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高畑勲とファンタジー

「映画を作りながら考えたこと2」を読みました。

この本は分厚く、読み進めるのが大変なのですが、読んでみると高畑さんのいろんな視点や教養の凄さに触れることができる内容になっており、高畑さんの作品が好きな人には読んでもらいたい一冊になります。今回はこの本に記載されていたファンタジーについて書いていきます。

以下、要約になります。

壮大なファンタジーが人々へのある意味での応援歌になることはわかる。
現実生活よりも何オクターブも高いトーンで繰り広げられる超リアルなファンタジーの中に没入し、主人公の超人的な活躍を自己に重ね合わせ、感情移入し、勇気と愛に感動し、生きる勇気を与えられる。

これは素晴らしいことだが、ファンタジーとはまるで違う現実の生活の中で果たして有効に生かされるのだろうか。

現在の日本ではあらゆる種類のファンタジー(アニメ、漫画、ゲームなど)が量産され、子供時代から浴びるように見続けている。

そして、美しく甘美な理想や心躍る夢想の快楽が刷り込まれることにより、現実や日常は曖昧でみすぼらしく、単調でありながら複雑怪奇なものにしか思えないし、ファンタジーのなかで実現されているようなイメージに至ることが「自己実現」のような気がして、自分についても他人についてもありのままの姿を認めることができない人たちも出てきている。

現実や日常をいったん素直に受け入れ、それを自分のものとして前向きに楽しみつつ、柔軟に対処したり作りかえていこうという気になれるはずもなく、現実生活で傷ついた傷ついた心を、ファンタジーで癒し直すしかなくなる。

ファンタジをみて、現実を受け入れにくくなる

現実で傷つく

ファンタジーで癒す

現実で傷つく

これは悪循環なのではないか。

昔は子供はファンタジーにひたっても、成長していくうちに現実とファンタジーの食い違いを学んでいかざるをえないので、良い思い出だけを胸に残しつつ、いつしかファンタジーからは卒業していってくれるものでした。

しかし今は、幸か不幸か、彼らの成長ともに、成長年齢に見合った新鮮で魅力的なファンタジーが次々と出てきているため、ファンタジーから卒業する機会を失ってしまう人々が出てきてしまった。

となりの山田くんで描いたもの

となりの山田くんではここまで書いてきたファンタジーによる弊害を、初雪のシーンと、暴走族のシーンで描いています。

初雪のシーンでは、父親のたかしが家族に雪が降ってきたぞと呼びかけるも、家族全員TVに釘付けで誰も見てくれない。現実世界の雪よりも、画面の中の大音響の猛吹雪の中、主人公が遭難しかかっている。そんなブラウン管の中の世界の方が魅力であるということをこのシーンでは描いています。

暴走族のシーンも、上手く注意できなかった中年男の脳裏によぎるのは幼い日に憧れた正義の味方、月光仮面の勇姿であり、主題歌です。本当は自ら返信して世の悪に立ち向かうはずなのに、現実世界では何もできず…という悲しい現実を描いています。


ファンタジーを浴び続けて、実人生が生きにくくなっている人に対して、自分のありのままの姿をいったん認め、まずそこから出発しましょうと「ラクに生きたら?」と、伝えてくれているのが、『となりの山田くん』なのです。

感想

最近だと転生もののアニメや漫画が流行ってるのが、それは現実世界での傷をファンタジーで癒すためだけに作られた作品のように思える。

かといって全てのファンタジーが悪かというそういうわけでもないと思うし、必ずしも卒業する必要があるかというとない気もする。

今は上手く言語化できていないので、高畑さんの物差しを借りながら、今後ファンタジーと向き合っていきたい。

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