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『妹・サブスクリプション』クライマックス読解メモ

 後日に向こうのブログで書く時のためにメモしておく。


読解の前提

みゆきは、レプリカントのきょんちゃんが偽物だと自覚している。

みゆきはまた、レプリカントのきょんちゃんには成長(自立の意味に近い)してほしくないと思っている。

「私のきょんちゃん」とは、「私が知らないきょんちゃん」と対置される、過去の人間の今日子である

クライマックスの読解

『決めつけないで』― 否応なく成長することへの気づき

 この場面でのみゆきの内面を、私は次のように想像する:《私(=みゆき)が制御できるはずのレプリカントのきょんちゃんでさえ、私の制御を離れて成長しようとしている。だから、私が制御すべくもなかった本物の(=人間の)今日子も、当然に成長しようとしていたのだ。

 1コマ目の傍点付きの「きょん」は、レプリカントのきょんちゃんの一人称というよりは、みゆきの解釈であって、レプリカントのきょんちゃんと人間の今日子のダブルミーニングだ。読者に素直に一人称だと解釈させたかったのなら、わざわざ傍点を付ける理由がない。上で想像したみゆきの内面とも整合する。

 4コマ目の「私のきょんちゃん」は、前述の『読解の前提』のとおり、(過去の)人間の今日子だと解釈する。《レプリカントのきょんちゃんも人間の今日子も同じように成長していくのなら、いま目の前にいるレプリカントのきょんちゃんは「そう言ってくれた」のに、なぜ(過去の)人間の今日子は「そう言ってくれたことなかった」のか。》ということだ。また、ここで「(過去の)」をわざわざカッコ書きにしているのは、みゆきがそれを自覚するのはこの回ではなく、次の『目の前にいるのに』回だからだ。

『目の前にいるのに』― もうレプリカントは目に入らない

 タイトルの『目の前にいるのに』は、みゆきの《レプリカントのきょんちゃんが目の前にいるのに、私(=みゆき)の目にはもう入らない。》という内面をあらわしているのだ、と私は解釈する。

 3コマ目以降でみゆきがレプリカントのきょんちゃんをハグしているのは、抱きしめることよりもむしろ視線を合わせないことが重要だ、と私は考える。つまり、もうレプリカントのきょんちゃんを見てもしょうがないんだ、というみゆきの意思のあらわれだと解釈する。

 4コマ目の「ずっと過去を見てたんだ」は、みゆきはレプリカントの今日子を通じて、(カッコ書き抜きの)過去の人間の今日子=「私が知ってるきょんちゃん」を見ていた、と解釈する。

『ごめんね』― 今日子への届かないメッセージ

 一見するとみゆきとレプリカントのきょんちゃんの対話に見えるが、『目の前にいるのに』の読解とあわせれば、実際のところはみゆきの独白、あるいは今ここにいない人間の今日子に対する届かないメッセージと読みたいところである。

 「私が正しいと〔…〕」は『笑わせないで』の参照によるみゆきの反省の表現だろうか。

(余談)あと2回でどうするどうなる?

 ここから先は最終回まであと2回の予想と言うか期待と言うかをつらつらと。

 少なくとも過去との決別は必要ではなかろうか。つまり、みゆきの手によるレプリカントのきょんちゃんの破壊である。それも『思わぬ報せ』以降、レプリカントの強度はアップしているので、明確にそうする意志をもって破壊する必要があるだろうし、それこそがまさに決別の描写になる。また『八方塞がり』のとおり、このレプリカントのきょんちゃんは最後の一体なので、未練との闘いも注目すべきか。個人的には確固たる意志で未練なくスパっとゴリっといってほしい。

 みゆきと今日子は円満に再会してほしいと願う(そうでなければ救いがない……)が、さすがにあと2回では厳しいか。あるとしても、みゆきが今日子を求めて駆けていくところまでだろうか。読者の視点では今日子がこの街にやってきたことはわかるところ、みゆきの視点ではそこまでいかなくとも、今日子は失踪で真に亡くなったと確定しているわけではないので、どこにいるかわからなくても必死で求めて駆けていく描写は可能そうではある。あとは、単行本には描き下ろしもあるようなので、そこで再会をじっくりと描く手もありそう。