、思い通りになんてこれっぽっちもならなくて、そこが良い。現世の水面で息をしようとあえいでいるぼくの遥か上、雲の間をすいすいっとしなやかに飛び移ってどこか見果てぬ空に向けて闊歩するような、そんな自由の粋なのだ、猫は。
 共に暮らしたことがないのをいいことに、己の中の随分な大役を猫ちゃんに押し付けているわけなのだが、こうして書いているうちに少しだけ夢の中で書いたものを思い出した。目覚めていた僅かな時間にSNSで見かけた「夢の中で犬の姿で走馬灯を体験したのだが」という文字列が記憶に残っていて、猫だったらどうなるかしらと思ったのだった。「走馬灯」の言葉のとおり、死へ向かう瀬戸際の使命感が一番似合う動物は馬で間違いないと思うが、犬もまあまあ忠実に使命を全うしてくれそうで良い。猫は一番向いていないだろう。何ものにも縛られないがモットーの奴である。きっとなんのこっちゃとばかりに、もふもふの美しい肢体でぼくの生涯をゆるゆると、しかししなやかに、ときにご機嫌にときにへそを曲げながら、もう一回の〜んびりと振り返り上映してくれるに違いない。それはそれで悪くないかもね。
 そういえば、猫に勝手に理想像を投影するのはぼくの思想の自由の範囲だろうが、今読み返していてなんだか同じような理想像を他人から投影されたことがあるのを思い出した。ただぼくらは残念なことに猫じゃなくて人間で、人間ってのは無数の多面体だ。ぼくもきみも、猫の面犬の面馬の面ワニの面カバの面色々抱えているわけで、たまたまきみにぼくが自分の猫の面だけ見せているからといってそれが全てと思っちゃ甚だ勘違いにもほどがある。と自戒も込めてあえて書く。
 多面体ということは対面がある。すべての面の特徴を並べたら矛盾が生じるということ。ぼくは現実主義だけど夢想家だし、introvertだけど友達と話すことだって好きだ。自己矛盾こそが人間らしさで、たしかにぼくの猫ちゃん像みたいにチャーミングで美しいものではないのだけれど、その美しくなさをぱっくり呑み込むところから人間らしさがスタートする。
 たくさんの面を抱えるぼくたちは果てしなく重い。毎日水面に浮かんで呼吸するのがやっとだ。ただ長所があるとすれば、ぼくらはたくさん持っているからこそ、相手の好きな面と見たくない面を選ぶことができる。他人の全てを好きになろうなんてちゃんちゃらおかしくって、そんなの無理に決まっている。一人の中でだけだって矛盾があるようなのがぼくたちなので、もっと気軽にころころ転がって他とぶつかってみればいいんだ。大好きになれる面と大嫌いにしかなれない面を全員が持っていて、あとはそれが垣間見えるタイミングの問題でしかない。この人の全部を愛そうと覚悟を決めるようなときは、きっと相手に耽溺しているので脳内麻薬が味方だし、根気強い話し合いは互いの多面性の美しさ、美しくなさを吞み下させてくれるだろう。そう考えれば結構楽になる、なる? ぼくはなる。でも、できれば来世は猫になりたい。欲を言えばグレーのペルシャ猫がいいな。

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