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自由な発想を縛るもの

おはようございます!
 
原稿用紙、計算用紙、画用紙
というものがありました。
 
今では、
Ward、Excel、PowerPoint
と言います。
 
昔は、原稿用紙を前に、
結論とそれに至る説明の仕方を考えてから、
書き始めました。
 
計算用紙は、
やり直すのは大変な作業が伴うので、
何のために計算するのか、
証明したい仮説は何か、
証明するとどのような期待ができるのか
を考えてから取り掛かりました。
 
画用紙も
下書きをして、何度も書き直してから、
色をつけたものです。
 
デジタル化して今は、
とりあえずやってみる
というアプローチが多くなってきて、
論点を見つけ、仮説を考える作業が
後回しになってきました。
 
もう少し言うと、
論点・仮説を考える力が弱くなってきた
と私は思います。
 
このように、ひとつの道具を使うと
そのフレームワークに縛られ、
知らないうちに考え方まで
固定化してしまいます。
 
金槌を持つとすべてが釘に見える
と昔の人は言ったものです。
 
従って、私は
今使っているフレームワークを
便利なものとしながらも、
それから生じるクセを意識しようとする癖
があります。
 
そのフレームワークの最たるものは
言葉でしょう。
 
各民族の言葉は、文法が違いますから、
文法によって各民族の考え方のクセがある
と考えられます。
 
主語を省く日本語は曖昧で
それを察することを求めます。
英語は主語を省かないので、
察するよりも語ることを大切にします。
 
言葉自体で言えば、
違うものをまとめて同じものとする思考
が挙げられます。
りんごはひとつひとつ
色も大きさも違いますが
りんごだとひとくくりにします。
 
人間も性別、年格好、肌の色は違いますが、
ひとくくりに人間とします。
 
それが人類を発達させてきたのでしょうが、
同じであること、違うことを意識して、
宗教や民族間の紛争は絶えません。
 
自分を縛っているものは何なのかを
時々自覚するのも悪くはありません。
 
今日もよろしくお願いします。
 
安島

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